2021年1月7日木曜日

年のはじめに考える 民主主義が死ぬ前に(東京新聞)

 東京新聞が「年のはじめに考える 民主主義が死ぬ前に」とする記事を掲げました。
 日本学術会議会員の任命拒否問題では1000余りもの学会などから声明意見書が出されましたが、その中でも秀逸なものとして注目された「イタリア学会」(藤谷道夫会長 慶大教授)の声明を取り上げて解説したものです
 イタリア学会の声明は古代ローマ時代の事績を様々に紹介しつつ、現代における菅首相の根本的な誤りを具体的に分かりやすく指摘しています。
 記事の末尾に「声明全文」を添えましたので併せてご覧ください。
 
 ところで表題が「民主主義が死ぬ前に」となっていることに意外な感じを持つかもしれませんが、民主主義は「ファッショ/ファッシズム」によって比較的簡単に死にます。
 ドイツが、当時最先端の民主的憲法と誇ったワイマール憲法を持ちながら、ヒトラーによって完全なファッシズムが生みだされたのがそのよい例です。
 日本国憲法がよもや為政者によって繰り返し破られるとは誰しもが予想しなかったことですが、安倍前首相によって日本国憲法は大いに蹂躙されました。
 その後を受けた菅首相も、出だしから「学問の自由」を冒しただけでなくその理由を語ることを国会で65回も拒否しました。これも明らかな憲法63条違反です。
「民主主義が死ぬ」は、現実の問題といえます。
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年のはじめに考える 民主主義が死ぬ前に
                          東京新聞 2021年1月6日
「古代ローマの護民官がいたなら」と思いたくなります。日本学術会議会員の任命拒否問題には、さまざまな学会などの声明・意見書が出ました。昨年末で「千」の大台を超えたとか。中でもイタリア学会のそれは秀逸です。
 菅義偉首相には「学問は国家に従属する『しもべ』でなければならないという誤った学問観」があると徹底抗議する文面です。歴史の縦糸を縦横無尽に飛び回り、批判の矢を次々と繰り出します。
 万有引力や相対性理論から始まり、ガリレオ裁判、古代ギリシャの詩人アイスキュロス、カフカの「審判」、ソルジェニーツィンの「収容所群島」を持ち出し、首相の「手前勝手な考え方」を徹底的に暴く論旨は明快です。

◆公務員こそ権力批判を
 その中で登場するのが護民官です。政権の勝手な振る舞いから国民を守る公的機関こそ護民官だったと指摘します。「現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制(けんせい)するために作られた驚くべき官職」だったのです。
 公務員は国民全体の利益のために働くはずです。でも首相に人事を握られた日本の公務員は恐れをなして政権批判どころではありません。同学会は諭します。「政権が間違った判断をすれば、国民のために批判することは、むしろ公務員の義務」なのだと…。
 情報公開制度を始めたのもイタリアだったそうです。紀元前五九年、執政官に就任したカエサルが決めました
 この制度で元老院の速記録、議事録が作られ公開されると、貴族の権力は大いに削(そ)がれたといいます。隠れた不正ができなくなったためです。それまで国民は元老院でどんな議論が行われているかすら知らなかったのです。
 つまり情報公開が民主主義への一歩となっているのです。逆に言えば、民主主義を破壊する手段は「説明しないこと」と「情報を秘匿すること」です

◆虚偽答弁助長したPM
 現代ニッポンの政治状況を読み解く重要なカギです。安倍前政権も菅政権も、説明を粗末にする政治を長く続けているからです。
 菅氏らは学術会議問題が紛糾する臨時国会でも「お答えを差し控える」と何十回も繰り返しました。何も答えないのです。「問題ない」も「指摘は当たらない」のパターンもおなじみです。「仮定の質問には答えられない」も。
 事実と異なる国会答弁は常習的でしょう。「桜を見る会」では安倍晋三前首相は百十八回。学校法人・森友学園問題のときは、官僚の虚偽答弁が百八回です。
 この官僚に「PMより」のメモを渡していたのは安倍氏側でした。プライムミニスター(首相)の略です。書かれていた言葉は「もっと強気で行け」でした。公文書改ざんや隠蔽(いんぺい)、官僚の忖度(そんたく)、議会軽視も横行しています。

