2021年3月8日月曜日

国語力疑わしい菅首相 言っていることと現実の乖離(青沼 陽一郎氏)

 かつて「文は人なり」という言葉がありました。それには文学的素養も含まれていたからでしょうか、いまでは絶えて聞かなくなりました。しかし国語力を見ればその人の知的レベルがほぼ分かることに変わりはありません。まして政治家は言葉が全てです。

 菅氏が官房長官だったとき、記者の質問に対して「その指摘は当たらない」「問題ない」を連発しました。それでも記者たちは何故か問い直すことをしませんでした。
 首相になってからも、山田広報官が「質問は各人1問」「重ねての質問は不可」を更に徹底させました。
 問い直しが出来なければ、何かを口にしさえすればすべてが済むということになります。そんなことを10年近く続けていれば弁舌の上達などあり得ません。しかし菅氏の場合はどうも弁舌以前の国語力の問題のようです。国会や記者会見での答弁の逐語録に相当するものを読むと、官僚の書いたものを読み上げるときにはさすがに僅かに質問に触ってはいるものの、菅氏がその場で口にしたものは、何の答弁にもなっていないのが殆どです。本人に何の違和感もないからそういうことが出来るわけで、恐るべき退廃です(前任の安倍晋三氏は随分と多弁でしたが、何の答弁にもなっていなかった点では菅氏と瓜二つです)。

 作家ジャーナリスト青沼陽一郎氏は、「  国語力疑わしい菅首相 言っていることと現実の乖離 ~ 」と題した記事(2/28)で、「はっきり言って、日本語の使い方がおかしい。言葉は明瞭であっても、意味が混沌として、時として迷妄している。それでは国民との意思疎通などはかれるはずもない」と批判しました。まさに由々しき事態で、多くの人たちが感じていたことを文字化したのでした。
 実は上記の記事は、同氏の7日付の記事「国民へのお詫びとお願い、それ以外に首相は何してる」で言及していたので、読んだのでした。
 両方の記事を紹介します。
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「スピード感をもって」とは? 国語力疑わしい菅首相
言っていることと現実の乖離、首相の言葉は口先だけの言い繕いか
                       青沼 陽一郎 JBpress 2021.2.28
                            (作家・ジャーナリスト)
 放送事業関連会社の「東北新社」に勤める息子が利害関係のある総務省幹部を接待していた問題は、ついには“お気に入り”とされる山田真貴子内閣広報官が総務審議官時代に7万円を超える接待を受けていたことが発覚して、膝元にまで飛び火した菅義偉首相。いつの間にか息子が政権にダメージを与えている様を見て、ギリシャ神話のエディプス王が頭に浮かんだ。父王に捨てられたエディプスが、知らないうちに父王を殺し、王となって生母である先王の王妃を妻とする物語だ。フロイトの説くエディプス・コンプレックスに通じる神話で、大きな権力を手にしていく父親に、息子のほうでもどこかでコンプレックスを抱いていたのかも知れない。

違和感多い首相発言
 その菅首相が就任してから、来月で半年になるが、その発言を聞いていると、どうも言葉に違和感を覚えることが少なくない。もっと言えば、自分の話した日本語の意味がわかっているのか、首を傾げたくなる。その言葉を、いくつか指摘してみる。
 まず、菅首相がやたらに使う「スピード感」という言葉。例えば、今年1月の今国会冒頭の施政方針演説でも、はっきりこう述べている。
「まずは、一日も早く(新型コロナウイルスの)感染を収束させ、皆さんが安心して暮らせる日常、そして、にぎわいのある街角を取り戻すため、全力を尽くします。
 未来への希望を切り拓くため、長年の課題について、この四カ月間で答えを出してきました。皆さんに我が国の将来の絵姿を具体的に示しながら、スピード感を持って実現してまいります」
 この「スピード感」という言葉が、内閣の共通認識のように、他の閣僚も使うようになった。最近では、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の橋本聖子会長が就任した直後の会見でも「スピード感」という言葉を用いていた。
 だが、この「スピード感」とは、なにを指す言葉なのだろうか。「スピード感を持つ」とはなにか。
 そもそも「スピード感」という言葉は、辞書にはない。「スピード」と「感」というふたつの言葉をくっつけて成り立っている。「解放感」「至福感」といった具合だ。
 それも「感」という言葉は接続語的に用いて「・・・という感じ」という意味であって、解放された感じ、至極幸福な感じを味合うもので、あくまで個人の感覚を意味している。「スピード感を味わう」というのなら、ジェットコースターや高速列車などに乗った個人の体験になる。「解放感が湧く」と言っても「スピード感が湧く」とは言わない

