安倍晋三氏を個人的に知る人は、殆どが「根はいい人だ」と評するということです。それは多分、個人的に会うと傲慢でなく、ウソつきでもないという意味なのでしょう。
それでは何故「政治家 安倍晋三」や「安倍晋三首相」になると、「人が変わったように」、極右といわれ、傲慢になり、息をするようにウソをつくのでしょうか。
安倍首相と同郷の芥川賞作家田中慎弥氏(2012年に40歳で受賞)が最近、安倍氏をモデルにしたと思われる小説『宰相A』(新潮社)を書きました。そこでは宰相Aに、「いつも申し上げる通り、戦争こそ平和の何よりの基盤であります」、「我々は戦争の中にこそ平和を見出せるのであります」、「アメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦うのです」と語らせて、見事に「積極的平和主義」をからかっています。
ところで首相のいう「積極的平和主義」の意味するところをチャンと説明できる人はいるのでしょうか。とてもいるとは思えませんが、それにもかかわらず与野党を問わず首相にキチンとした説明を求めたという話は聞きません。それはたとえ質問したとしても納得出来る回答など得られないからです。仮に納得できるまで質問し(て掘り下げ)ようとしても、最初に述べた答えが延々と繰り返されるだけということを知っているからです。
これは安倍氏の特徴というよりも、彼の知性のレベルを周囲がどう見ているかを端的に物語るものです。まことに恐るべき人がトップに立ったものです。
これは安倍氏の特徴というよりも、彼の知性のレベルを周囲がどう見ているかを端的に物語るものです。まことに恐るべき人がトップに立ったものです。
田中氏は地元のイベントで一度安倍氏と会話を交わしていて、そのときのことを週刊誌に寄稿していますが、視線を落として目を合わせようとしなかった安倍氏に「うつろ」さを感じたとして、政治家っぽくない人で向いてない仕事を背負わされている人という印象だったと述べています。
そして祖父 岸信介、大叔父 佐藤栄作、実父 安倍晋太郎という華麗なファミリーの中にいて、自分が彼らにはとても及ばないことを承知しているものの、自分がダメな政治家だとは口が裂けても言えない・・・「弱い自分でいることが許されない」という「危険な状態」にあると述べています。
田中氏は4歳で父を亡くし、以後40歳を超えた現在も母一人子一人の生活で、就職した経験もないということですが、そうした孤独な自分の境遇に照らして、安倍氏のことを案じているとLITERAの解説者は述べています。
つまり政治家 安倍晋三は虚勢を張った姿、虚像だというわけです。
その結果が極右的な暴走につながっている、あるいは暴走するしかなかったという筋立てはそれなりに納得させるものがありますが、政権のトップがそんな状態で国を操るということであれば堪ったものではありません。
さらに言えば実像が敢えて虚像を選択した以上、再び実像に戻るということはあり得ません。それこそは自己の全否定につながるからです。
もしも戻るときがあるとすれば、それは余ほどのショックがあったときです。
さらに言えば実像が敢えて虚像を選択した以上、再び実像に戻るということはあり得ません。それこそは自己の全否定につながるからです。
もしも戻るときがあるとすれば、それは余ほどのショックがあったときです。
やはり安倍晋三氏には出来るだけ早く政権の座を去って欲しいものです。
LITERAの解説記事を紹介します。
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(シリーズ 安倍晋三の問題は政治性でなく人間性だ!)
安倍首相のモデル小説を出版! あの芥川賞作家が本人に会った時に感じた弱さと危うさ
LITERA 2015年3月22日
「(賞を)もらっといてやる」──『共喰い』(集英社)で第146回芥川賞を受賞した際にこんな発言をして注目された作家の田中慎弥。そんな田中の新作が、いま、話題を呼んでいる。
というのも、話題の小説の題名は『宰相A』(新潮社)。タイトルから想像がつくかと思うが、このなかで描かれる“宰相A”のモデルが安倍首相ではないか、と見られているからだ。
『宰相A』は、ジョージ・オーウェルの『1984年』のような全体主義国家を描いた、いわゆるディストピア小説。物語は、小説が書けないでいる主人公の作家が電車に乗り、母の墓参りに向かうところから始まるのだが、作家が辿り着いたのはアングロサクソン系の人間たちが「日本人」だと主張する世界。──第二次世界大戦後、敗戦国となった日本をアメリカが占領・統治を行い、アメリカ人たちが入植し、日本人は「旧日本人」と呼ばれ、監視された居住区で押さえ込まれるように生活をしている……そんなパラレルワールドのような“もうひとつの”日本を描いている。
その世界で、旧日本人の反発を封じるために選ばれた首相こそが、旧日本人の「A」である。
〈緑の服を着た六十くらいの男が現れる。いわゆる旧日本人、つまり日本人だ。中央から分けた髪を生え際から上へはね上げて固めている。白髪は数えられるくらい。眉は濃く、やや下がっている目許は鼻とともにくっきりとしているが、下を見ているので、濃い睫に遮られて眼球は見えない。俯いているためだけでなく恐らくもともとの皮膚が全体的にたるんでいるために、見た目は陰惨だ。何か果たさねばならない役割があるのに能力が届かず、そのことが反って懸命な態度となって表れている感じで、健気な印象がある〉
顔立ちといい、態度といい、どう考えても安倍首相を描写したとしか思えないAという人物。しかし、げに恐ろしいのは、Aが口にする演説内容だ。
