2014年5月12日月曜日

レーン・宮沢事件 検証し、語り継がねば

 北大生が戦時中 官憲によってでっち上げられた冤罪で投獄された事件:「レーン・宮沢事件」は、秘密保護法(当時は軍機保護法)をいくらでも拡大適用することが可能である例として、北海道新聞がこれまで度々取り上げており 本ブログでも2回ほど紹介しました
   2013年12月3日宮沢・レーン事件
2014年2月22日レーン・宮沢事件の宮沢氏の妹が来日 秘密保護法を危惧
 
 北大2年生の宮沢弘幸さんが尊敬していた北大教官のレーンさんに樺太旅行の話した際に、偶然見かけた根室の海軍飛行場のことを交えたのが国家機密の漏洩に当たるとされて、太平洋戦争が開始された1941年12月8日の朝レーン夫妻とともに逮捕されました。
 宮沢さんはレーン氏とともに懲役15年の判決を受けて極寒の網走刑務所に収容され、そこで栄養失調から結核になり終戦後に釈放されたもののその4ヵ月後に27歳の命を閉じました。獄死させられたに近いものでした。
 (レーン夫妻は入獄の数ヵ月後に、日米の犯罪者交換の対象となってアメリカに帰国することが出来ました。このため、アメリカで拘束されている日本側の要人を帰国させるために、日本の官憲が宮沢・レーン事件をでっち上げたとする見方もありました)
 
 北海道新聞は11日に社説「レーン・宮沢事件 検証し、語り継がねばで取り上げましたが、今回はやや趣が違っていて、「北大が事件を冤罪と認定し、宮沢さんの名を冠した賞を創設することで遺族と合意した」ことを朗報としながら、大学逮捕後、宮沢さんに支援の手を差し伸べず退学にしたことを一方的だとする、遺族や支援団体の疑問になぜ答えてこなかったのかと、大学に対して強い疑問を呈しています
 
 人権を侵害され孤立無援に追い込まれた学生に、全く救いの手を差し伸べようとしなかった大学は、如何に戦時下であったとはいえあまりにも冷淡であるとして非難されて当然でしょう。しかも戦後約70年になるのに及んでようやくこの対応ということで、その点もまた非難の対象になります。いわゆる官立大学が如何に戦時下の強圧的体制に対して無力であったのか、またそれに迎合もしたのかの良い例です。 
 
 日本のメディアも全く同様に無力でしたが、見過ごせない側面として、「日露戦争で、戦争が新聞の売り上げを伸ばすことを学んだ」ジャーナリズムが、“戦争は商売になる”(=新聞の売れ行きが2倍にも3倍にもなる)からと、戦争を煽りついには日本を太平洋戦争に導いたという事実があります。
 このことはNHKも特集番組で検証していて、戦後には新聞は一応は反省を言を述べましたが、そんなことはとうの昔に忘れ去っています。それが今のメディアです。
 
 北海道新聞の社説と併せて、田中龍作氏の「BLOGOS2013年11月18日)」の記事: 「そして、メディアは日本を戦争に導いた を紹介します。 
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(社説) レーン・宮沢事件 検証し、語り継がねば
北海道新聞 2014年5月11日
 北大生が戦時中、渦中に巻き込まれた「レーン・宮沢事件」は、特定秘密保護法の審議とともに再び歴史の暗部に光を当ててきた。 
 年内にも施行される同法の乱用を防ぐためにも、事件対応の検証とその公表を強く求めたい。
 
 スパイ冤罪(えんざい)事件として知られる同事件で、スパイの容疑で懲役刑に処された宮沢弘幸さんの名誉回復がようやく緒に就いた。 
 北大が事件を冤罪と認定し、宮沢さんの名を冠した賞を創設することで遺族と合意したからだ。 
 一歩前進ではあるが、手放しで喜ぶわけにはいかない。 
 大学は逮捕後、宮沢さんに支援の手を差し伸べず、退学にした。それを一方的だとする遺族や支援団体の疑問になぜ答えてこなかったのか。今後、誠実な対応が求められる。 
 人権を侵害され、孤立無援に追い込まれた宮沢さんのような学生を二度と出してはならない。事件の対応に反省点がなかったか。それを明らかにするのが責務だ。
 
 「事件」は太平洋戦争が勃発した1941年12月に起きた。 
 工学部2年生だった宮沢さんが旅先で知った根室の海軍飛行場などに関する周知の事実を、親交のあった米国人英語教員のレーン夫妻に話したことが問題とされた。 
 夫妻とともに軍機保護法違反容疑で逮捕され、懲役15年の判決を受け、敗戦後の47年、27歳で衰弱死した。事件は戦後、「見せしめのための弾圧だった」との見方が定着している。
 
