2014年5月18日日曜日

集団的自衛権 無理な行使事例/情緒論/9条の空文化

 16日、17日の新聞各紙は、ごく一部を除いて安倍首相の集団的自衛権行使容認への姿勢を批判する記事や社説で埋まりました。
 国の「あり方」の根本的な変更を、一内閣の閣議決定で強引に進めようとしているのですから当然のことです。
 
 ここでは、「集団的自衛権の行使事例が説得力を欠いている」とする北海道新聞の社説(17日)、「集団的自衛権 情緒論に流されまい」とする信濃毎日新聞の社説(17日)、「憲法9条を空文化させるな」とする新潟日報の社説(16日)を紹介します。 
 
 いずれも安倍首相の欺瞞に満ちた説明を厳しく批判しています。
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(社説) 集団的自衛権 法制懇報告書 説得力を欠く行使事例
北海道新聞 2014年5月17日
 集団的自衛権行使は本当に必要なのか。安倍晋三首相の私的諮問機関「安保法制懇」の報告書を読めば読むほど疑問がわいてくる。 
 
 集団的自衛権行使が必要とされる事例は、いずれも個別的自衛権で対応できたり、現実性が乏しかったりするものばかりだ。 
 安保法制懇のメンバー14人は全員が行使容認論者だ。憲法解釈変更ありきの議論で無理やり具体例をひねり出したのだろう。 
 政府・与党は客観性と中立性を欠いた報告書を基に、行使容認の判断をしてはならない。 
 安保法制懇は第1次安倍政権時にまとめた報告書に盛り込んだ公海上での米艦防護と、米国を狙った弾道ミサイル迎撃に加え、今回新たに近隣有事の際の船舶検査、シーレーン(海上交通路)を念頭に置いた機雷除去を挙げた。 
 公海上での米艦防護について、政府は2003年の国会答弁で、日本を防衛する米艦が攻撃された場合「わが国への武力攻撃の端緒、着手と判断されることがあり得る」とし、個別的自衛権で対処できる可能性を認めている。 
 米国を狙った弾道ミサイル迎撃は、現在の技術では不可能だ。 
 報告書は「米国が攻撃を受けているのに、日本が十分対応できなければ信頼は失われる」という。 
 だがこれは、日本が多大な負担と犠牲を払って米国に基地を提供している事実を無視した主張だ。 
 船舶検査は朝鮮半島有事が念頭にある。専門家は、米韓両国と北朝鮮の実力差が大きく広がる中、武力を使わない臨検などを認める周辺事態法を超える日本の支援は不必要と指摘している。 
 機雷除去は、日本が輸入する原油の8割が通る中東のホルムズ海峡を機雷封鎖された場合を想定している。戦争状態の時に日本の商船が海峡を航行するとは考えにくい上に、機雷敷設国が日本を攻撃対象としているなら個別的自衛権の問題になる。 
 こうした説得力を欠く事例しか示せないことは、集団的自衛権行使の必要性の乏しさを逆に証明していると言えよう。 
 首相は報告書提出を受けた記者会見で、北朝鮮の弾道ミサイルが「日本の大部分を射程に入れている。皆さんの街も例外ではない」と強調したが、これも個別的自衛権で対処すべきケースだ。 
 脅威をあおって国民の目をくらますような発言は慎むべきだ。
 
 
安保をただす 集団的自衛権 情緒論に流されまい 
信濃毎日新聞 2014年5月日17日
 安全保障をめぐる法整備について与党協議や政府の検討が本格化する。今後の議論を見ていく上で二つの点に気を付けたい。
  一つは、検討課題となる事例の中に集団的自衛権とは関係のないものが含まれていること。二つ目は、「国民を救えなくていいのか」といった情緒的な訴えが前面に出る危うさだ。
  国連平和維持活動(PKO)に参加中の自衛隊は、武装集団に襲撃された日本の非政府組織(NGO)関係者らから救援を求められても、現状では駆け付けて助けることができない―。
  そう聞かされ、「集団的自衛権は必要だ」と思った人がいるかもしれない。記者会見で安倍晋三首相がパネルを使って説明した「駆け付け警護」といわれる事例だ。
  安倍政権による安保政策見直しには、さまざまなテーマが混在している。大きく分けると、(1)集団的自衛権(2)集団安全保障(3)グレーゾーン対処―の三つになる。
  (1)は、米国などが攻撃を受けたときに日本が反撃することだ。(2)は、他国を侵略した国に対して国連加盟国が団結して制裁を加えることをいう。(3)は、武装集団による離島占拠への対応など日本の防衛に関わるものだ。
  駆け付け警護は、国連の活動という点で(2)に関わる。PKO協力法の武器使用基準の問題だ。慎重な議論が必要なのは当然だが、これまでの政府の憲法解釈をひっくり返す集団的自衛権の行使容認とは関係ない。
  テレビで見て勘違いした人たちがいてもおかしくない。集団的自衛権が会見の最大の関心事だったからだ。首相から、別問題だという丁寧な説明はなかった。
  首相のもう1枚のパネルは、紛争が起きた国から日本人を輸送する米艦船が攻撃されても今は守れないと説明していた。幼い子を抱く女性などが描かれた。国民を守るための集団的自衛権だと印象付けたかったのだろう。
  こうした事態がどの程度、現実に起こり得るのか、吟味する必要がある。あったとしても、日本人が乗っていることから日本への攻撃とみなして個別的自衛権で対応できるとの見方もある。
  「会見をご覧になっている皆さんのお子さんやお孫さんがこうした立場になるかもしれない」。首相は、そう呼び掛けた。非現実的な想定や情に訴える説明に乗せられないよう、冷静に見極めたい。
 
