2021年1月15日金曜日

半藤一利さんが亡くなりました

 作家の半藤一利さんが12日、世田谷区の自宅で亡くなりました。90歳でした。

 半藤さんは旧制中学生だった453東京大空襲に遭い九死に一生を得まし。その後、父の郷里新潟県長岡市に疎開し、そこでも長岡大空襲を受けました
 東大文学部卒業後 文芸春秋に入り、「連合艦隊の最後」などで知られる軍事ジャーナリスト伊藤正徳の担当となり、戦争関係者を取材して証言を集めるなどしまし編集長出版局長を経て専務取締役を最後に退社し、その後は本格的な作家活動に入り、戦史の研究を進めるなどしました。

 近年は護憲派としての活動を積極的に行っており、「憲法9条を守るのではなく育てる」のを持論とし、「憲法は決して米国による押し付けでなく、戦後、新しく選ばれた議員による討議を経て、やっと作られたもの」と述べています。
 13年6月5日参議院議員会館で開かれた「第4回立憲フォーラム勉強会」に講師として登壇し当時の幣原喜重郎首相が、GHQ最高司令官であるダグラス・マッカーサー氏と会談した際に、憲法9条案を進んで提案したと述べました
  ⇒13年6月7日) 幣原首相がマ司令官に9条を進言
    (16年8月13日)「9条は幣原首相が提案」マッカーサー書簡に明記 ・・・他多数
 東京新聞の3つの記事を紹介します。
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半藤一利さん死去 作家「日本のいちばん長い日」
                         東京新聞 2021年1月13日
 作家の半藤一利さん(90)が十二日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。関係者への取材で分かった。
                    ◇ 
 一九三〇年、今の東京都墨田区に生まれた。旧制中学生だった四五年三月、東京の下町を襲った東京大空襲に遭い、逃げ惑った経験を持つ。その後、茨城県や父の郷里、新潟県長岡市に疎開した。
 五三年に東京大学文学部卒業後、文芸春秋に入社。「連合艦隊の最後」などで知られるジャーナリスト伊藤正徳の担当となり、戦争関係者を取材して証言を集めた。終戦前夜、昭和天皇の玉音放送を収めた玉音盤を巡る戦争継続派の抵抗を描いた「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日」は六五年に単行本化され、その後二度にわたり映画化された。
 「週刊文春」「文芸春秋」編集長を務め、ロッキード事件報道の指揮を執った。出版局長を経て専務取締役を最後に同社を退社した後は本格的な作家活動に。歴史探偵を自任し、「昭和史」「幕末史」「山本五十六」「日露戦争史」など歴史や歴史上の人物を取り上げた著書多数。ノンフィクション作家の保阪正康さんとの対談本も多い。近年は護憲や平和を訴える論陣で知られた。
 本紙では「本音のコラム」(二〇〇五年九月から〇六年八月)などを執筆した。


半藤一利さん死去 非戦の思い…歴史の大河に立つ知の巨人逝く
                         東京新聞 2021年1月13日
 ゲタを鳴らしてやってくる。夏はもちろん、寒い冬の日もカラン、コロンと。待ち合わせは自宅の近くの喫茶店。「いいですよぉ、遠慮します」「そこを何とか」。戦争史や皇室関係で取材のお願いの電話をすると、押し問答の末に結局いつも受けてくれた。(荘加卓嗣)

◆戦後ほどなく昭和史研究始め、関係者へ取材重ねる
 1時間取材して、あとの1時間は雑談。雑誌編集者だったから話題は豊富で歴史から政治、社会、ときに芸能と縦横無尽。酒が入ると、さらに上機嫌だった。あるときはインフルエンザの予防接種をした日だったため飲酒を控えるよう勧めたところ、「なんでこんな日にしちまったのか」と本気になって悔しがった。
 戦後まだ10年ほどのころから昭和史の研究を始め、関係者への取材を重ねた。戦争の記憶が生々しく、触れること自体がタブーの時代。「社内で保守ハンドウ(反動)と言われた」と笑う。「日本のいちばん長い日」は2度にわたって映画化されたが、1967年に映画化された時には取材した元軍人を試写に呼んだ。

