2020年1月26日日曜日

味方なら「いい思い」敵なら「冷や飯」 安倍政治の本質(内田樹氏)

 記事集約サイト「阿修羅」に、やや古いですが7日付の毎日新聞の 内田樹氏(神戸女学院大名誉教授 「思想家」とも呼ばれる)インタビュー記事 
「『桜を見る会』考 味方なら『いい思い』敵なら『冷や飯』 安倍政治の本質を可視化」が載りました。

 内田氏は、安倍首相は友達だけを集めた政権を作り、批判者・敵対者は徹底的に冷遇することで上意下達の政治を行っているとし、そのスタイルは「経営のトップが方針を決め、従業員はそれに従う。トップに逆らうものは排除されイエスマンが重用される」という会社組織を取り入れたものだと述べています。
 それは「経営の適否はマーケットが判断する」ことを前提にしたもので、利益を追求する会社の場合には許される(かも知れない)し、効率的でもあるのですが、最大多数の最大幸福を追求すべき国の政治で許されないのはいうまでもありません。
 現実に経済面でも顕著なように、日本はかつて1人当たりのGDPが世界で2位であったのが18年には26位に落ちるなどの惨状を呈しています。
 それにもかかわらず7年以上にわたってそんな政権が継続できているのは、30%のコアな支持があれば政権を持続できるという、いまの選挙制度や低投票率の現状に由来しています。

 5700文字とやや長文ですが、極めて示唆に富んでいる記事です。
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「桜を見る会」考
味方なら「いい思い」敵なら「冷や飯」 安倍政治の本質を可視化 内田樹氏
毎日新聞 2020年1月7日
 2020年を迎えた。「めでたさも中くらいなり」どころか、今年も例の「桜を見る会」の暗雲が永田町を覆いそうである。疑惑は大小、数あれど、せっかくの新春、巨視的に考えたい。思想家の内田樹さん(69)に「戦後日本」「近代市民社会」という文脈でこの問題を読み解いてもらった。【吉井理記/統合デジタル取材センター】

「自民党政治の中でも極めて特異な政治手法」
 ――新年らしい晴れがましいテーマのインタビューをしたかったのですが、残念ながらおめでたくない桜を見る会について、です。
 ◆え。20年はどうなる、とかのインタビューじゃなかったかな。

 ――違います。この「桜」問題、どう見ていますか。
 ◆安倍晋三首相の、戦後日本の自民党政治の中でも極めて特異な政治手法が、この桜を見る会で可視化されたと思います。

 ――というと?
 ◆自民党が長期にわたって与党でいられたのは、イデオロギー政党であるよりは、広範な国民の欲求を受け入れる国民政党を目指してきたからです。できるだけ多くの国民の支持を得たいという希望を捨てたことはない。そのためには、野党とも妥協する。国論を二分するような政策的対立はできるだけ避けようとしてきた。

自民党政治の根底は「国民同士の敵対避ける」信念
 ――昨年死去した改憲論者の中曽根康弘元首相も、在任中は改憲論を封印していたことを思い出します。
 ◆自民党の調整型政治の根底にあったのは「国民同士が敵対するような事態は何としても避けなければならない」という信念だったと思います。国民は統合されていなければならない。国論が二分されるような状況が長く続くと、国力は衰微する。戦後日本で国論の分裂が極限に達したのは1960年の日米安全保障条約改定の時です。当時は安倍首相の祖父・岸信介氏が首相。戦後史的にも例外的な事態でした。ですから、その後に登場した池田勇人首相は政治的対立を避け、国民全体が政治的立場にかかわらず共有できる目標として「所得倍増」を掲げたのです。経済成長の受益者には右も左もありませんから。

 ――池田氏によって高度成長のレールを敷き、国民の各界各層からそれなりの支持が集まる国民政党のイメージが形成されました。
 ◆池田政権は60年安保後のとげとげしい空気を鎮めるために「寛容と忍耐」というスローガンを掲げました。異論に対しても寛容であれ、と。岸内閣の下で激しく対立した国民間の和解を説いたのです。そして、池田内閣のこの姿勢は国民に広範に支持された。このような融和的な態度が、自民党が戦後長期にわたって与党であり続けた理由だと思います。それ以後も、自民党政権は国民の一部を「敵」とみなして排除するような態度は自制してきました。ところが、ここに安倍晋三政権が登場した。

安倍政権は「意図的に国民を分断することで政権の浮揚力を得ている」
 ――安倍政権はそれまでと違う、と。
 ◆まったく違います。郵政民営化を強行した小泉純一郎政権は対話的な政治家とは言えませんでしたが、圧倒的な支持率がバックにあった。だから、国の根幹にかかわる変更を断行したにもかかわらず、それが国論を二分するというかたちにはならなかったのです。安倍政権が小泉氏らと決定的に違うのは、国論を二分し、意図的に国民を分断することで政権の浮揚力を得ているという点です。今の小選挙区比例代表並立制という選挙制度なら、有権者の30%のコアな支持層を固めていれば、残り70%の有権者が反対する政策を断行しても、政権は維持できることが分かったからです。

