右翼の人たちは大抵「大東亜戦争 聖戦論」を唱えます。あの戦争はアジアの植民地を解放するために行ったものであるというわけで、そこでは当然南京大虐殺はなく、従軍慰安婦制度もありません。
しかしそのように主張する人たちは必ず戦争を体験しなかった人間で、実際に戦地に赴いた人たちからはそうした話は聞かれません。
安倍晋三首相がそのいい例で、彼に寵愛された稲田朋美元防衛相もまたそうです。
彼女は、南スーダンPKO派遣に際して、大規模な戦闘を「戦闘ではなく衝突」と答弁し、「戦闘」としなかった理由を「憲法9条上の問題になるから」と平然と言ってのけるなど、およそ大臣や法曹の風上にも置けない人物でした。。
途中で退場させられたのは当然ですが、それから半年も経たない今月13日、都内で行われた「外務省 目覚めよ! 南京事件はなかった」という講演会に講師として登場し、「日本の名誉を守るとは、いわれなき非難や事実と違うことに断固として反論することだ」などと語りました。
そしてそこで二階堂幹事長に「女性総理の最短距離にある」と持ち上げられ、本人は「一議員で終わりたくない」と本心を明かしたということです。
彼女には、防衛相時代にどんな国会答弁をしてそれを国民がどう見たのかの自覚もなければ、「9条上の問題になるから『戦闘』とはいえない」という答弁が、小学生並みのものであるという自覚もないようです。
まことに安倍首相とは好一対で、この日本はいま、そんな人たちが戦前回帰を目指して国の舵を切ろうとしているわけです。
LITERAが、末期ガンと闘いながら反戦映画『花筐/HANAGATAMI』を完成させた大林宣彦監督と、その作品に賛辞を寄せた山田洋次監督を取り上げました。
大林監督は、NHK Eテレで放送されたドキュメンタリー『青春は戦争の消耗品ではない 映画作家 大林宣彦の遺言』のなかで、「みんながしっかりと怯えてほしい。~ 怯えなきゃいかん。戦争というものに対して」と語った人で、山田監督は、満州で終戦を迎えその後の混乱の中で辛酸をなめた人です。
「浅薄さ」しか見えない「安倍ー稲田ライン」とは正に好対照をなす、真実を知り、真実を見つめる人たちです。
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山田洋次監督が大林宣彦監督にエール!「今の支配者は戦争を知らない」
「戦争の恐ろしさを発信し続けなくては」
LITERA 2017.12.20
大林宣彦監督が末期ガンと闘いながら撮った最新作『花筐/HANAGATAMI』が公開になった。
『花筐/HANAGATAMI』は、檀一雄が1937年に出版した小説『花筐』を原作とした日米開戦直前の青春群像劇だが、登場人物の恋や生活なども丁寧に描かれ、平和と反戦のメッセージと人間を描くドラマ、エンタテインメントを見事に両立させた作品となっている。大林作品の中でも「傑作」との呼び声が高い。
そんな大林監督作品『花筐/HANAGATAMI』に、あの山田洋次監督がメッセージを送っている。大林監督と山田監督は、映画作家としての来歴も作風も大きく違っており、これまで接点らしきものを聞いたことがなかったが、先日発売された「キネマ旬報」(キネマ旬報社)2017年12月下旬号に山田監督の「大林宣彦さんへ」という談話原稿が掲載されたのだ。
だが、その記事を読んで、山田監督がなぜ、あえてメッセージを送ったかが理解できた。山田監督は大林監督の才能をかねてより認め、『花筐/HANAGATAMI』が映画として優れていることを表明しつつも、こう語っている。
〈この映画の底流には大林さんの思想がある。映画を見ているとそれが液体のように滲んでくる。その思想の根底には、戦争中を知っている世代の、僕もその世代だけれど、特有のものがある。
敗戦というこの国の大きな転換期、戦後のすごい生活苦を体験している者として、戦争がどんなに恐ろしいものか、それを警告し発信し続けなくてはいけない。いま世界中に戦争の匂いがしだしているから、それをどんなにくりかえして言っても、言いすぎることはない。そういう考え方が大林さんの中に確固としてある。〉
そう、山田監督は大林監督の戦争への向き合い方に共感し、エールを送ったのだ。
山田洋次「戦争は恐ろしいものだって、学校で教えられているとは思えない」
山田監督といえば、長崎の原爆で亡くなった息子の霊(二宮和也)と母親(吉永小百合)の不思議な日々を描いた2015年公開の映画『母と暮せば』も記憶に新しいが、インタビューでもしばしば「戦争体験」「反戦メッセージ」を語っている。
