70年前の1931年9月18日、中国奉天郊外の柳条湖で、日本の関東軍は満鉄の線路を自作自演で爆破しました(満州事変「柳条湖事件」)。関東軍はそれを中国軍の仕業だとして満州全土の制圧に乗り出し、翌年3月には滅亡した清の廃帝・溥儀を担ぎだし傀儡国家「満州国」を建国しました。ところがその翌年3月28日に国際連盟総会が、日本軍の占領地から南満州鉄道付近までの撤退を勧告する決議を行うと、日本は国際連盟を脱退し以後国際的孤立化を深めることになりました。こうして「満州事変」は、その後の日中全面戦争やアジア・太平洋戦争に拡大する起点となりました。
弁護士の澤藤統一郎氏が何年か前に柳条湖事件の現場を訪れた時、そこの巨大な日めくりの「九・一八」のところに「勿忘国恥」(国恥を忘れるな)と刻まれていたことを紹介し、そうであれば侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならないと述べています。
「満州事変90年」に当たり、しんぶん赤旗に加藤聖文・国文学資料館准教授へのインタビュー記事が載りました。加藤准教授は、「満蒙は日本の生命線」というスローガンを流行らせて国民を煽ったメディアの罪も大きいと述べています。
併せてブログ「澤藤統一郎の憲法日記」「『満州事変』勃発の日に、噛みしめる平和」を紹介します
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満州事変90年 侵略戦争・植民地支配を直視
国文学資料館准教授 加藤聖文さんに聞く
しんぶん赤旗 2021年9月17日
かとう・きよふみ
1966年生まれ。日本近現代史、アーカイブス学。著書に
『海外引揚の研究』『満蒙開拓団』など。
今年は「満州事変」から90年です。1931年9月18日、日本の関東軍は奉天(今の中国運寧省瀋陽市)郊外の柳条湖で、満鉄(南満州鉄道株式会社)の線路を自ら爆破しながら“中国軍の仕業″として攻撃。半年もたたずに「満州」(中国東北部)全域を占領しました。これが日本に何をもたらしたのか、加藤聖文国文学資料館准教授(日本近現代史)に聞きました。(山沢猛)
「満州事変」90年
―「満州事変」とはどういうものですか。 ’
日露戦争(1904~05年で日本が得たのは、大連と旅順という港を抱える関東州(遼東半島の先端部の地域)と、満鉄でした。旅順から長春(新京)にいたる鉄道路線とその支線、撫順炭鉱の経営などを行う満鉄が「満州権益」の中心であり、利潤をもたらす源泉でした。
しかし軍閥の頭、張作霖爆殺などで日中関係が行き詰まるなか、事態は恵わぬ方向に進みました。1928年10月、石原莞爾が関東軍参謀に着任しました。陸軍大学校教官でドイツに留学した石原の構想は「世界大戦争」に日本が生き残るために「満州」全域を領有し日本の一大兵たん基地に変えることでした。
石原の構想(「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」「関東軍満蒙領有計画」など)が、関東軍全体に広がるために役立ったのは、張作霖を爆殺した河本大作大佐の後任に、参謀より上の高級参謀として赴任した板垣征四郎でした。板垣は石原の構想に心酔し、「満州事変」でも石原を支えました。
こうして綿密に計画された侵略戦争が柳条湖事件を発端として始まり、朝鮮駐留の日本軍も出動し、わずか2ヵ月余で奉天(遼寧省)から吉林(吉林省)、さらにチチハル(黒竜江省)と3省都を占領しました。そこには当時のソ連、軍閥の動向など特殊な条件が重なっていました。
翌32年3月、滅亡した清の廃帝・溥儀をかつぎだし、「独立国」の体裁をとった「満州国」を建国。実際は関東軍司令官が人事などの実権をもった傀儡国家でした。
軍需頼みの経済策
―「満州事変」は当時、日本国内でどのように受けとめられたのでしょうか。
それまでは中国側の圧力とか、「満鉄が危機だ」などの暗い話ばかりでしたが、日本による省都の占領などが新聞で連日報じちれ、「明るい話」になり、軍部への国民の信頼感がかなり高くなりました。
浜口雄幸内閣、岩槻礼次郎内閣と民政党内閣が実現して、国際的にもワシントン条約、ロンドン条約と海軍の反対派を抑えて海軍軍縮条約が日本も賛成して成立しました。
しかし、その政党内閣は経済政策に失敗しました。1929年の世界大恐慌が起きると、日本も失業者があふれて、農村でも生糸などが売れず現金収入がなくなり、農民の疲弊や没落が表面化しました。
両内閣ともお金はしぽりにしぽってという「緊縮財政」でした。一方で、「満州事変」が起きると政府が「戦時公債」を出して軍事需要も高まって、経済が一時的に回り始める。強制的に公共事業をやるような話ですから。大陸で「領土」は増えるし景気がよくなれば、関東軍が「満州事変」を起こしてくれたおかげだとなります。「事変」の大阻止に失敗した若槻内閣も倒れ、日本の政治の不安定化が強まります。
「満州事変」の最中に海軍が上海で軍事行動をおこします(第1次上海事件)。陸戦隊が全く必要のないところで中国軍との衝突を起こします。軍事予算のために海軍が陸軍と張り合った結果でした。
あおったメディア
― 新聞などマスメディアがあおり、国民が巻き込まれていく特徴がでていますね。