「迅速に」ではないのか
 同じように菅首相は「緊張感を持つ」という言葉もしばしば使う。たとえば、小説などを読んでいて、命が危ういような場面で「緊張感が走る」と用いられることがある。ひとりでなく仲間がいる時には、その場の共通認識、空気を表すことはわかる。だが、それもその場の雰囲気のことで「スピード感が走る」なんて言わない。
 あくまで「○○感」とは、結果を受けた状態からくる言葉で、「スピード感」は日本語としてそぐわない。これからの施政において「スピード感を持って実現する」などという言葉使いは、日本語としておかしい
 仮に、仕事の早い人を「あの人にはスピード感がある」と評するのだとしても、自分から「スピード感を持つ」とは言わない。それだと、傍から見て作業がものすごい遅く感じられても、本人が「スピード感をもってやっています」といえば、言い訳が成り立つ。
 あえて菅首相の意図を汲むのであれば、この場合は「迅速に」のひと言で済む。まして政権を担う人物が常に緊張しているのは当たり前であって、わざわざ「緊張感を持つ」などと口にすることでもない

「収束」と「終息」、混同していないか
 次に、よく使う「収束」という言葉。施政方針演説でも、新型コロナウイルスについて「一日も早く感染を収束させ」と述べている。因みに「終息」という文字もあるが、官邸のHPで確認すると、菅首相は「収束」をあてはめている。と、するとこの言葉の意味がますますわからなくなる。
 2002年の秋に中国広東省で発生したとされる新型コロナウイルス「SARS(重症急性呼吸器症候群)」は翌03年に中国本土、香港、台湾で猛威を振るったものの、同年7月5日には市中からウイルスが消えたとして、WHO(世界保健機関)が「終息宣言」を出している。この「終息」とは、戦乱や疫病などが絶えてなくなることを意味している。
 ところが「収束」といった場合、混乱していた事態や事件がおさまりをみせることを意味する。これだと、緊急事態宣言を解いたところでも「収束」した、と評価することができる。だが、それでは国民は納得しないはずだ。
 そうすると「一日も早く感染を収束させる」といった場合の「収束」とは、どのような状況や状態を指すのか、さっぱりわからなくなる。「将来の絵姿を具体的に」示していないからだ。ものすごく曖昧に受け流されている。
 ただ聞いている側はいちいち字面を追わないから、「終息」の意味で受けとめているのかもしれない。明らかなミスコミュニケーションが生じていることになる。政府は「ウィズ・コロナ」「新しい生活様式」を標榜するのだから、「終息」の意図はまったくないはずだ。
 ところがここへ来て、本人も「終息」と取り違えているのではなか、と疑いたくなる事情がある。

間違っているのか、あるいは自分に都合よく解釈しているのか
 菅首相はことあるごとに、たとえば施政方針演説でもこう断言している。
「夏の東京オリンピック・パラリンピックは、人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、また、東日本大震災からの復興を世界に発信する機会としたいと思います」
 20日未明、主要7カ国(G7)のオンライン首脳会議(サミット)を終えたあとの菅首相は、記者団にこう述べている。
「東京オリンピック・パラリンピックでありますけれども、今年の夏、人類がコロナとの戦いに打ち勝った証として、安全・安心の大会を実現したい、そうしたことを私から発言いたしまして、G7首脳全員の支持を得ることができました。大変心強い、このように思っています」
 ところが、外務省がHP上で公表している「G7首脳声明」を見ると、末尾にたった1文でこうあるだけだ。
We resolve to agree concrete action on these priorities at the G7 Summit in the United Kingdom in June, and we support the commitment of Japan to hold the Olympic and Paralympic Games Tokyo 2020 in a safe and secure manner this summer as a symbol of global unity in overcoming COVID-19.
 併載されている外務省の「仮約」はこうだ。
《我々は、6月の英国におけるG7サミットにおいてこれらの優先事項についての具体的行動に合意することを決意し、新型コロナウイルスに打ち勝つ世界の結束の証として今年の夏に安全・安心な形で2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催するという日本の決意を支持する》
 菅首相が言うように「東京オリンピック・パラリンピックは、人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」ではなく、「新型コロナウイルスに打ち勝つ世界の結束の証」として、あくまで「日本の決意」がG7に支持されているだけだ。打ち勝った結果ではなく、未来への結束の証としているのだから、まったく意味が違う。菅首相は、自分の言葉を誤っている。あるいは、都合よく勝手に解釈している。