「我が国とアメリカによる戦争は世界各地で順調に展開されています。いつも申し上げる通り、戦争こそ平和の何よりの基盤であります。」
「我々は戦争の中にこそ平和を見出せるのであります。(中略)平和を搔き乱そうとする諸要素を戦争によって殲滅する、これしかないのです。(中略)最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります。」
現実の安倍首相は、ことあるごとに「積極的平和主義」という言葉を持ち出しては日本を交戦国にしようと働きかけるが、宰相Aはその未来の姿にも見えてくる。本来、平和学では、戦争がなく、差別や貧困による暴力のない状態を指し示す「積極的平和主義」という言葉を、いま、安倍首相はアメリカと協調し、軍事的に他国に介入する意味として使用している。現実の安倍首相が言う「積極的平和主義」とは、小説内のAが口にする「戦争主義的世界的平和主義」そのものではないか。
このように、決して笑えない世界の姿を叩きつける『宰相A』。作品は文芸評論家からも高い評価を受けているが、一方で読者からは「話題づくりで安倍首相をモデルにしたのでは」という声も上がっている。
だが、田中が安倍首相を小説のモデルにした理由は、話題づくりではないはずだ。それは、田中は以前より安倍首相に対して関心を寄せ、その強気の姿勢に危惧を表明しているからだ。
田中が「週刊新潮」(13年1月17日号/新潮社)に寄稿した、『再起した同郷の宰相へ 弱き者 汝の名は「安倍晋三」』という原稿がある。題名にある通り、田中は安倍首相の選挙区である山口県下関市に生まれ育ち、現在も在住している。この寄稿文によれば、田中は地元のイベントで、一度、安倍と顔を合わせたことがあるらしく、そのとき安倍は田中に向かって本※の感想を述べたのだという。
※2012年以前に出版された本で「宰相A」ではありません。
〈(安倍は)田中さんの本は読んだんですが、難しくてよく分かりませんでした、と言う。私は思わず、読みづらい本ですので、とかなんとか適当に返したように記憶している。(中略)面と向かって、よく分かりませんでした、と言うとは、ずいぶん正直な人だなと思った。怒ったのではない。(中略)作家としてはむしろありがたいくらいだった〉
だが、田中が気になったのは、安倍の〈うつろ〉さだった。
〈私が顔を見ても安倍氏の方は視線を落として、目を合わせようとしなかった〉〈政治家っぽくない人、向いてない仕事を背負わされている人という印象だった〉
このときの印象が『宰相A』での描写に通じていることを思わせるが、田中はさらにテレビ越しに見えてくる安倍の性質について洞察。〈いいですか、いま私が喋ってるんですから、などとどうしようもなく子どもっぽい反応を示す〉ことや、〈自分と意見が違うその人物をせせら笑うという不用意な顔〉を見せてしまうことを挙げて、〈これは、ルーツである山口県の政治風土の表れではないかと私は思う〉と述べている。
しかし、こうした県民性以上に田中が強く指摘するのは、安倍の〈弱さ〉である。
〈相手をせせら笑う不遜と、私と会って目も合わせなかったうつろでオーラのない表情の落差。つまり安倍氏は明らかに、政治家としての自分を強く見せようとしている。強くあろうとしている。なぜか。安倍氏は弱い人間だからだ。強くあろうとするのは弱い証拠だ。だったら、あるがまま生きればいい。弱いことは、人間として決して悪いことではない。だがここで、血筋の問題が出てくる。(中略)祖父と大叔父と実父が偉大な政治家であり、自分自身も同じ道に入った以上、自分は弱い人間なので先祖ほどの大きいことは出来ません、とは口が裂けても言えない。誰に対して言えないのか。先祖に対してか。国民に対して、あるいは中国や韓国に対してか。違う。自分自身に対してだ〉
「戦後レジームからの脱却」と称し、安倍首相が憲法改正や自衛隊の国防軍への移行を主張するのは、自民党の意志でもある。だが、ここまで強気に進める理由を田中は〈そういう党の中にいる安倍氏が、偉大で強い家系に生まれた弱い人間だからだ〉と見る。そして、タカ派に分類される安倍を〈弱いのに強くなる必要に迫られているタカ、ひなどりの姿のまま大きくなったタカ〉と表現するのだ。
〈安倍氏が舵取りの果てに姿を現すだろうタカが、私は怖い〉──ここまで田中が憂虞するのは、政治的・軍事的な理由からではない。幼くして父を亡くしたことのせいか、田中は〈男性的でマッチョなものが、根本的に怖い〉のだという。男であることが不潔に感じ、〈何度も死のうとした〉ことさえある。そのときのことを〈死んでみせることで、周囲に強い人間だったと思わせることが出来るのだと、勘違いしたからだろう〉と田中は振り返るが、だからこそ、弱い自分でいることを許されない安倍は危険な状態なのではないか、と田中は案じるのである。
この田中による指摘は極めて重要だ。安倍首相の強硬姿勢が彼の政治的信条に基づいた行動なのであれば、まだ議論の余地もある。だがそうではなく、安倍自身の血筋というプレッシャーや、本来のパーソナリティである弱さを隠すために過剰に強くあろうとして偉大な祖父が成し得なかった偉業に挑んでいるのであれば、それは暴走だ。しかも、こうした暴走への危惧は、きっと安倍首相には通じないだろう。なぜならそれを受け止めることは、自分の弱さを認めることになるからだ。
自分の弱さを否定するために、戦争への道をひた走る首相。──『宰相A』で描かれた恐怖は、いま、まさに日本で進行している現実である。
(水井多賀子)