1931年に大阪で生まれた山田洋次監督は、機関車製造会社のエンジニアだった父が南満州鉄道株式会社に転職したのをきっかけに、2歳のときに満州へ引っ越している。それ以降、父の転勤に合わせて各都市を転々とし、13歳のときに大連で終戦を迎えた。
当時のエリート職にあたる満鉄社員の父の給料は良く、少年時代の山田監督は何ひとつ不自由のない暮らしを送っていたという。戦況が悪化してからも、空襲に怯えながら日々を暮らさなければならないような内地とはずいぶん違った暮らしを送っていた。「本の旅人」(KADOKAWA)2011年4月号のインタビューでは、大連から見た内地の状況を「対岸の火事といった感じでした」と説明している。
しかし、終戦を迎えて状況は一変。父は職を失い、家も八路軍に接収されると、一家は食料や燃料にも困る日々を送ることになる。それからは衣類や古本などを兄弟3人揃って街角に立って売る生活に。友だちの家を訪れたら一家全員が死にかけた状態でグッタリとしている状況にも出くわしたことがあるという。しかし、自分たちもギリギリの状態で生きているのでどうしてやることもできない、そんななかをなんとか生き残っていった。
終戦から1年半が経ってようやく帰国。一家は山口県宇部市の親戚の家に身を寄せるが、それから先も貧しい生活は続く。山田監督は旧制宇部中学を経て旧制山口高等学校へ進学しているが、その学費を稼ぐため、農家の田んぼの草取り、こやし運び、空襲で焼けた工場の片付け、炭坑の坑木運び、進駐軍の病院の清掃など、さまざまなアルバイトをこなした。そこで出会った人々の記憶は、後の映画づくりにおいて重要な財産となった。そのなかには、あの寅さんのモデルになった人物もいるという。
そんな戦争体験をもつ山田監督は、「ステラ」(NHKサービスセンター)2014年2月21日号のなかで、戦争に対する若者の認識についての危惧をこのように語っている。
「現在、戦争はこんなに恐ろしいものだって、学校でちゃんと教えられているとは思えない。それに、日本人の被害もひどかったけども、日本人は加害者でもあるわけだから、それはちゃんと教えなきゃいけないんじゃないのかな」
山田洋次監督が自らの体験として語った満州時代の「中国人差別」
山田監督がこのように警鐘を鳴らすのは、満州で過ごした少年時代を思い返しての反省の思いがあるからだ。戦中でも満州の日本人たちが過不足ない生活を享受できたのは、彼らが現地の中国人たちを搾取していたからにほかならない。
前掲「本の旅人」では、終戦当時に住んでいた大連の家を訪れているのだが、現在その家に住んでいるおばあさんから親切に対応してもらったのを受けて、「そのおばあさんの手を取って謝りたい気持ちになりました」としつつ、このように語っている。
「日本人は、中国人の土地に植民者として入り込んで、豊かな生活を享受していた。そして、中国人というのは貧しくて、汚くて、頭も悪いという、ひどい差別意識を持っていたんです。中学生だった僕も、なにも考えず、そういう差別の上にあぐらをかいていた」
山田監督がこのような思いを抱く一方、この国、かつて戦争に乗じて周囲の国々に残酷極まりないことをしたという事実も、それどころか、戦争によって自分たちも壊滅的な被害を受けたということすらも、なにもかも忘れ、権力者たちが煽る好戦的な空気に乗っかろうとしている。
だからこそ、70年以上前に起きた悲劇を思い返すことは重要だ。そして、そのために芸術は大きい役割を果たす。だから、映画でも、文学でも、演劇でも、音楽でも、あらゆる芸術は、未来に向けて確固たるメッセージを込めなければならない。
前掲「大林宣彦さんへ」で山田監督はこのように綴っている。
〈いまの日本を支配している権力者は戦争を知らないし、体験もしていない。戦争は国民を苦しめ、痛めつけ、最後には殺してしまう。国民はハガキ一本で召集されて、死ね、と言われて死ななくてはいけない、そんな恐ろしくて残酷な体験を、この国は、つい70年前までしていた。そのことを、僕たちはくりかえし思い出さなくてはいけない。〉
一方、大林監督も、NHK Eテレで放送されたドキュメンタリー『青春は戦争の消耗品ではない 映画作家 大林宣彦の遺言』のなかで「みんながしっかりと怯えてほしい。大変なことになってきている」「それが、実際に怯えてきた世代の役割だろうと思うので、敢えて言いますけどね。怯えなきゃいかん。戦争というものに対して」と発言。映画『花筐/HANAGATAMI』は太平洋戦争の時代を描いたものだが、その物語は好戦的な空気を煽る2017年にも通じるものであり、そんな状況のいまだからこそつくられるべき作品であったと語っている。
山田洋次監督や大林宣彦監督が伝えようとしている思い。私たちはそれを重く受け止めなければならない。(編集部)