 ――なるべく国民の多くの、というそれまでの自民党のテーゼとは全く違いますね。
 ◆そういうことです。これまでの自民党政権はウイングを広げて、支持者を増やすことが政権安定の基本だと考えていた。でも、安倍政権は違います。この政権は支持者を減らすことをいとわないからです。70%の有権者が反対している政策でも、コアな支持層が賛成するなら強行する味方を厚遇し、喜ばせ、政敵の要求には「ゼロ回答」で応じる。そういうことを繰り返すうちに、有権者たちは「自分たちが何をしても政治は変わらない」という無力感に侵されるようになった。その結果、有権者の50%が投票所に行く意欲を失った。低投票率になれば、コアな支持層を持つ自民党が圧勝するということが過去7年で繰り返されてきた。

「縁故政治は国民を敵と味方に二分する」
 ――なるほど。だんだん見えてきました。桜を見る会では、公費で開かれる行事に、自分の支持者・後援者を招いていたことが判明した。コア支持層を厚遇したということですが、森友・加計学園問題でも、縁故政治のような行政の私物化が疑われています。
 ◆そうです。安倍政権は意図的に縁故政治を行っているわけですけれど、それが倫理の問題ではないことに注意すべきです。

 ――単純に「長期政権のおごり」とか「緩み」とだけ分析するのは間違いだ、と?
 ◆単なる「おごり」や「緩み」ではありません。縁故政治は日本国民を敵と味方に二分するために意図的に仕組まれていると思います。味方になれば「いい思い」ができ、敵に回れば「冷や飯を食わされている」。そういう分かりやすい仕組みを安倍官邸は作り上げた。それが続けば、「どうせなら、いい思いをする側につきたい」という人も出てくるし、冷や飯を食わされている側は次第に無力感に侵される。

 ――形式的には選挙を経ていても、政権中枢やその周辺、エリート党員だけが特権を享受できるどこかの独裁国家のようです。
 ◆僕の知る限り、過去の自民党にはここまで露骨に味方の縁故政治を行い、敵を排除した政治家はいません。スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが書いているようにデモクラシーというのは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ことが本義ですが、安倍政権は反対者は決して統治機構に加えないという「反民主主義」を実践して、結果的にそれが政権を安定させた

「50%が棄権してくれるなら、半永久的に権力を握り続けられる」
 ――世論調査では支持政党に自民党を挙げる人はだいだい30%、昨年の参院選では、比例で自民党に投票したのは有権者の17%ほどでした。
 ◆それでも今の選挙制度で、有権者の50%が棄権してくれるなら、半永久的に権力を握り続けられるんです。だから、30%のコアな支持層だけを気遣う政治をしていればいい。第1次政権(06~07年)で失敗したのは、あちこちに「いい顔」をしようとしたせいです。その失敗から学んだのが、敵と味方を切り分けて、味方はちやほやする、敵はたたくという反民主的な手法です。

 ――日本だけの出来事とも思えません。
 ◆世界的に見て、デモクラシーは危機にひんしています。日本だけではありません。トランプ氏の米国も、プーチン氏のロシアも、習近平氏の中国も、エルドアン氏のトルコも……。どこでも国民を敵味方に分断することを恐れない政治家が成功を収めている。健全な民主主義が機能している国を見つけるほうが難しいくらいです。

「国家も株式会社と同じようにすればいいと考える人が増えてきた」
 ――背景にあるのは?
 ◆経済のグローバル化が進み、国民国家が解体過程に入っていることです。多様な政治的立場をそれぞれが参酌し、全員が同程度に不満足であるあたりを「落としどころ」にするというのがデモクラシーの骨法ですが、そんな手間のかかることはもう誰もやりたがらない。変化の激しい時代ですから、合意形成に時間をかけたくないのです。それよりは誰か1人に権限を丸投げして、その人に決めてもらえばいい。そういうふうに考える人が増えてきた。国家も株式会社と同じように経営すればいい、と。最高経営責任者(CEO)が経営方針を決め、従業員はそれに従う。トップに逆らうものは排除され、イエスマンが重用され、経営の適否はマーケットが判断する。そういう「株式会社みたいな仕組み」が最も効率的で、合理的だと信じる人たちが市民のマジョリティーを占めるようになった。そんな社会にはデモクラシーが生き延びるチャンスはありません。

 ――私たちも桜を見る会の問題を指摘すると、「いつまで『桜』をやっているんだ」とか「ほかにもっと大事なものがある」といった批判、時には「サヨク」とか「反日」という罵倒めいた言葉を投げられる時があります。
 ◆そうだと思います。今の日本人の多くは、生まれてから一度も民主主義的に運営されている組織に身を置いたことがないからです。家庭も学校も部活もバイト先も、彼らが知っているのは非民主的なトップダウン型の組織だけです。だから、CEOなどトップが従業員に何ひとつ諮らずにすべてを決定する仕組みに対して、さしたる違和感がない。だから、安倍首相のやり方を見ても「うちの社長と別にやっていることは変わらない」という感想しか持たないのでしょう。社長に黙って従うのが当然だと考えるように、権力者を批判することは「越権行為」だと思っている。一介の市民が首相や大臣相手に文句を言うのは「分際をわきまえない許されざる不敬な行為」だと思っているのでしょう。

