2018年5月31日木曜日

31- <もうひとつの沖縄戦>(1)、(2)(東京新聞)

 太平洋戦争末期本土防衛の捨て石とされた沖縄の地上戦では18万8千人の日本人がなくなり、そのうち民間人は9万4千人に上ります。沖縄の悲劇はそれにとどまらず、3千人以上の兵士が45年6月に捕虜としてハワイに移送され、劣悪な環境の施設に終戦後も収容され続けました。
 同じ収容所には米国在住の日系一世や二世ら数百人も収容されていました。宗教者や教師、経済人ら影響力のある人たちで、米国政府から日本に忠誠を誓う者たちとみなされて隔離されたのでした。
 
 東京新聞がこの体験者たちからの聞き取りなどに基づいて、「シリーズ <もうひとつの沖縄戦>」の連載を始めました。
※ 原記事にアクセスすれば当時の写真もご覧になれます。
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<もうひとつの沖縄戦>(1)
18歳の捕虜 ハワイへ 猛暑の船底 裸で移送
東京新聞 2018年5月29日
 太平洋戦争末期に日米合わせて約二十万人が死亡した沖縄戦から七十三年。沖縄の人々は本土防衛の捨て石とされただけでなく、三千人以上の男たちが捕虜として米国ハワイに移送され、終戦後も収容されつづけた。少なくなった元捕虜たちは、もうひとつの「沖縄戦」を語り継ごうとしている。 (編集委員・佐藤直子)
 
 捕虜を乗せた米軍の上陸用舟艇は、嘉手納(かでな)沖に停泊した大型輸送船の脇腹につけるように止まった。二十メートルほど上方の甲板から縄ばしごが下ろされる。「カモン(上がれ)」。船上から米兵が手招きした。捕虜たちは戦闘で弱った体にむち打って上った。
 一九四五年六月下旬。米軍との戦いで焦土となった沖縄本島から、戦場で捕虜となった沖縄の兵士らを乗せた船が出航した。
 当時十八歳だった元嘉手納町議の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)は船内で全裸にされ、米兵に海水のシャワーを浴びせられた。あとは下着一枚配られない。閉じ込められたのは、荷を積む船底だった。「殺される」と恐怖に震えた。
 
 旧制県立農林学校の卒業を目前にした四五年二月、渡口さんは徴兵検査に二年繰り上げて合格。那覇市内に駐屯していた球二一七二野戦高射砲隊に入隊し、初年兵教育もないまま戦場に出た。
 四月一日に米軍が沖縄本島に上陸し地上戦が始まると弾薬運びなどをしたが、米軍に制空権を握られて昼間は高射砲を撃てない。砲台に草木をかぶせて壕(ごう)に隠れ、夜になると敵の陣地を攻撃した。弾も食料も睡眠も足りない。「大和魂だけで踏ん張っていた」と渡口さん。百五十人余いた中隊はやがて三十人ほどに。那覇から南へ撤退し、糸満市摩文仁(まぶに)の海岸に隠れていたところを捕まった。
 
 米軍トラックに詰め込まれ、捕虜を集めた屋嘉(やか)収容所に向かった。数日後には故郷の嘉手納に移動。そこでは集められた捕虜が列をつくり輸送船に乗せられていた。渡口さんも家族の安否も分からぬまま乗せられた。同じ船に当時十五歳の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)がいた。鉄血勤皇隊と呼ばれる学生部隊の一人だった。
 何十人もの捕虜が押し込まれた暗い船底は窓もない。明かりは裸電球が一つ。猛烈な暑さで人いきれが激しかった。「食事のときも皿一枚配られない。手のひらに飯を盛り、おかずをのせる。顔をうずめて獣のように食べるんです」。そんな扱いが古堅さんには耐えがたかった。誰もが疲れ切って無口だった。一日二回の食事で日にちを数えた。
 用便も人目のある所でバケツにした。汚物処理のため、輪番でバケツを甲板に上げる一瞬だけ、新鮮な空気に触れることができた。
 
 行き先も分からぬまま、ある日、甲板に出た渡口さんは遠くに島をみた。「あそこは」と監視の日系米兵に尋ねた。「こちらサイパン。あちらはテニアン」。指さす方に日米の激戦地となった島が見えた。
 捕虜を乗せた船は南東へと進んでいた。三週間ほど過ぎたころ、米兵が「上陸だ」と知らせに来た。到着したのはハワイだった。
 
 
<もうひとつの沖縄戦>(2)
「地獄谷」と呼ぶ収容所
東京新聞 2018年5月30日 
 一九四五年七月、沖縄戦での日本人捕虜を乗せた輸送船は、米国ハワイのパールハーバー(真珠湾)に入った。州都ホノルルを擁するオアフ島の南側に位置するこの軍港は、四一年十二月八日未明に日本海軍が奇襲攻撃を仕掛けた因縁の地だ。船から下ろされた捕虜がトラックで連れて行かれたのは、島の中西部にあるホノウリウリ収容所だった。
 山中の約六十五ヘクタールの荒れ地を切り開き、四三年に建設されたハワイ最大規模の強制収容所。鉄条網に囲まれてバラックやテントが並ぶ。雨が降ると赤土がぬかるみ、猛烈な暑さと大量の蚊が捕虜たちを悩ませた。「地獄谷」と呼ばれていた
 収容所では大きな袋が一人ずつに配られた。中には靴や靴下、せっけん、歯磨き粉、食器、コップなどの生活用品が入っていた。
 
 ハワイに上陸する直前、捕虜たちに配られた上着とズボンを脱ぎ、胸や背中、ズボンの太もも部分に「PW」とペンキで書かれた服に着替えた。「Prisoner of War(戦争捕虜)」を意味する屈辱的な印だった。
 捕虜たちはホノウリウリで、ただ食べて寝て、衰弱した体を休めた。十八歳の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)が労働を命じられたのは、ハワイに来て一カ月が過ぎたころ、ホノルル湾入り口のサンド島の収容所に移されてからだ。
 
 軍の洗濯工場での軍服の整理や、米軍将校宅の庭の草刈り、ごみ集めなどが割り当てられた。労働は一日八時間。監視の米兵が捕虜に暴力を振るうことはなかったが、銃を手に「ジャップ」と呼び、敵意をむき出しにする監視兵もいて怖かった。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれた皇軍兵士が敵国のために働かされる。渡口さんはその悔しさを忘れない。「故郷や家族のことばかり考えてね。働いても米国のためだと思うと苦しかった…」
 
 真珠湾攻撃はハワイの日系人社会にも暗い影を落としていた。ホノウリウリ収容所には沖縄からの捕虜だけでなく、米国籍の日系一世や二世らが数百人も収容されていた。生活の活路を求めてハワイに移住した日系人の人口は、四〇年に全州の37%を占めていた。
 このうち、宗教者や教師、経済人ら影響力のある人たちは米国政府より日本に忠誠を誓う者たちとみなされて隔離を強いられた。有力者を失った日系社会は弱体化していった。 (編集委員・佐藤直子)