2022年10月1日土曜日

安倍国葬の失敗 - 国民の6割は安倍政治の継承を求めていない(世に倦む日々)

 世に倦む日々氏が、27日の国葬を総括する文書を出しました。

 国葬は、安倍晋三氏を神格化し神聖化する壮麗なイベントで箔付けの演出が過剰に施されていたけれど、中身は日本会議か統一教会の集会そのものであったとし、9月27というタイミングの設定は、安倍国葬で気運を頂点に持って行って、そのまま臨時国会に雪崩れ込み、改憲発議に持っていく思惑だったのだとし、さらに国葬とした政治の失敗について岸田氏一人の責任ではなく、渋る首相を捻じ伏せて国葬強行に持ち込んだ麻生太郎に主要な責任があるしました。
 評判が良かった菅義偉の弔辞については、右翼のブレーンが山県有朋と伊藤博文のエピソードという恰好の演出材料を発見し、菅に弔辞を読ませることが決まったと見ていて、彼は弔辞によって、伊藤暗殺後トップに君臨し黒幕の権力をふるい続けた山県に自分を擬して、安倍政治を継承するのは河野太郎のゴッドファーザーの地位を獲得している自分なのだ右翼に宣言したと考察しています。
 TVメディアが当日、国葬について「国論二分」「賛否が分かれた」などの表現を使い続けたことについては、反対が6割で賛成3割でダブルスコアであるとして、政府と賛成派の側に与した偏向報道だと指摘しました。そして当日反対デモに集まった市民、国の神聖な儀式を邪魔する反政府左翼という異端としてったとして、多くの字数を費やして批判しました。
 記事は最後に、安倍氏の美化など反動でしかなく、統一教会問題こそ安倍政治の本質を示すグロテスクな実体であったことを国民は理解していて、安倍政治を継承するなどナンセンスだと結んでいます。
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安倍国葬の失敗 - 国民の6割は安倍政治の継承を求めていない
                       世に倦む日日 2022年9月28日
昨日(9/27)の安倍晋三の国葬。中継を見た感想を率直に言えば、まさしく右翼の祭典で、国家の儀式で安倍晋三を神格化し神聖化する右翼の壮麗なイベントだった。安倍晋三が銃撃で横死した直後、Hanada や Will や正論などの右翼月刊誌が仰々しい追悼特集号を組んで販売していて、内容は読まなかったが、魑魅魍魎たる目次のページがおどろおどろしくネットに表出してるのが目に入り、憂鬱で不快な気分をしたものだ。今回の国葬劇は、その猛毒の極右雑誌に編集された内容と趣向が、3次元立体映像で構成され、役者が舞台で動いて喋り、始終がテレビで映されるという面妖な代物だった。

形式は国葬で、皇族やら自衛隊やらが引っ張り出され、箔付けの演出が過剰に施されていたけれど、中身は日本会議か統一教会の集会そのもので、日本国憲法を否定する右翼の思想とメッセージが発揚され示威された祭典だ。安倍晋三という右翼のリーダーを偉大な英雄として偶像崇拝し、国家の正規の装置の下で正当化と普遍化を固めるセレモニー(祀り事)だった。右翼が日本国の儀式を私物化し、税金を使い、皇族と自衛隊を動員し、公共の電波を使い、国民の弔意を強制し、安倍晋三とそのイデオロギーを絶対化する宣教を押し付けていた。あからさまな内心の自由の侵害であり、憲法19条違反である。

国葬まで81日も時間が空いた点について、国葬を肯定し支持する側のマスコミ論者は、間隔が空きすぎたのが失敗だったと言っている。もっと早く実施していれば、統一教会問題の非難が大きくなる前に国葬を催行でき、国論二分にならなかったと弁解し、失態の責任を岸田文雄に転嫁している。これは右翼の欺瞞と論点逸らしだ。9月27日の日程設定は、戦略目的に沿った計画的措置であり、臨時国会の直前のタイミングを意図的に選んだものである。姜尚中も言っていたが、この国葬の政治目的は、改憲発議のモメンタムを高めるところにあり、9月いっぱい改憲発議の政局を詰め、仕上げのイベントとして安倍国葬を位置づけていた。