言葉明瞭、意味迷妄
 組織委員会は25日、来月25日から福島県をスタートする聖火リレーのコロナ対策のガイドラインを発表した。
 そこでは聖火リレーの様子はインターネットのライブ中継を見ること、著名人ランナーは密集対策ができる場所を走ること、沿道などではマスクを着用し、応援は大声ではなく拍手などで行うこと、1日の最後の式典の会場は事前予約制とし、過度な密集が発生した場合はリレーを中断する、などとしている。
 これでは、オリンピックへの気運を盛り上げるために全国をまわるはずが、なんのための聖火リレーなのか、これまた意味がわからない。「打ち勝つ」どころか、新型コロナウイルスに怯えながら、避けて通り過ぎようというだけだ。首相の言っていることと、現場でやっていることが全く違う。
 はっきり言って、日本語の使い方がおかしい。言葉は明瞭であっても、意味が混沌として、時として迷妄している。それでは国民との意思疎通などはかれるはずもない。
 日本の首相であるのなら、もっと日本語を大切にすべきだ。それができないのなら、受け取る側が首相発言の真意を厳しくチェックしないと。コロナ対策でも、東京オリンピックでも、後の祭りでは済まされないのだから。


国民へのお詫びとお願い、それ以外に首相は何してる
                      青沼 陽一郎 JBpress 2021/03/07
                           (作家・ジャーナリスト)
 菅義偉首相は自分の言葉の意味を理解できているのだろうか。
 日本語の使い方がおかしいことは、以前にも書いた。それにもまして、支離滅裂とも受け取れる発言が、このところ気になって仕方ない。

2週間延長でも、結局は国民に自粛要請するだけ?
 首都圏1都3県に出されている緊急事態宣言がさらに2週間、3月21日まで再延長されることになった。5日夜の政府の新型コロナウイルス対策本部で決まった。この日の首相の発言をまずは振り返ってみる。
 決定前の同日午前の参議院予算委員会。菅首相は2週間延期の政府方針について、こう述べている。
「緊急事態宣言は、国民の日常生活に大きく制約するものであり、国民や事業者の皆さんのご協力にもかかわらず、今回2週間程度の延長が必要だと考えるに至ったことについては、率直に申し訳ない。このように思っております」
 そう陳謝した。その上で続ける。
「再びこの宣言、リバウンドをなんとしても防ぐというそういう思いの中で、全力全霊をあげて取り組んでまいりたい」
「もう国民の皆さんに制約をお願いすることがないように、そういう思いで臨むのが私ども政府の役割だと思います」
 そして、延長決定後の夜の記者会見。最初は1月に緊急事態宣言が発出されて以降、新規感染者、入院者、重症者の数が減少していることに触れ、
「これは、諸外国のような厳しい宣言を行わずとも、ひとえに皆様方の踏ん張りと、心を一つにして懸命に取り組んでいただいた結果であります。医療、介護などの関係者の皆さんの御尽力、国民の皆さんの御協力に心より感謝申し上げます」
 と、した上で、
「当初お約束した3月7日までに宣言解除することができなかったことは大変申し訳ない思いであり、心よりおわびを申し上げます」
 と、これまた国民に陳謝している。そして、今後の対策方針として挙げたのが、
「飲食店の時間短縮、不要不急の外出の自粛やテレワーク、こうした効果的な取組を地方自治体と連携し、徹底してまいります」
「特にリスクの高いのはマスクを外した会話が多くなる飲食であり、そこが対策の中心となることも分かってきました。春は卒業式、入学式、歓送迎会など人生の節目であるとともに、お花見など人が集まる機会も多くあります。昨年末には忘年会の影響で感染が拡大したと、こうした指摘もあります。今回、そうした機会であっても、大人数の会食はお控えいただきますよう、お願いします。そして、解除後の地域であっても、会食はできるだけ御家族、または4人以内でお願いいたします」
 しかもこれを啓蒙するために、今後はテレビコマーシャルやSNSの動画による広報に力を入れていくという。
 また「ワクチンが希望の光になる」とも語り、こう言及している。
「4月12日から全国の高齢者の皆さんへの接種をスタートし、4月末からは規模を大幅に拡大して、感染対策の切り札として、希望する国民の皆さんに一日も早くお届けいたしたいと思います」
 そして、最後はこう結んで深々と頭を下げた。
「国民の皆様には、大変申し訳ない思いですが、皆さんの命と暮らしを守るために、そして、安心とにぎわいのある生活を取り戻すために、一層の御協力を心からお願い申し上げます」

