第5回目は、69年前の1945年5月29日、13歳のときに横浜大空襲を体験した福田三郎さん(82)です。
空襲体験は「すさまじく、恐ろしく、絶対言いたくない」と長い間家族にすら話しませんでしたが、戦後60年の春、横浜大空襲写真展の記事を見てから考えを変え、今は地元の小学校などで毎年、体験を語っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
9条とわたし<5>
横浜大空襲を体験 福田 三郎さん(82) 戦争、勝者も敗者もない
東京新聞 2014年5月8日
午前九時半ごろ、空襲警報で外へ出ると、空一面にB29爆撃機が飛んでいた。高台から黒煙が上がり、炎が迫る。「五月晴れの青空が、あっという間に真っ暗になった」
友人と運河のいかだに飛び込んだ。ぬらしたタオルで口と鼻を押さえたが、横なぐりの熱風と火の粉で立っていられない。身をかがめ、駅北側の青木橋の方へ逃げた。道に倒れた人たちに「水をくれ」「助けてくれ」と呼ばれ、足を引っ張られた。髪の毛が焦げて男か女かも分からない人、皮膚が焼けただれ足を引きずって歩く人…。「地獄とはこういうことか」
バババババッと落ちる焼夷(しょうい)弾を目の前で逃れた。でも、神奈川区の自宅は焼失していた。
八月十五日、終戦を告げる玉音放送を、横浜駅東口のコンクリートの床にひざまずいて聞いた。雑音でほとんど聞き取れなかったが、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」という言葉に、周りの人が泣き出した。
四七年五月、戦争放棄を柱とする新憲法が施行された。「子供だから難しいことは分からない。でも、もう二度と戦争をしないで済むと感じた」。だから今、その憲法を解釈改憲などで変えようとする動きに憤る。
「何であんな恐ろしい時代に逆戻りしなくてはいけないのか。戦争は勝者も敗者もなく、みんな悲しい思いをする。どんなきれいごとを言ったって、殺し合いなんですよ」
空襲は「すさまじく、恐ろしく、絶対言いたくない話」で、長い間家族にすら話さなかった。しかし、戦後六十年の春、横浜大空襲写真展の記事を見て、「元気なうちに、誰かに話さなければ」と考えを変えた。
今は地元の小学校などで毎年、体験を語る。時代が違い過ぎて、百パーセント理解してもらえないのは無理もない。でも、戦争の恐ろしさは分かってくれると信じている。
「二度と戦争をしてはならないと、子供たちに広めていかなくては。体が続く限り、続けるつもりです」 (橋本誠)
<横浜大空襲>
1945年5月29日朝、米軍のB29爆撃機約500機と戦闘機約100機が横浜市に来襲。午前9時20分ごろ~10時30分ごろの1時間余に、中、南、西、神奈川区などに約40万発の焼夷弾を投下した。警察発表で死者3649人、被災者31万人。その後の調査で、死者は8000人に達すると推定されている。