「満蒙は日本の生命線」というスローガンは松岡洋右(のちの外相)が唱え、マスメディアがはやらせたものですが、「満州」も東部「内蒙古」も日本とはまづたく関係ない地域です。古代に日本人が住んでいて、中国人によって追い出されたのではありません。そこを「守れ、守れ」というマスメディアがいた。「満州」がなければ国民が生活をやっていけないわけでもありません。もともと日本人とは関係のない地域です。
「満州国」のスローガンである「五族協和」(日、朝、漢、満、蒙の5民族)といっても日本人は20万人で、全「満州」の人口3000万人のうちの1%もいなかったのです。関東軍がこの土地を侵略し傀儡政権をつくり、日本各地から「満蒙開拓団」が関東軍や政府の主導で国策として推進されました。悲劇はこうしてつくられました。
「満蒙特殊権益」「五族協和}とは何か、歴史的背景と現実を自分なりに考えてみましょう。現在でも「安全・安心」のような抽象的なスローガンが氾濫しています。そのような言葉に踊らされず、物事の真実を見極めることが求められています。
日本では過去の侵略戦争と、朝鮮半島や台湾の植民地支配をめぐる議論が深まりません。そうしたなかで、「満州事変」は、問題の本質を浮かび上がらせ、私たちに重要な視座を与えてくれると思います。
「満州事変」勃発の日に、噛みしめる平和。
澤藤統一郎の憲法日記 2021年9月18日
私が生まれたころ、日本は長い長い戦争をしていた。いま「15年戦争」と呼ばれるその戦争の始まりが、ちょうど90年前の今日。
1931年9月18日午後10時20分、関東軍南満州鉄道警備隊は、奉天(現審陽)近郊の柳条湖で自ら鉄道線路を爆破し、それを中国軍によるものとして、至近の張学良軍の拠点である北大営を襲撃した。皇軍得意の謀略であり、不意打ちでもある。この事件が、1945年8月15日敗戦までの足かけ15年に及んだ日中戦争のきっかけとなった。
関東軍自作自演の「柳条湖事件」は、満州での兵力行使の口実をつくるため、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだもので、関東軍に加えて林銑十郎率いる朝鮮軍の越境進撃もあり、たちまち全満州に軍事行動が拡大した。日本政府は当初不拡大方針を決めたが、のちに関東軍による既成事実を追認した。こうして、事件は、満州事変となり、翌32年3月には傀儡国家「満州国」の建国が強行される。
一方、中華民国政府はこの事件を9月19日国際連盟に報告し、21日には正式に提訴して理事会に事実関係の調査を求めた。連盟理事会は、「国際連盟日支紛争調査委員会」(通称リットン調査団)を設置し、同調査団は32年10月最終報告書を連盟に提出し、世界に公表する。翌33年3月28日、国際連盟総会は同報告書を基本に、日本軍に占領地から南満州鉄道付近までの撤退を勧告した。勧告決議が42対1(日本)で可決されると、日本は国際連盟を脱退し、以後国際的孤立化を深めることになる。こうして、国際世論に耳を貸すことなく、日本は本格的な「満州国」の植民地支配を開始した。
いったん収束した満州事変は、宣戦布告ないままの日中全面戦争に拡大し、さらに戦線の膠着を打破するためとして太平洋戦争に突入して、軍国日本が敗戦によって壊滅する。その長い長い戦争のきっかけとなった日が、今日「9・18」である。
もう、何年前になるだろうか、柳条湖事件の現場を訪れたことがある。事件を記念する歴史博物館の建物の構造が、日めくりカレンダーをかたどったものになっており、「九・一八」の日付の巨大な日めくりに、「勿忘国恥」(国恥を忘れるな)と刻まれていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。
「9・18」を、中国語で発音すると、「チュー・イーパー」となる。何とも悲しげな響き。その博物館で、「チュー・イーパー」という歌を聴いた。もの悲しい曲調に聞こえた。中国の国歌は、抗日戦争のさなかに作られた「義勇軍進行曲」。作詞田漢、作曲聶耳として名高く、「起来!起来!起来!」(チライ・チライ・チライ=立ち上がれ)と繰り返される勇猛な曲。「チュー・イーパー」の曲は、およそ正反対のメロディだった。
柳条湖事件は、石原・板垣ら関東軍幹部の自作自演の周到な謀略であった。国民の目の届かぬところで戦争のシナリオを作り、実行したのだ。が、留意すべきは満州侵略を熱狂的に支持する「民意」があればこその「成功」であった。世論は、幣原喜重郎外相の軟弱外交非難の一色となった。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは、当時既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「満州の権益を日本の手に」「これで景気が上向く」という圧倒的な世論。真実の報道と冷静な評論が禁圧されるなかで、軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そのような、巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。
学ばねばならないことは、軍という組織の危険な本質であり、国家機関が国民の目の届かぬところで暴走する危険であり、煽動される民意が必ずしも肯定されるべきではないということであり、国際世論に耳を傾けることのない孤立の危険…等々である。
90年前の教訓は今にどれだけ生かされているだろうか。民主主義は、常に危うい。自由も、平和もである。