 憲法は権力の集中と乱用を防ぐ装置ですが、憲法だけでは民主主義を守るには不完全です。「質問に誠実に答える」「ウソをつかない」など、当たり前の礼儀や不文律、慣習が大事なのです。政党同士の寛容さと自制心も…。
 「柔らかいガードレール」と呼ばれます。レビツキーとジブラットという二人の米ハーバード大教授が著した「民主主義の死に方」(新潮社)に出てきます。
 <どれほどうまく設計された憲法だとしても、それだけで民主主義を護(まも)ることはできない>
 <うまく機能する民主主義のすべては、憲法や法律には書かれていないもの、つまり広く認知・尊重される非公式のルールに支えられている>
 不文律の規範は「民主主義の柔らかいガードレールとして役に立つ」のだと…。それを考えると、いかに安倍・菅政権が柔らかいガードレールを破っていることか。
 臨時国会を野党が求めても開かない、あるいは野党に優先させていた質問時間の慣習を破る−、さまざまな横暴によって、不正あるいは後ろめたい政策への批判を国民に見えにくくしているのです。
 二人の教授は歴史を振り返り、「悲劇的な民主主義の崩壊が起きるまえに、基本的な規範が失われるケースが数多くあった」事実を指摘します。その後の政治体制は独裁や軍政などに移ります。
 反民主主義、つまり個人や社会、思想を権威に服従させる権威主義に向かいます。全体の利益を個人の利益より優先し、全体に服従させる全体主義=ファシズムにも通じる道です。民主主義の「死」です

◆権力が正しさ決めるな
 イタリア学会は学術会議問題の本質について「時の権力が何が正しく、何が間違っているかを決めている」と批判しています。的を射ています。国民には説明せず、情報を秘匿しつつ、異論を許さぬ政治手法には、とことん抗(あらが)いましょう。民主主義が死ぬ前に。

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イタリア学会による声明 全文 (太字強調部分は原文に拠ります)

      「日本学術会議会員任命拒否についてイタリア学会による声明」

日本学術会議が推薦した第25期会員候補者105名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、これに断固として異議を唱えます。《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが民主主義の基本だからです。情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。

 令和2年10月17日
 イタリア学会会長
 藤谷道夫(慶應義塾大学教授)
                    
イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第3条)イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、今回の声明を発した理由を簡単に説明したい。
 菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには2つの大きな誤謬が隠されている。学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならないという誤った公民観である
 学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究とみなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、時の政権のためのものではない。判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
 国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた驚くべき官職である。
 次に、菅首相は憲法23条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)権力が学問世界に介入する事例は西洋史に無数に見出される。1632年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス8世とイエズス会士はこれに激怒し、同書を禁書にした。ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。そしてフィレンツェ近郊で残りの9年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》について自分の権限で判断したと告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解される存在ではない》と認めたのである。問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために1人につき月2万円余の交通費を用意する程度のことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の何ものでもない。」(小林節名誉教授)
 私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法63条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975年の内閣法制局長官)と見解を示している。しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
 世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前59年)、まずカエサルが決めたことは、元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1巻「カエサル」20)これが民主主義への第1歩である。それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。一方、その時代から2000年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、人事異動のプロセスも民草には窺い知ることもできなかった。おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。
 人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。紀元前5世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。この時、彼を連行する2人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。二人はKra/toj(クラトス)とBi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。ギリシャ語のビアーやイタリア語のviolenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・Kは、ある日見知らぬ2人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される(この2人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、これが現実になったのが、ソヴィエトである。ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。なかには権力に忖度し、取り入る者が出て来る。こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。たかが6人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。公金は自民党のためのものではなく、国民のためのものである。国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
                               (文責:藤谷道夫)

   ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、
   私は声を上げなかった。
   なぜなら私は共産主義者ではなかったから。
   社会民主主義者が牢獄に入れられた時、
   私は声を上げなかった。
   なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。
   彼らが労働組合員を攻撃した時、
   私は声を上げなかった。
   なぜなら私は労働組合員ではなかったから。
   ユダヤ人が連れ去られた時、
   私は声を上げなかった。
   なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。
   そして彼らが私を攻撃した時、
   私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。

通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、凱旋式があった。(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」現代の独裁者たちに対しても同じように言うことができたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
        (Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp.141-142)

「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前400/4頃-325/3頃)は、世の中で最も素晴らしいものは何かと訊かれたとき、《何でも言えることだ(言論の自由parrhsi/aパッレーシア)》と答えた。」
         ~ディオゲネース・ラーエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』69~