安倍国葬で気運を頂点に持って行って、そのまま臨時国会に雪崩れ込み、発議了承(条文最終案と国民投票時期)を決める思惑だったのである。9月27日の国葬は、改憲発議の国民的意思統一の機会だった。だから、臨時国会直前でなくてはならず、戦略的にこの日程が布石されたのである。何も考えずに9月27日にしたわけではなく、武道館が空いてなかったからだの、嘘八百もいいところだ。嘘八百を撒いて大衆を騙すのが田崎史郎の役割である。統一教会問題が騒動にならなければ、9月は改憲発議の政局で永田町とマスコミが動いていた。それが、国葬を強引に推進した麻生太郎のシナリオだった。

このところ、国葬の政治の失敗について、もっぱら岸田文雄に責任が押しつけられ、岸田文雄が一人で決めたように説明され断定されている。そう既成事実化されている。忘れてはならないのは、麻生太郎が「これは理屈じゃねえんだよ」と3回も電話して恫喝し、渋る岸田文雄を捻じ伏せて国葬強行に持ち込んだと暴露した FLASH の記事(9/6)だ。この情報は「無派閥の自民党議員」を取材して書いている。事実だろう。法的根拠もないのに平気で閣議決定で押し通す手法も、まさに麻生太郎と安倍晋三の手口だ。政治状況を正確に見通す能力のない麻生太郎は、統一教会問題が燃え広がる展開を予測できなかった

何事も自分に都合のいいように考えることしかできない麻生太郎は、視野狭窄のまま、安倍晋三の急死を改憲政局に利用してやろうと考え、祖父吉田茂の例の再現を図るべく国葬を思いついたのだ。無論、この男らしく、式進行を戦前の軍国主義仕様にし、靖国神社の例大祭で流される『国の鎮め』だの、『悠遠なる皇御国』だのの音楽演奏を挿入している。国家神道の公的復活も忘れてない。宮間純一が解説したとおりだ。大日本帝国の遺物を甦らせている。式進行の毒々しい現実を目の当たりにしながら、なるほど、これでは吉田茂の後に二度と国葬が実施されなかったのは当然だと頷かされた。どう考えても日本国憲法の原理原則の下では無理がある。

国葬の後のマスコミ報道で評判のいい菅義偉の弔辞と、特にその中核となっている山県有朋と伊藤博文のエピソードについてだが、一瞥して、ゴーストライターの介在が透けて見える。周到で狡猾な準備が窺える。菅義偉が自分で書いた作文ではないだろう。まず最初にこの歴史上の逸話(短歌)ありきで、これを菅義偉に感動的に紹介させ、その絵を国葬全体のハイライトにし、クライマックスにしようという演出企画があり、菅義偉を主役に当てた脚本が制作されたと推測できる。菅義偉が友人代表で弔辞を読むと予告されたのは、国葬が決まってかなり後の発表だった。右翼のブレーンがネタ探しをして、恰好の演出材料を発見し、企画が決まったのだ。

それからまた、「今より後の世をいかにせむ」の句の意味は、喪失感とか空白感の吐露などではなく、今後の自民党政治を仕切ろうという菅義偉の意思と自信の表明だと看取できる。ギラギラした毒光りのする薄暗い野心のシグナルだ。伊藤暗殺の後、山県は明治国家のオーナーとなり、長閥トップに君臨して83歳で死ぬまで黒幕の権力をふるい続けた。菅義偉は、自分が山県になると言っているのであり、それを伝えることで右翼を安心させている。安倍政治を継承するのは岸田文雄ではなく菅義偉なのだ。すでに、次の人形である河野太郎のゴッドファーザーの地位を獲得している。オレが山県になって差配するから大丈夫だと右翼に宣言している。右翼は安心するだろう。

国葬のマスコミ報道で不満なのは、終始、「国論二分」だの「賛否が分かれた」などの表現を使い続けた点である。賛否が拮抗していたならその見方でよいが、現実には、国葬に国民の6割が反対していた。6割反対という事実は、FNN産経の世論調査の統計で証明されている。朝日や毎日ではなく、産経の調査で6割反対が結果されているのである。賛成は3割でダブルスコアではないか。通常、こうした比率の場合は「賛否拮抗」とか「国論二分」とかは言わない。反対が圧倒的多数で、民意は反対で決まりである。時間が経つほどに反対が増え、賛否の勝負は決していた。「国論二分」は不正確な認識であり、政府と賛成派の側に与した偏向報道だと言わざるを得ない。

