沖縄ジャーナリズム論を受講する大学生たちが沖縄の戦跡を探訪しました。
1945年3月に始まった沖縄戦では20万人以上が亡くなりました。
その他にも、44年8月には、長崎へ向かう疎開学童ら1484人が犠牲になった「対馬丸」をはじめ、3,400人余の県民が海で命を落としました。
沖縄本島を離れ那覇の西30キロに浮かぶ渡嘉敷島では、米軍が45年3月に沖縄の地で初めて上陸したとき、窮地に追い込まれた住民は、日本軍に配られた手りゅう弾を爆発させるなどして、老若男女315人が集団自決しました。
沖縄は本土決戦を前に、時間稼ぎの「捨て石」にされたといわれています。
看護要員に動員され犠牲になった生徒らをまつる「ひめゆりの塔」や、ひめゆり学徒が負傷兵を看病した真っ暗闇の洞窟、戦没者一人一人の名が刻まれた平和の礎(いしじ)-。沖縄本島で最も被害を受けた南部の戦跡を、学生たちは訪ね歩きました。
大学生たちに同行した東京新聞の記事を紹介します。
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戦争 命の軽さに衝撃 大学生が見た沖縄
東京新聞 2014年9月18日
「悲しみ、怒り、戦争への嘆き…」。米軍に撃沈された戦時遭難船の犠牲者をまつる「海鳴りの像」(那覇市)の前。専修大生田キャンパス(川崎市)で沖縄ジャーナリズム論を受講する学生らに、バスガイド城間(しろま)佐智子さん(61)が語り掛ける。その声を、青空を次々横切る戦闘機のごう音がかき消した。
一九四五年三月に始まった沖縄戦では二十万人以上が亡くなった。だが、犠牲者はそれだけではない。四四年八月、長崎へ向かう疎開学童ら千四百八十四人が犠牲になった「対馬(つしま)丸」をはじめ、三千四百人余の県民が海で命を落とした。
ウチナーンチュ(沖縄の人)の心に残る最も深い傷痕は、言うまでもなく太平洋戦争だ。沖縄は本土決戦を前に、時間稼ぎの「捨て石」とされた。
看護要員に動員され、犠牲になった生徒らをまつる「ひめゆりの塔」や、ひめゆり学徒が負傷兵を看病し、死に直面した真っ暗闇のガマ(洞窟)、戦没者一人一人の名が刻まれた平和の礎(いしじ)-。沖縄本島で最も被害を受けた南部の戦跡を、学生たちは訪ね歩いた。
のどかな景色にも戦争の記憶は宿る。「ここは全て爆撃を受けました」。城間さんの声で見ると、一面に広がるサトウキビ畑を縫う道を、日焼けした若者がサーフボードを抱えて通り過ぎた。
沖縄出身の四年、大城志織さん(21)も「よく戦争の話は聞いていたが、以前は昔話という感覚で捉えていた。そこは本土の若者と変わらないのでは」。
本島を離れ、那覇の西三十キロに浮かぶ渡嘉敷(とかしき)島は、悲しい歴史に包まれている。青碧(せいへき)に輝く海に囲まれ、今は若者でにぎわう離島に、米軍は四五年三月、沖縄の地で初めて上陸。窮地に追い込まれた住民は、日本軍に配られた手りゅう弾を爆発させるなどして老若男女三百十五人が集団自決した。
元中学校校長吉川嘉勝さん(75)の一家は、手りゅう弾が爆発せず、母の「ぬちぬたから(命こそ宝)や」という掛け声で逃げた。だが直後の爆撃で父が命を落とした。「忘れたくても忘れられない」。多くの親子きょうだいが殺し合った谷あいの雑木林に激しい雨がたたき付ける中、学生たちは吉川さんの一言一言にじっと耳を傾けた。
日本軍の「戦陣訓」は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」と投降するより死を選ぶよう説き、軍人だけでなく、民間人の心も縛った。二年の板倉陽佑(ようすけ)さん(20)は「米軍ではなく、日本人が日本人に死を強いたことが一番悲惨。想像をめぐらしたが、今も整理できない」と言葉を失った。