19日で1960年安保条約が結ばれてから60年になります。それによって米軍は日本の基地をベトナムやアフガニスタン、イラクへの侵略戦争などで出撃拠点として自由に使ってきましたが、日本が他国から侵略されたときに日本を防衛するかどうかについての疑念は深まりました。
そもそも米軍が日本防衛の行動を取るかは米国議会の承認を要するし、そのための部隊は現実に存在しません。
その一方で、安倍政権は2015年に新たな「日米軍事協力の指針」を策定し、戦争法(安保法制)の成立を強行しました。国民を圧迫している「日米地位協定」の改定には小指一本も動かさないのに、米軍の尖兵になる準備だけは済ませたということです。
しんぶん赤旗が「 ~ 『地球規模の同盟』の危険鮮明」とする「主張を掲げました。
併せて「対米従属の原点は旧安保条約にあった事を教えてくれた朝日」とする天木直氏のブログを紹介します。
それによると「旧安保条約」は吉田茂首相時代に不意打ち的に且つ強制的に結ばされたことが分かります。そのときの吉田茂にはそれなりの苦悩、苦衷がありました。それに比べると安倍首相にはそうした思いは全くなく、ただただ対米従属に奔って自己満足するという浅ましさしか見ることが出来ません。
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主張 現行日米安保60年 「地球規模の同盟」の危険鮮明
しんぶん赤旗 2020年1月18日
1960年1月19日に当時の岸信介首相とハーター米国務長官らが現行の日米安保条約に署名してから、あすで60年です。51年9月8日署名の旧安保条約の改定として締結された現行条約は、それまでの基地提供条約という性格に加え、有事の際の日米共同作戦条項などを新たな柱として盛り込みました。同条約に基づく日米安保体制は今や大きな変貌を遂げ、集団的自衛権の行使を可能にした安保法制=戦争法により、米国が地球規模で起こす戦争に日本が参加し、自衛隊が海外で武力行使する危険をかつてなく高めています。
「日本防衛主眼でない」
現行安保条約第6条は「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」に米軍が「(日本の)施設及び区域を使用することを許される」と定めています。
日本政府は、「極東」の範囲について「大体においてフィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域」と説明してきました。しかし、条約とともに結ばれた日米密約によって、米軍は日本への核兵器持ち込みとともに、日本の基地からの戦闘作戦行動も日本側との事前協議なしに、「極東」の範囲に縛られず、世界のどこにでも出撃できることを可能にしました。
実際、在日米軍基地は、米国によるベトナムやアフガニスタン、イラクへの侵略戦争などで出撃拠点になってきました。日本に配備されている米軍も、「空母打撃群」や「海兵遠征軍」など干渉・介入専門の“殴り込み”部隊です。
現行安保条約とともに締結された日米地位協定の下、米軍機の騒音や墜落事故、米兵犯罪、環境汚染など基地被害も深刻です。
外務次官や駐米大使を務めた村田良平氏は、現行安保条約と「地位協定とを併せ読めば、この条約もその本質において、米国が日本国の一定の土地と施設を占領時代同様無期限に貸與(たいよ)され、自由に使用できることを骨格としている」「米国の日本防衛義務は、条約の主眼ではない」と述べています(『村田良平回想録(下巻)』)。
加えて、現行安保条約は第5条で日米両国が「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対し「共通の危険に対処するように行動する」と規定しています。有事の際の自衛隊と米軍の日米共同作戦の根拠とされます。しかし、今日の日米軍事協力の実態は、第5条の規定をはるかに超えています。