「首相は自分の支持者と勝利を祝う『祝賀イベント』と思っていた」
 ――首相はCEOのような立ち位置にいるから、一市民が文句を言うのはおかしい、黙って自分の「分」に収まってろ、ですか。従順というか……。
 ◆思っている以上にそういう人が増えてきたように思います。だから今回の桜を見る会のように、権力者が公金を使った行事に自分の支持者を招待し、供応することがどうして悪いのか、分からない。権力者は努力してその立場にいるのだから、好きにすればいいと思っている人が少なからず存在する。そういう人たちが自分のことを「リアリスト」だと思っている社会ですから、国力がここまで衰微するのも当たり前だと思います。

 ――確かに「総理主催の行事なんだから誰を招くかは総理の自由だ」という声もありました。
 ◆昨年の桜を見る会のあいさつで、安倍氏は「皆さんとともに政権を奪還して7回目の『桜を見る会』」と言いました。本来なら自分とは政治的立場が違う人たちも多数招かれているはずなのに、その可能性を勘定に入れていない。首相はこの集まりを自分の支持者たちと選挙の勝利を祝う「祝賀イベント」だと思っていたのではないでしょうか。公人は反対者を含む集団全体を代表しなければならないという政治の基本が分かっていない

「『反対者との気まずい共生』がデモクラシーの本質」
 ――「みなさん」と「『みなさん』ではない人たち」の二者択一しかない。
 ◆安倍首相は株式会社の経営者のやり方を国政に適用したという点で画期的だったと思います。経営者の目標は当期利益を上げ、株価を維持することです。時価総額を高めることが株式会社の存在目的だからです。安倍政権は株価維持に全力を尽くしてきましたが、それは株価が下がらない限り、職を失うことはないということを知っているからです。

 ――しかし?
 ◆ここに落とし穴があるんです。会社が潰れても、株券が紙くずになるだけです。従業員は他の職場を探せばいい。その会社がやっていた仕事も、他の会社が代替するでしょう。でも国は、そうはいかない。潰れたらおしまいです。代わりの国をどこかから持ってくることはできませんし、国民にはこの国土以外に行くところがない。株式会社の目標は利益を上げることですが、国民国家の目標は存続することです。日本列島に住む1億2600万人が、とにかく食えるようにすること、国土と国富を守り、次代に受け渡すこと。国の存在理由は尽きるところそれだけです。あらゆる政策は「それは日本国民が食えて、尊厳を持って生活することの存続に役立つかどうか」を基準に適否を判断すべきであって、それ以外のことはどうでもいいんです。

  ――株式会社の仕組みを国に持ち込むのはあり得ない、と。でも会社のCEOと従業員の分断のように、安倍政権や支持する人たちと、政権に懐疑的であったり、批判したりする人たちの間には、すでに埋めがたい分断があるように思えます。永田町の住人には想像もつかないくらいに……。
 ◆そう。そこをどう橋渡しするか。僕も安倍政権について、いろいろ批判する。すると「要するにあなたは安倍さんが嫌いなだけでしょ」といった反応が返ってくる。「敵だから批判する」というふうにしか考えない。逆もまたしかり。選挙で野党候補の応援演説をすることがあるんですが、ぼそぼそと「反対者とともに統治する」というようなことを言っても聴衆は盛り上がらない。でも「安倍政権を打倒しよう」というようなシンプルなことを言うと、一気に盛り上がる。話を単純な敵味方の対立に落とし込むとウケる。でも、「敵を倒せ」はデモクラシーじゃない。

 ――デモクラシーは、反対者をも包摂していかなければならない。
 ◆そうです。和解なくして、デモクラシーは成り立たない。「反対者との気まずい共生」がデモクラシーの本質なんです。立憲デモクラシーは、王制や貴族制などより政体として出来がいいと僕は思っていますから、何とかしてこれを守りたい。でも、分は悪いんです。刃物を振り回している人をハグするようなものです。「敵対も分断も辞さず」と言っている人たちに「そういうことをすると国力が衰微しますから、何とか仲良くやりましょうよ」とお誘いするのですから、まことに迫力がない。でも、デモクラシーが生き延びるためには、「デモクラシーなんか要らない」という人たちとも手を携えてゆくしかない。これこそ「寛容と忍耐」かもしれませんね。

 うちだ・たつる
 神戸女学院大名誉教授。1950年東京生まれ。東京大文学部卒、東京都立大大学院修了。武道家(合気道)の顔もあり、神戸市の自宅に道場兼学館「凱風館」を開いている。近著に「生きづらさについて考える」(毎日新聞出版)、「そのうちなんとかなるだろう」(マガジンハウス)など。