80年前の1941年12月8日は、日本が米国のハワイを奇襲しその後アジア・太平洋全域に戦争を拡大した日でした。戦争は310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジアの人々が犠牲になるという破局的な結果を招き、日本とアジアの国土は荒廃しました。
その反省の下、戦争放棄の9条をもつ日本国憲法が1946年11月3日に公布されたのですが、いまでは安倍元首相をはじめ高市政調会長らは公然と憲法違反の「敵基地攻撃能力の保有」を叫び、岸田首相も当たり前のようにそれに同調しています。皆、戦争の経験がないだけでなく、戦争の悲惨さ学ばなかった人たちに違いありません。
「敵基地攻撃能力の保有」が考えられないほどの愚策であることに何故気が付かないのでしょうか。それは識者にとっては常識なのにも関わらず、メディアがそうした論調に与しないのは何故なのでしょうか。終戦後、メディアが行った戦争協力への反省はどうなったのでしょうか。
このままでは80年前の悲劇を再び繰り返すことになり兼ねません。
8日のしんぶん赤旗、毎日新聞、新潟日報の社説を紹介します。
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主張 対米英開戦80年 「戦争する国」への道を許さず
しんぶん赤旗 2021年12月8日
対米英戦争に突入した1941年12月8日からきょうで80年です。中国大陸で侵略戦争を続けていた日本はこの日、当時イギリス領だったマレー半島コタバルとアメリカのハワイを奇襲しアジア・太平洋全域に戦争を拡大しました。45年8月に敗戦した日本の侵略戦争によって、日本国民とアジア諸国民のおびただしい命が奪われました。その戦争への深い反省の上に立って制定されたのが日本国憲法です。岸田文雄政権が前のめりになっている改憲策動は歴史への逆行です。日本を再び「戦争する国」にしてはなりません。
引き返せる局面はあった
開戦80年の節目に、戦争を特集する新聞やテレビの企画、本の出版が相次いでいます。その一つが新書『太平洋戦争への道 1931―1941』です。NHKラジオが4年前に放送した番組をまとめたものです。「歴史探偵」と呼ばれた作家の半藤一利さん(今年1月死去)とノンフィクション作家の保阪正康さん、東京大学教授(日本近現代史)の加藤陽子さんが、対米英戦争に進む戦前日本の歩みを検証し、学ぶべき痛苦の教訓を語り合っています。
「戦争は暗い顔で近づいてはこない」(加藤さん)、「命令一つで命を奪った軍事指導者の罪」(保阪さん)、「日本人よ、しっかりと勉強しよう」「引き返せる局面はあった」(半藤さん)。3人の言葉がそれぞれ印象に残ります。
「戦争への道」にはいくつもの分岐点がありました。15年にわたる戦争の始まりとなった「満州事変」(31年)は、当時「満州」と呼ばれた中国東北部での権益拡大を狙った日本軍の謀略で起こされたものです。この時、日本の新聞は「満蒙」は「生命線」だともてはやし戦争をけしかけました。戦線を拡大する軍部の動きを政府は追認し、日本は「満州国」をでっちあげ、国際連盟から脱退しました。
国際的に孤立した日本は、泥沼化した日中戦争を打開するために、東南アジアでの資源確保と領土拡張を企て、米英との戦争は不可避と準備を加速します。ドイツやイタリアのファシスト政権と三国同盟を締結(40年)したことが、対米英戦争へ突き進む重大な転機となりました。国家総動員法制定(38年)などで戦時体制を強化し、国民を戦争に駆り立てました。
無謀な戦争は破局的な結果を招き、310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジアの人々が犠牲になり、日本とアジアの国土は荒廃しました。戦争の傷痕はいまだにいえず、国内外の戦争被害者からは戦争責任を問う声が今も尽きません。
9条にもとづく政治こそ
憲法前文に刻まれた、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」決意がいまこそ重要です。
岸田政権のもとでの9条改憲と一体の大軍拡が、危険な局面を迎えています。9条に自衛隊を明記すれば、憲法の戦力不保持・交戦権否認の規定が空文化します。歴代政権が違憲としてきた「敵基地攻撃能力」の保有に向けた動きは、軍拡の悪循環をもたらすだけです。強硬論や敵対のエスカレートが戦争を招いた過ちを繰り返してはなりません。
9条を守り生かす政治を実現するために、世論と運動を広げようではありませんか。
社説 日米開戦80年 自己過信の危うさ教訓に
毎日新聞 2021/12/8
太平洋戦争の開戦から80年を迎えた。旧日本軍による米ハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で戦端が開かれ、4年後、米軍による広島と長崎への原爆投下で終戦に至った。
