2014年5月9日金曜日

「9条とわたし」 第5回 (東京新聞神奈川版)

 第5回目は、69年前の194529、13歳のときに横浜大空襲を体験した福田三郎さん(82)です。
 空襲体験は「すさまじく、恐ろしく、絶対言いたくない」長い間家族にすら話しませんでしたが、戦後60年の春、横浜大空襲写真展の記事を見てから考えを変え今は地元の小学校などで毎年、体験を語っています
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9条とわたし<5>
  横浜大空襲を体験  福田 三郎さん(82) 戦争、勝者も敗者もない
東京新聞 2014年5月8日
 午前九時半ごろ、空襲警報で外へ出ると、空一面にB29爆撃機が飛んでいた。高台から黒煙が上がり、炎が迫る。「五月晴れの青空が、あっという間に真っ暗になった」
 友人と運河のいかだに飛び込んだ。ぬらしたタオルで口と鼻を押さえたが、横なぐりの熱風と火の粉で立っていられない。身をかがめ、駅北側の青木橋の方へ逃げた。道に倒れた人たちに「水をくれ」「助けてくれ」と呼ばれ、足を引っ張られた。髪の毛が焦げて男か女かも分からない人、皮膚が焼けただれ足を引きずって歩く人…。「地獄とはこういうことか」
 バババババッと落ちる焼夷(しょうい)弾を目の前で逃れた。でも、神奈川区の自宅は焼失していた。
 八月十五日、終戦を告げる玉音放送を、横浜駅東口のコンクリートの床にひざまずいて聞いた。雑音でほとんど聞き取れなかったが、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」という言葉に、周りの人が泣き出した。
 四七年五月、戦争放棄を柱とする新憲法が施行された。「子供だから難しいことは分からない。でも、もう二度と戦争をしないで済むと感じた」。だから今、その憲法を解釈改憲などで変えようとする動きに憤る。
 「何であんな恐ろしい時代に逆戻りしなくてはいけないのか。戦争は勝者も敗者もなく、みんな悲しい思いをする。どんなきれいごとを言ったって、殺し合いなんですよ」
 空襲は「すさまじく、恐ろしく、絶対言いたくない話」で、長い間家族にすら話さなかった。しかし、戦後六十年の春、横浜大空襲写真展の記事を見て、「元気なうちに、誰かに話さなければ」と考えを変えた。
 今は地元の小学校などで毎年、体験を語る。時代が違い過ぎて、百パーセント理解してもらえないのは無理もない。でも、戦争の恐ろしさは分かってくれると信じている。
 「二度と戦争をしてはならないと、子供たちに広めていかなくては。体が続く限り、続けるつもりです」 (橋本誠)
 
<横浜大空襲> 
1945年5月29日朝、米軍のB29爆撃機約500機と戦闘機約100機が横浜市に来襲。午前9時20分ごろ~10時30分ごろの1時間余に、中、南、西、神奈川区などに約40万発の焼夷弾を投下した。警察発表で死者3649人、被災者31万人。その後の調査で、死者は8000人に達すると推定されている