首相は何に「全力全霊」を注いでいるのか
 あらためて言質を並べてみると、首相の念頭にあるのは「感染拡大防止対策」であって、そこに「全力全霊」で取り組むということになる。
 だが、その首相がやっていることは、まず陳謝することにはじまり、結局は、不要不急の外出や、もっとも感染リスクの高いとされる会食の「自粛」「制約」を求める「協力」を「お願い」するところに行き着く。詰まるところ、おわびと要請で頭を下げることに「全力全霊」を注いでいるに過ぎない
 もっとも会見では、感染を早期に発見し、クラスターの発生を防ぐために、高齢者施設などの検査実施や、市中感染を探知するための無症状者のモニタリング検査の実施と拡充も表明している。これは、同日に政府が改訂した基本的対策方針に盛り込まれたもので、他にも、感染経路や濃厚接触者を特定するための「積極的疫学調査」の再強化を保健所に呼びかける。
 だが、そんなことは緊急事態宣言が発出される以前から、あるいはこの「第3波」の襲来が予測されていた時点で実施されるべきことであって、いまさら「全力全霊」で打ち込むべきことでもない。
 そもそも、いまの首相は陳謝が多すぎる。総務省幹部の会食問題でも、自分の息子も絡んで陳謝を連発している。謝るのはいいが、責任の取り方を知っているのだろうか

ワクチンへの過度の期待、専門家にたしなめられる首相
 また「感染対策の切り札」と明言したワクチン。だが、ワクチンは新型コロナウイルス感染症の発症と重症化の予防に効果があるのであって、感染予防に効果があるのではない。
 実際に厚生労働省のHPでは、接種がはじまったファイザー社の新型コロナワクチンについて、こう説明している。
「現時点では感染予防効果は明らかになっていません。ワクチン接種にかかわらず、適切な感染防止策を行う必要があります」
 そこのところを記者会見で突っ込まれると、首相に並んで会見に臨んでいた政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長がこう取り繕い、半ばたしなめている。
「ワクチンを打ったからといって全てが無防備というわけにはいかない。最低の基本的な感染対策は続ける必要があるということは、是非国のリーダーあるいは自治体のリーダーには、副作用の云々の問題をしっかりと伝えると同時に、伝えていただければと思います
 尾見会長は、同日の参議院予算委員会でも、年内に人口の6〜7割がワクチン接種を受けると仮定しても「おそらく今年の冬までは感染が広がり、重症者も時々は出る」と発言している。
 やっぱり菅首相は、他者の言葉を自分に都合よく解釈したり、自分で発する言葉の意味を理解できていないのではないか感染防止対策に「全力全霊」で国民に協力を求める首相なんて、どう考えてもおかしい

不正確な言葉遣いが問題の焦点をぼやけさせる
 政治家にとって言葉はすべてだ。民主主義においては、議論によって国家の指針や運営が定まるのであって、そこで必要なものは言葉だけだ。武力や財力で歪められることがあってはならない。単純なことだ。だからこそ言葉が重要なのであり、蔑ろにしていいものではない。
 言葉は世につれて変わっていくものだ。新しい言葉が生まれたり、意味合いが変わったりする。だが、それも俗世の中で変遷するものであって、政治の舞台で発するものとは次元が異なる。だからこそ、菅首相が繰り返し使う「スピード感」なんていうそれまでにない曖昧な表現は避けるべきだ。まして、日本の行政府の長が日本語を曲解して施策を打ち出すことがあっていいはずもない。
 指導者の言葉が明瞭でも、その意味するところが曖昧だったり、よくよく吟味すると支離滅裂だったりする状態で、本当にコロナ禍の難局が乗り切れるのか。今後も不安が尽きない。