2021年12月15日水曜日

「中国の民主」の論理と文脈 - 罵倒と排斥の前に学問的な整理と理解を(世に倦む日々)

 「世に倦む日々」氏が題記の興味深い記事を出しました。

 記事は、12日のサンデーモーニングでMCの関口宏氏が、中国政府の『中国の民主』白書を一言に要約したフリップを掲げて全否定したことに対して、「そこに一分の理も認めず、一方的に排斥し侮辱してよいかと言うと、それは違う」と述べました。
 そして少なくともMCやコメンテーターは、世上の『空気』とは異なる主義主張に対しては「その言い分が何なのかを、一度はフラットにニュートラルに聴いて確かめる必要がある」筈で、世情に迎合するように頭ごなしに全否定するのは正しくないと指摘しました。
 そうしたことを繰り返していては、「民主制が衆愚制になって滅亡したアテナイようになりかねないと警告しています。民主政治と衆愚政治は体制としては同じだとも。
 極右政治家を中心にいま平然と「平和憲法を変える」ことが叫ばれても何となく是認されていたり、本来は民生に用いるべき10兆円以上もが軍備拡張に投じられようとしても、特別に強い反対が生れないというのは、「愚かなこと」ではないでしょうか。
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「中国の民主」の論理と文脈 - 罵倒と排斥の前に学問的な整理と理解を
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12日に放送されたサンデーモーニングで、中国政府が発表した『中国の民主』白書が取り上げられ、関口宏が口をきわめて罵倒する場面があった。白書の内容を簡単に要約してフリップに書き出し、「民主と専制とは矛盾しない。ごく少数のものを叩くのは大多数を守るためで専制の実行は民主を実現するため」と紹介、この主張に対して「よく言うよ」と呆れて一蹴、語気を荒げて毒づいていた。番組の直後にスポーツ紙がネット記事を上げて注目している。「中国の民主」論を槍玉に上げて袋叩きする報道は、10日のTBS報道1930でも行われていて、森本敏が念入りに罵詈雑言を浴びせて貶めていた。関口宏はそれを見て予習していたのだろう。中国の言い分は常識的には納得できない言説であり、明らかな論理矛盾を狷介に認めず、現在の抑圧体制を無理に正当化する強弁に見え、唯我独尊の開き直りに聞こえる。したがってマスコミの政治評論としては、これを否定する結論を与えるのは自然な態度だろう。だが、そこに一分の理も認めず、頭から全否定して一方的に排斥し侮辱してよいかと言うと、それは違う

中国には中国の言い分がある。持論があり正義がある。その言い分が何なのかを、一度はフラットにニュートラルに聴いて確かめる必要があるはずだ。中国側の理屈に耳を傾けて、その論理を客観的に整理・理解する必要がある。特に政治の報道や放送に携わる者は、意識して公正で慎重で抑制的な姿勢に努めないといけないだろう。関口宏がフリップに要約した「中国の民主」の論理は、簡単に言えばマルクス・レーニン主義のプロレタリア独裁の意味である。具体的に言えば、多数であるプロレタリアートが少数であるブルジョワジーを強権支配するという階級独裁のことで、この理論と思想は人民民主主義として定式化されている。中華人民共和国の憲法第1条には、この国が「労働者階級が指導し、労働者・農民の同盟を基礎とする人民民主主義独裁の社会主義国家」であると明記されている。また、憲法前文には「人民民主主義独裁」とは「すなわちプロレタリアート独裁」であるという規定もあり、中国が20世紀の共産圏国家の原理原則をなお戴いていることが分かる。キューバもベトナムも北朝鮮も基本的に同じシステムを保持している。

つまり、中国式民主主義とは基本的に人民民主主義のことであり、彼らには人民民主主義という民主主義があり、それを理論的に基礎づけるプロレタリア独裁の理論があるのである。まずはこの基礎的事実を報道で概略的に説明する必要がある。「中国の民主」の言い分が荒唐無稽で論理矛盾に見えるのは、その者がリベラルデモクラシーの立場に依拠しているからであり、その観念的地平に没入して他者に偏見的になっているからだ。目を吊り上げて糾弾の唾を飛ばす前に、中国の憲法の条文に目を通す必要があろう。左翼リベラルは立憲主義が重要だと言っている。立憲主義の立場に立つなら、中国政府が自国の憲法に忠実に国家運営している点に着目し、内在的視線で対応してよいではないか。プロレタリア独裁が善いか悪いか、人民民主主義が正当か不当か、その価値判断は別の問題である。人にはそれぞれ価値観があり、譲れない正義とイデオロギーがある。マルクス・レーニン主義を絶対悪として拒絶し嫌忌する者も多いだろう。だが、中国が建国より自らの国家原理を人民民主主義として定礎し、ここまで歴史を紡いできた事実は事実なのであって、それは客観的に認めないといけない。