◆東京大空襲で焼け死んだ人々…原点は戦争体験
 「その元軍人が『あれはバレていなかったな』と言いながら帰って行った。まだ明らかになっていないことがあるはず。それは何なのか」と「歴史探偵」の目を常に光らせた。原点は自らの戦争体験。東京大空襲の際、目前で焼け死んでいった人々を語るとき、いつもの明るさは曇った。
 そうした非戦の思いは世代が近い上皇ご夫妻とも共有し、上皇さまの在位中は何度も御所に呼ばれて戦争の話をした。その際「陛下の前で、ある軍人が『ケツ』を撃たれたという話をして、同席したかみさんに怒られた」といたずらっぽく笑ったこともある。

◆「満州事変の頃のような国際社会」と警鐘
 視座は昭和という東洋の島国の一時代に限らず、世界史的に広がっていた。自らが左翼扱いされるようになった日本社会の右旋回を憂い、米国にトランプ政権を誕生させた国際社会の内向き傾向を、満州事変の頃のようだと警鐘を鳴らした。
 コロナ禍でますます不透明さを増す世界。歴史の大河の中で私たちが立つ「今」を指し示してくれた洒脱しゃだつな知の巨人を失うことが、何とも不安で、怖い。


「国民的熱狂をつくってはいけない」半藤一利さんが残した昭和史5つの教訓
                          東京新聞 2021年1月13日
 「薩長史観」に彩られた明治150年、勝者が裁いた東京裁判、平成と象徴天皇、トランプ米大統領就任後の世界 ―。本紙は2015年から、半藤一利さんとノンフィクション作家の保阪正康さん(81)を招いて、上記のテーマで対談していただいた。終了後、一献傾けながら昭和史の秘話を伺う時間は至福のひとときだった。
 半藤さんは17歳の時、東京裁判を傍聴した。旧制高校の同級生だった元駐イタリア大使、白鳥敏夫の子息に誘われ関係者席に座った。A級戦犯に問われた軍人らを見て思ったという。
 「戦争のリーダーはこんなくたびれた老人ばかりかと驚いたこれじゃ勝てるわけない
 九死に一生を得た東京大空襲の体験。そして、編集者として数多くの旧軍人らに直接取材した経験が原点だった。失敗の記録を残さず、教訓を次代に継承しなかった陸海軍に厳しく視線を向けてきた。
 1963年に敗戦時に政府や軍中枢にいた人物や、前線にいた将兵ら28人を集めた座談会を開き、「日本のいちばん長い日」(⇒これは小説とは別のものとして公表した。内閣書記官長(現・官房長官)をはじめ、首相秘書官、外務次官、駐ソ大使、侍従、陸海軍の作戦・軍政の責任者。捕虜になった作家の大岡昇平氏、「玉音放送」を収録した録音盤を守ったNHKアナウンサーらがそれぞれの視点で戦争を語った。これだけのメンバーを集めたのも、歴史的な証言を残したいという強い思いからだろう。
 「大事なことはすべて昭和史に書いてある」と語っていた半藤さんは、そこから学ぶべき5つの教訓を挙げている。

 ①国民的熱狂をつくってはいけない。そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命
  である。
 ②最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリア
  リズムに徹せよ。
 ③日本型タコツボにおけるエリート小集団主義(例・旧日本陸軍参謀本部作戦課)の弊
  害を常に心せよ。
 ④国際的常識の欠如に絶えず気を配るべし。
 ⑤すぐに成果を求める短兵急な発想をやめよ。ロングレンジのものの見方を心がけよ。

 コロナ禍に苦しむ現在の社会でも、心にとどめたい教訓である。
 半藤さんは保阪さんと共著で刊行した「そして、メディアは日本を戦争に導いた」(東洋経済新報社)で「(戦時中の新聞は)沈黙を余儀なくされたのではなく、商売のために軍部と一緒になって走った」と厳しい目を向けている。私たちは決して同じ轍を踏んではならない。再び戦争をする国にしない。それが半藤さんの志を継ぐことであると思う。(編集局次長・瀬口晴義)