テレ朝の大下容子の番組司会を聞きながら、この報道態度は、どう考えても反対6割の世論や民意を意識した公平なものではなく、国葬を肯定する自民党に寄り添ったものだと違和感を覚えざるを得なかった。考えてみれば、大下容子も、大越健介も、安倍・菅体制による不当で非民主的な報道干渉の禍の中で抜擢され、花形の座を射止め、栄誉栄華を謳歌しているマスコミ人である。今の番組キャスターは全員そうだ。彼らがポストを得るに際しては、安倍・菅に嫌われて降板させられた多くの者たちがいた。NHKの国谷裕子のように。したがって、テレビで安倍国葬を報じている者たちは、基本的に自民党の仲間であり、安倍レジームの要員である。国葬美化と安倍礼賛は必然だ。

27日のマスコミの報道では、確かに国葬反対派も撮影され、中継映像の中で存在のシェアは確保されていた。だが、反対デモに集まった市民の扱い方は、九段坂公園の追悼場所に並んだ「市民」を紹介する目線とは全く異なり、国の神聖な儀式を邪魔する反政府左翼という異端の扱いだった点は否めない。NHK以上にテレ朝は酷かった。NHKは、ニュースで田中優子を映していて、反対派にそれなりの意義を与えて遇する姿勢を見せていた。だが、テレビ全局とも、半蔵門から九段下に行列する「市民」を積極視し、彼らを「普通の国民」として優等生扱いし、彼らに内在し評価する姿勢が顕著だった。穢らわしい偏向報道ではないか。その「市民」の真実は、草の根の安倍右翼なのだから。

彼らは「普通の市民」ではない。少数である3割に属する右翼の立場の者である。普通の市民は国葬に反対する6割の側だ。安倍晋三などに供花する者は腹の据わった反共右翼で、九段坂公園への行列に並ぶ行為は政治の示威行動そのものである。つまり、左翼のデモと意味は同じだ。献花行列は右翼のデモである。政治のデモにおいて、屡々「頭数になる」とか「頭数を作る」という言い方をする。27日の草の根安倍右翼は、頭数を作るべく九段下に繰り出し、マスコミのカメラに数を撮らせていた。政治運動をやっていたのであり、日の丸の代わりに生花を持参しただけだ。だが、マスコミはその意味をスリ替え、右翼を中立表象に偽装し、報道工作して右翼を幇助した。厳密に分析すれば、放送法違反のプロパガンダである。

国葬に反対デモする市民側をマスコミ報道が矮小化したため、ネットで右翼は勢いづき、ツイッターやヤフコメでは反対デモへの侮辱と罵倒が溢れる状態となっていた。けれども、反対派がデモを挙行したおかげで国葬反対世論が多数という政治的事実が可視化された点は否めず、その貢献は意味が大きい。特に、欧米の記者は反対デモに着目し、映像の中心材料にして報道を組み立てた。彼らは、プラカードを掲げた市民デモの絵に敏感でプリファー⇒優先的であり、それを積極表象として捉え、率先して報じる傾向がある。もし、今回、左翼市民がデモを行わなかったら、世論6割が反対という実勢でもそれを証明する事実がなく、欧米のプレスが焦点を当てて配信する素材がなかった。

27日の国葬は、左右が激突した政治である。「市民」の供花は右翼のデモだ。右翼と自民党は、27日の国葬を契機に巻き返しを図り、統一教会問題で劣勢に陥った現状を逆転するべく、マスコミに菅義偉を持ち上げさせ、美談の装飾で国葬を意味づける作戦に出た。結果がどうなるかは10月の世論調査で確認される。最後に、結論として、今回の国葬の政治で最も本質的な契機は、国葬の世論の賛否の数字が、実は安倍政治への国民の評価を総括的に表しているという事実である。単刀直入に言えば、すでに国民の6割が安倍晋三から心が離れ、安倍政治に対して否定的な認識に変わっている。右翼はこの事実に気づいているだろうか。すなわち、あの国葬で訴求されたところの、安倍政治の意義の普遍化など無意味なのだ。

安倍晋三の美化など反動でしかないのだ。安倍政治を継承するなどナンセンスで、国民はそれを求めてないのである。自民党と右翼は、統一教会問題をアクシデントかフロックのように捉え、時間が過ぎれば自然と大衆の関心が薄れて払拭され、安倍保守政治の威光と真価が復活すると信じている。だが、それは自分勝手な考え違いというものだ。統一教会問題こそ安倍政治の本質を示すグロテスクな実体であって、国民はその真実を理解している。