ベトナムについても同じで、少なくとも中国とベトナムは経済建設に成功している。国旗に赤い星を印した原理の元で国家を成功に導いている。マルクスがプロレタリア独裁の権力体制を理論化したのは『ゴータ綱領批判』で、『共産党宣言』にはこの記述はない。パリ・コミューンの苦い敗北と挫折を経て、立法権だけでなく行政権も押さえる必要を認め、革命権力の全権掌握と反革命ブルジョワジーの強権統制のため、過渡的な権力体制としてプロレタリア独裁の概念を措定した。そこから150年。ソ連の崩壊と冷戦の終焉によって、この概念と思想は歴史的に否定されたという今日の常識になっている。決着がついたと現代人は考えている。だが、果たして本当にそう言えるだろうか。ハンガリーやトルコやフィリピンの例を挙げようと言うのではない。そうではなく、一人の庶民としての感慨で、この20年間、もし現上皇と上皇后の親政体制であったら、日本はどれほど現在と違っていただろうと夢想するのである。おそらくその中身は、加藤紘一と田中真紀子が20年間を担ったのと政策的には同じだっただろう。20年後の今のGDPが800兆円を超えていたのは間違いない。格差も衰退もなく。

アリストテレスは『政治学』の中で国家の政体を三形態に分類している。(1)専制、(2)貴族制、(3)民主制の三つである。この三つの中で、アリストテレスは(3)民主制をベストだと断定しておらず、それぞれ一長一短あると相対的な評価をしている。大事なのは国に富と力を与え、民が平和で幸福に暮らせる体制だと言い、肝心なのは形態ではなく中身だと言っている。われわれはそれを聞いて意外に思うが、アリストテレスが見ていたのは民主制が衆愚制になって滅亡したアテナイの現実と経過だった。民主政治と衆愚政治は体制としては同じで、制度形態としては同じシステムなのである。民主制は、健全で良識ある指導者と市民の存在がなければ、すぐに堕落して衆愚制に転化してしまう。国家を滅ぼしてしまう。アテナイの衆愚制によって非業の死を遂げた師ソクラテス。その弟子プラトンが唱えた哲人政治は、アテナイの衆愚制に対する渾身の怒りと批判をもって対置した政治理念だった。マルクスのプロレタリア独裁の概念は、思想的淵源を辿ればプラトンの哲人政治に行き当たる。熱血の理想家プラトンが激憤に燃えてそれを提唱したように、マルクスの前にはパリ・コミューンでの同志の大量虐殺の悲劇があった。

以上のような説明は、プロレタリア独裁すなわち人民民主主義についての基礎知識であり、西洋政治思想史の概論で大学生が学ぶ政治学のイロハである。現代人には奇異に映る「中国の民主」のロジックには、こうした西洋政治思想史の背景と文脈がある。少なくとも、職業政治学者はその要点をマスコミで解説しないといけないだろう。それが商売なのだから。だが、関口宏の横に座っていた自称政治学者は、一言も専門家のコメントを入れなかった。呆れるのは、「中国の民主」の理屈の方ではなく、無言で済ましてギャラ稼ぎした姜尚中の方だ。私自身は丸山真男に即く位置にあり、したがってどこまでも民主主義の理念と理想を信じ、可能性を追求し、民主主義を one and only と考える立場に変わりない。だが、同時に、丸山真男が言ったように、単に体制・制度としての民主制が確立されているだけでは意味がなく、不断に民主化運動する主体がなければ形骸化して衆愚制として機能するだけで、専制や貴族制と何も変わらないと考えている。そして、民主主義の不能不全の前にプラトンに誘引される感覚を否めない。プラトンの哲人政治論はおそらく未来永劫に不滅であり、衆愚制に倦み疲れ絶望した人々の前に立ち現れるだろう。
衆愚制に対するアンチテーゼとして、説得力と思想的生命力を持ち続けることだろう。