2020年1月9日木曜日

09- 天皇制と男女平等は(東京新聞 年のはじめに考える)

 日本の世論は、女性天皇、女系天皇支持が圧倒的ですが、一部には男系、男性天皇を熱烈に支持ずる勢力もいます。
 女王の例はそもそも西欧にはいくらでもあります。
 男女平等を謳う日本国憲法の第二条は「皇位は、世襲」とのみ記し、明治憲法にあった「皇男子孫」の文字は消えましたが、新皇室典範には男系・男子主義のまま残ってしまいました。
 しかし男系・男子主義は、天皇の側室制度を前提にしないと維持できないのも事実です。また皇族の婚姻の自由が事実上認められなくなるという問題もあります。

 東京新聞は「年のはじめに考える」として、女性・女系天皇論を扱ううえで「個人の尊重」の点からも男女平等の点からも、人権と民主主義という憲法の根幹にある思想が必要と考えると述べています
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【社説】年のはじめに考える 天皇制と男女平等は
東京新聞 2020年1月8日
 「女性天皇は認めるべきだ」
 「確かに推古天皇から八人で十代の例があるが、男系が皇位に就くまでの暫定的な存在だった」
 「政治的野心を持った者が女性天皇の婿(むこ)になったら、困ることになるではないか」
 こんな議論があったのは何と一八八二(明治十五)年。当時の有力紙・東京横浜毎日新聞に載りました。九回連載のテーマは、ずばり「女帝を立(たつ)るの可否」。
 一流の論客たちが侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を繰り広げました。中には「立憲主義国では平凡な君主で構わないから女性でも務まろう」などと、現在なら女性蔑視と眉をひそめる意見も載っています。

西欧は女王の歴史が
 憲法学者・故奥平康弘氏の「『萬世一系』の研究」(岩波書店)に記された興味深いエピソードです。こんな議論が起きたのも、明治国家が憲法を定めつつある時期で、模範にする西欧では女帝が存在したからです。
 英国ではビクトリア女王が在位中。歴史的にも十六世紀に有名なエリザベス一世がいたし、十八世紀にはオーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカテリーナ二世ら女帝が君臨しました。
 でも、一八八九年に公布された大日本帝国憲法の第二条には「皇位ハ(中略)皇男子孫之ヲ継承ス」と定められました。男系・男子主義です。どんな経緯だったのでしょうか。
 早くは元老院の「日本国憲按(あん)」という文書の一次案に、女性天皇を容認する記述があります。皇位継承の順位として「同族ニ於(おい)テハ男ハ女ニ先(さきだ)チ」などと。でも、二次案では女帝容認案は消えてしまいました。明治憲法制定にあたり、伊藤博文の右腕になった井上毅が西欧を軽率に模倣する愚を説いたのです。
 論の中核が、もし女性天皇が子どもを産めば、その子は父親の姓を名乗ることになる-という当時の家父長制の論理でした。男系が崩れ、女系天皇になるわけです。

「法の下の平等」では
 ただ女帝を封じれば困った事態も予想されます。男系・男子だけだと天皇を継ぐ者がいなくなりはしないか? でも井上には「正妻の子でない天皇」が念頭にあったようです。当時は慣習として天皇にも側室がいたのです。
 実は明治天皇も正妻の子ではありません。遡(さかのぼ)れば江戸時代の桜町天皇から、桃園、後桜町、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治と側室の子が続きます。大正天皇も、です。これらの事柄も奥平氏の前掲書に記されています。
 こうして引き継がれてきた天皇制は、昭和の敗戦で新局面を迎えます。新憲法は第一四条の「法の下の平等」で性別により差別されないことを定めたからです。
 男女平等ですから、日本国憲法の第二条は「皇位は、世襲」とのみ記し、明治憲法にあった「皇男子孫」の文字が消えました。しかし、一般の法となった新皇室典範は男系・男子主義のまま残ってしまいました
 もっとも典範改正にあたり、一九四六年に当時の宮内省は「皇統を男系に限ることは憲法違反となるか」という文書を臨時法制調査会に出しています。宮内省の立場としては、むろん「否」なのですが、当時の空気には意外なほど女帝肯定論がありました
 同調査会でも、東京帝大教授の宮沢俊義氏や杉村章三郎氏らは肯定論の立場でした。帝国議会でも「男女平等」の原則から女性天皇論が説かれたりしています。ただ、現実には多数派は男系・男子主義で、新皇室典範ができたのですが…。
 さて、大嘗(だいじょう)祭を終えた今、皇位継承の在り方は政府の宿題になっています。女性・女系天皇、また女性宮家の創設のテーマです。皇位継承者は秋篠宮さま、悠仁さま、常陸宮さまに限られてしまったためです。もはや側室制度はありえません。
 だから男系・男子主義者は旧皇族の復活などを主張します。でも、象徴天皇制は国民の意識変化も考える必要があるでしょう。共同通信の世論調査では女性天皇に賛成が82%、女系天皇の賛成が70%。国民の多くは「容認」です。
 昭和天皇の弟である故・三笠宮崇仁さまはかつて皇族の結婚について嘆きを記しています。

人権と民主主義でも
 <種馬か種牛を交配する様に本人同士の情愛には全く無関心で(中略)人を無理に押しつけたものである。之(これ)が為(ため)どんなに若い純情な皇族が人知れず血の涙を流し(中略)たことであらうか>
 天皇家は人権が及びにくい「身分制の飛び地」と学問的にいわれています。ですが、婚姻の自由はあってしかるべきです。
 「個人の尊重」の点からも。むろん平等の点からも…。女性・女系天皇論を扱ううえでは、今や人権と民主主義という憲法の根幹にある思想が必要と考えます。