戦火はアジア全体に広がり、犠牲者は日本人310万人、アジアでは2000万人を超えた。
開戦前夜、日米の国力の差は明らかで持久戦には耐えられないとの分析がいくつもあったという。
なぜ無謀な戦争に走ったのか。軍部の暴走、政治の機能不全、外交の失敗、メディアの扇動。さまざまな要因が重なって負の連鎖に陥ったのが実相だろう。敗戦の教訓を今に生かす必要がある。
日米開戦を警告した著書「日本の禍機」(1909年刊)で歴史学者の朝河貫一は、日露戦争後の領土拡張政策が日本の孤立を招くと訴えた。半世紀にわたり友好関係にあった米国は日本を警戒し、「仇敵(きゅうてき)とならんとするの運命」の岐路にあると指摘した。
だが、大国ロシアに勝利した日本は実力を過信する。自作自演の爆破事件から満州事変を起こし、日中戦争へと突き進んだ。列強支配の秩序を維持したい英米は中国を支援し、対立は決定的となる。
対米開戦は、大恐慌による景気低迷と大国の包囲網による難局の打開が狙いだった。真珠湾攻撃に国民の意気は上がり、引き返せない泥沼の戦いにのみ込まれた。
時代状況は今に通じる。経済的、軍事的に台頭する中国が戦後の国際秩序に挑戦し、米国は「民主主義と専制主義の闘い」と主張して中国包囲網を構築する。
新型コロナウイルス禍で経済が疲弊し、格差が世界中で広がる。各地で排外的な論調が先鋭化し、感情的な政治的主張がソーシャルメディアを通じて増幅される。
重要なのは、紛争を未然に回避する理性的な外交だ。協調を重視し平和的解決を目指す。その旗振り役を日本が担うべきだ。
日米首脳が広島と真珠湾でそろって戦没者を慰霊したのはわずか5年前だ。広島では放射性物質を含む「黒い雨」を浴びた被爆者の救済がようやく決まり、ハワイでは身元不明遺骨のDNA鑑定事業が今年終わった。
戦争の傷を癒やすには途方もない時間が要る。「不戦の誓い」が色あせることがあってはならない。
社説 日米開戦80年 戦争の愚かさを胸に刻む
新潟日報 2021/12/08 08:31
戦争の愚かさを忘れてはならない。被害と加害の歴史を正面から見つめ、過ちを決して繰り返さない。節目のきょう、その大切さを改めて胸に刻みたい。
80年前の1941年12月8日、日本軍が米ハワイ・真珠湾の攻撃に踏み切り、太平洋戦争が始まった。
37年からの日中戦争と合わせ、45年の敗戦までに日本人の犠牲者は310万人に上る。
広島、長崎で原爆が投下されるなど多くの悲劇が生まれ、国土は焦土と化した。中国や朝鮮半島などアジア諸国にも甚大な惨禍をもたらした。
今、実際に戦争を体験した人、戦時中を生きた人が減り続ける一方で、先の大戦を美化するような風潮もある。
しかし、人と人とが殺し合う戦争ほど無意味で残酷なものはない。戦争はしてはならない。
真珠湾攻撃を指揮した長岡市出身の連合艦隊司令長官山本五十六が、日米開戦に反対だったことはよく知られている。
開戦前、親友の堀悌吉に宛てた手紙に「個人としての意見と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進(まいしん)の外なき現在の立場は、誠に変なもの。これも命といふものか」と記した。
自分の考えとは反対の決断をしたという葛藤、それでもやり遂げようとの悲壮な決意が伝わってくる。
山本が開戦に反対した理由は、武官として米国に駐在した経験からその国力の大きさを知っていたからだ。
当時の軍人や政治家の中で日米開戦に反対したのは山本一人ではなかった。
それがなぜ、開戦に傾いていったのか。どうしてそれを多くの国民が支持するようになってしまったのか。
歴史から真摯(しんし)に学び、教訓を社会全体で共有し続ける。それが未来の平和につながるということをしっかりと肝に銘じなければならない。
山本の故郷・長岡市は真珠湾攻撃から71年後の2012年、真珠湾のあるハワイ・ホノルル市と姉妹都市になった。
長岡花火を真珠湾で上げたり、中高生らを派遣したりして交流を深めている。長岡市内では今年も8日夜、市民団体が鎮魂と平和の花火を打ち上げる。
長岡市は1945年8月1日、米軍の空襲を受け、1500人近くが亡くなっている。
かつて敵同士として戦火にまみれた両市の交流は、和解と友好の象徴だ。交流を通して一人一人が相互理解を深めていくことこそ、平和の土台となる。
アジアでは中国が覇権主義的な動きを見せ、台湾に圧力をかける。こうした中で米中対立は厳しさを増している。
国内では台湾海峡有事が発生すれば無関係ではいられないとして、防衛力増強を訴える声もある。だが、必要なのは対立回避のために、米中との関係が密接な日本がどう役割を果たすか知恵を絞ることだろう。
真珠湾の歴史克服に取り組み交流を続ける本県から、政府にその努力を求めていきたい。