 だが、事件の検証に北大は逃げ腰の姿勢を続けてきた。初の本格調査が数年前に行われたことを考えれば、事件そのものを無視してきたとの見方も成り立つ。 
 宮沢さんの退学願が突然、発見されたのも、あまりに不自然と言わざるを得ない。 
 冤罪事件の重大性と遺族らの心情を考えれば、大学側の認識の甘さを問われても仕方あるまい。 
 事件を風化させてはならない。北大は、在学生がスパイに仕立てられた戦時中の過酷な状況を、あらゆる手段を使って学生に伝承していく努力が不可欠だ。 
 
 レーン・宮沢事件は、周知の事実であっても「機密」と認定すれば逮捕を可能とする恣意(しい)的運用の怖さをみせつけたと言える。 
 昨年成立した特定秘密保護法も同様だ。運用次第では冤罪を生み、言論弾圧に利用されかねない。 
 戦前に回帰するような国家統制を回避するには、法の撤廃を粘り強く求めていくべきだ。
 
 
そして、メディアは日本を戦争に導いた
田中龍作 BLOGOS 2013年11月18日 
 「背筋が寒くなると同時にマスコミに怒り」。
 歴史に詳しい2人の作家(半藤一利、保阪正康両氏)が対談した『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(東洋経済新報社刊)を読み進めるうちに、こうした思いがこみ上げてきた。
 
 同著は半藤氏が自民党の改憲草案に愕然とするところから始まる―
 表現の自由を定めた憲法21条の1項は原行憲法と何ら変わりない。だが「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」とする第2項が新設されている。
 半藤氏はこれを報じた新聞をビリビリと引き裂いてしまった、という。その怒りを次のように説明する―
 「公益」「公の秩序」とはいくらでも広げて解釈が可能である。要するに「権力者」の利益と同義であり、それに反するものは「認められない」。すなわち罰せられる、弾圧されることは明らかだ。昭和史が証明している。
 
 改元から昭和20年8月15日までの昭和史において、言論と出版の自由がいかにして奪われてきたことか。それを知れば、権力を掌握するものがその権力を安泰にし強固にするために拡大解釈がいくらでも可能な条項を織り込んだ法を作り、それによって民草からさまざまな自由を奪ってきたことがイヤというほどよくわかる。権力者はいつの時代にも同じ手口を使うものなのである。
 
 改憲草案の9条2項は「国防軍創設」を明言し、集団的自衛権の行使を可能にする。不戦の誓いである憲法9条を戦争ができる条文に変えているのが、改憲草案の真髄だ。安倍政権の真骨頂でもある。
 11日、TVキャスターたちが「秘密保護法反対」の記者会見を開いた。筆者が「遅きに失したのではないか?」と質問すると、岸井成格氏(TBSに出演/毎日新聞特別編集委員)は「こんな法案がまさか通るとは思っていなかった」と説明した。
 ベテラン政治記者の岸井氏が、自民党の改憲草案を読んでいないはずはない。安倍晋三首相のタカ派的性格を知らぬはずはない。
 
 半藤氏と保阪氏はメディアの戦争責任を厳しく追及する。軍部の検閲で筆を曲げられたと捉えられているが、そうではない。新聞は売上部数を伸ばすために戦争に協力したのである
 
 日露戦争(1904年~)の際、「戦争反対」の新聞は部数をドンドン減らしたが、「戦争賛成」の新聞は部数をガンガン伸ばした。日露戦争開戦前と終戦後を比較すると次のようになる―
   『大阪朝日新聞』    11万部         →    30万部、
   『東京朝日新聞』   7万3,000部  →    20万部、
   『大阪毎日新聞』   9万2,000部  →    27万部、
   『報知新聞』       8万3,000部   →    30万部
   『都新聞』         4万5,000部   →    9万5,000部
 いずれも2倍、3倍の伸びだ。半藤氏は「ジャーナリズムは日露戦争で、戦争が売り上げを伸ばすことを学んだ」「“戦争は商売になる”と新聞が学んだことをしっかりと覚えておかねばならない」と指摘している。
 
 半藤氏はとりわけ朝日新聞に厳しい。満州事変が起きた昭和6年当時に触れ「朝日新聞は70年社史で“新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた”とお書きになっているが、違いますね。商売のために軍部と一緒になって走ったんですよ」と。
 
 『大阪朝日』は満州事変直後までは反戦で頑張っていたが、不買運動の前に白旗をあげた。役員会議で編集局長が「軍部を絶対批判せず、極力これを支持すべきこと」と発言した。発言は憲兵調書に残っている。会社の誰かが憲兵に会議の内容を渡した、ということだ。
 
 「民主主義のために新聞・テレビが戦っている」などと ゆめゆめ 思ってはいけない。ブッシュ政権のイラク侵攻(2001年)を小泉首相が支持すると、日本のマスコミはこぞって戦争賛成に回った。
 国民に消費税増税を押し付けながら、自らには軽減税率の適用を求める。これがマスコミの実態だ。彼らは部数を伸ばし視聴率を上げるためなら、国民を戦争に導くことも厭わない。