 
社説集団的自衛権 「9条」を空文化させるな
新潟日報 2014年5月16日
 憲法の骨格が大きく揺らごうとしている。あまりに強行な政策変更だ。国民から広く理解が得られると思っているのだろうか。
 日本が直接攻撃されなくても、他国を守るために武力を使う集団的自衛権の行使について、安倍晋三首相が会見で見解を述べた。
 首相は安全保障の環境が厳しくなったことを理由に「私たちは何をなすべきか」と呼び掛け、行使容認に強い意欲を示した。
 これは戦争放棄を明記し、海外での武力行使を禁じる憲法9条の解釈変更というより、9条を空文化するものだ。
 集団的自衛権の行使について、政府は1981年に「憲法上許されない」とし、これが歴代内閣の公式見解として定着していた。行使の容認は、確立された政府見解への重大な挑戦といえよう。
 
◆容認へ突き進む首相
 安倍氏は集団的自衛権には、与党の公明党から慎重論が出ても、行使容認に向けて前のめりになって突き進んできた。第1次政権時から、安倍氏の悲願だった。
 会見に先立ち、首相肝いりの「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)から報告書を受け、安倍氏が同じ日に「基本的方向性」という表現を使って説明したのだ。
 法制懇のメンバーには国際法や安全保障が専門の委員が並び、ほとんどが行使容認には前向きであり、「偏ったメンバー」との批判も野党から出た。
 法制懇の報告書は、集団的自衛権の行使は9条が定める「必要最小限度」の自衛権の中に含まれると解釈すべきだとした。
 これまでの政府見解と整合しているのだから、行使容認に道を開くことができるという理解に苦しむ不思議な論理だ。
 また、国の存立のために必要な自衛権行使を認めた59年の砂川事件の判決を「特筆すべき」と表現している。従来の政府見解の確立より、ずっと古い事件だ。
 ならば、行使が認められる「最小限度の範囲」とはどのような事例なのか。報告書には集団的自衛権のほかに集団安全保障、個別的自衛権のグレーゾーンと3分野を示している。
 これを受けて、首相が会見でその事例を「基本的な方向性」として自ら挙げたわけである。周到な段取りに映る。
 
◆なぜ解釈変更を急ぐ
 首相は事例の一つとして国連平和維持活動(PKO)での「駆け付け警護」に触れた。これは集団安全保障の分野だろう。
 さらに、紛争国から逃げだそうとする日本人を乗せた米国の船を自衛隊が防衛、救助することなどを繰り返し例示した。
 人道的な観点を強調し、分かりやすい事例を挙げることで、武力行使の「容認ありき」の姿勢を和らげようとしたのだろうか。
 この新しい憲法解釈について、政府は今国会中の閣議決定を目指すという。なぜ、そんなに急ぐ必要性があるのか。
 自民、公明の与党は20日から協議し、武力攻撃には至らない事態のグレーゾーンから議論する。対立点が少ないからだろうか。
 だが、憲法解釈の見直しには慎重な公明との協議は難航するはずだ。山口那津男代表は、連立政権の最大の優先課題は「経済再生や東日本大震災被災地の復興、社会保障の維持」と述べている。
 筋が通っている話であり、誰からも異論は出まい。行使容認で頭がいっぱいに見える安倍氏をけん制した発言にほかならない。
 
◆国民に問うべき課題
 こうした安倍氏のタカ派的な姿勢に、身内の自民党からも疑問を投げ掛ける動きも出てきた。注目すべきことだ。
 野田聖子総務会長が月刊誌のインタビューで、憲法解釈を変更する閣議決定について、拙速な議論では「全会一致が原則の総務会を通ることはできないだろう」と、くぎを刺したのだ。
 当然のことだが、中国や韓国からも行使容認について反発が出よう。関係悪化に歯止めがかからなくなることが懸念されよう。
 米国は、先月の首脳会談でオバマ大統領が行使容認の検討に支持を表明したが、これは日本側が強く要請した経緯がある。隣国への影響を考えれば、本音では米国も歓迎しないだろう。
 憲法解釈の見直しといえば、穏やかに聞こえるが、要は法の理屈を曲げて、戦争ができる国にすることではないのか。見直したいのなら、堂々と改憲の是非を国民に問うべきである。
 時の為政者が代わるたびに、解釈が変更されるのは、憲法が国家権力を制限する「立憲主義」を危うくすることだ。到底、許されることではない。