安倍晋三政権は2015年に新たな「日米軍事協力の指針(ガイドライン)」を策定し、安保法制=戦争法の成立を強行しました。当時のカーター米国防長官は「新ガイドラインは日米同盟を一変させる」「アジア太平洋、世界中でわれわれが直面するあらゆる挑戦に柔軟に対応できるようになる」と指摘しました。文字通り、地球規模の日米軍事同盟への変質です。
対等・平等の日米関係を
安倍首相は、異常な軍拡に乗り出し、自衛隊を海外で戦闘できる軍隊に変え、憲法9条改定に執念を燃やすなど、「戦争する国」づくりを進めようとしています。
米軍基地強化や「戦争する国」づくりの根本にある安保条約を廃棄し、独立・平和・中立の日本をつくり、米国とは対等・平等の立場に基づく友好条約を結ぶことにこそ日本の未来がある。それを今、大いに訴える必要があります。
対米従属の原点は旧安保条約にあった事を教えてくれた朝日
天木直人のブログ 2020-01-18
あす1月19日は1960年の改定日米安保条約の署名から60周年に当たるという。
だからきょうの各紙が一斉に特集記事を掲載している。
その中でも、朝日新聞の特集記事は国民必読だ。
いうまでもなく、改定日米安保条約の元は1951年に署名された旧日米安保条約である。すべてはそこから始まり、改定日米安保条約も、その骨格は何も改定されていない。
だから朝日の特集記事は、旧日米安保条約について書いている。
私がその朝日の特集記事で注目したのは、旧日米安保条約の誕生の裏にある隠された史実だ。
またひとつ新たな発見をした。それは次のような史実だ。
すなわち1951年9月7日にサンフランシスコで対日講和会議が開かれた。
そしてその会議で吉田茂首相が署名に臨む日本政府の立場を演説した。その演説文に次のような裏話があったのだ。
すなわち、その演説文で吉田茂は次のように決意表明をしている。
「・・・わが国民は極東並びに全世界における隣邦諸国と平和のうちに住み、その社会組織をつくり直して、すべての者のためによりよい生活をつくらんとする希望に燃えております・・・」と。
この不自然な日本語の文章は、実は外務省が原稿を完成した後に、米国から事前に見せろと要求され、見せた後に米国によって追加しろと渡された英文の訳なのだ。
米国から渡された英文を見た吉田茂は渋々演説文にそれをつけ加えたという。
私が驚いたのは、ダレスが関係国を回って講和条約を取りまとめた人物であったと書かれていたところだ。
つまり、当時はサンフランシスコ講和会議に参加する国の中ですら、日本の軍国主義に対する懸念を抱く国が少なからず残っていた。そのような国を説得して回ったのが米国であり、その米国が彼らを説得するために、演説の直前になって、平和宣言を起案し、それを吉田茂に言わせたのだ。吉田茂はそれを渋々認めて表明したのだ。
平和宣言ですら米国のお仕着せだったのである。
しかもである。講和条約に署名した同じ日に、日本は日米安保条約に署名させられている。
ここまではいまや多くの国民は知っている。
私は、これは日本政府も了解の上そうしたと思っていたのだが、なんと吉田は前日に米国政府に次のように知らされたというのだ。
あす講和条約の加盟国の署名が終ったら、そのあとで日米安保条約に署名すると。
吉田は日米安保条約の交渉は継続中としておきたかった。講和会議のさなかに条約文が発表されたらソ連などが攻撃材料にすることをおそれたからだ。
そして、その意向をダレスにも伝えていた。
それにもかかわらず、講和会議が終ったからいいだろうと言わんばかりに、ダレスは、講和条約の署名が終ったあとで、その日のうちに署名すると、通報して来たのだ。しかも前日に。
そして吉田は、それを講和会議の全権代表団の国会議員にその日のうちに伝える事無く、翌日、講和条約の署名を終えて全員ホテルに帰ってから、これから日米安保条約に署名して来ると告げている。全権代表団の国会議員らが怒り、吉田一人で署名に向かったのは当然だ。吉田茂の驚くべき密室ぶりであり、対米従属ぶりだ。
それから70年近くたって、日米関係の密約ぶりと対米従属ぶりはますます嵩じてしまった。その原点は旧日米安保条約の成立過程の中にこそあったのである。
それを教えてくれたきょう1月18日の朝日新聞の日米安保60周年特集記事は、国民必読である(了)