11日に公表されましたが、作成日は2日になっています。武田氏のブログは作成日を記すので、公表が遅れるとこういうことが生じます。
今回は、論文が取り下げられた後にも、作成当時無給の研究員であった小保方氏個人を偏見をもって執拗に追及し、その反面、真の責任者でありながら何故か発表の直後から小保方氏の批判側に回った若山氏の責任は全く等閑に付すという、NHKの報道姿勢を「コウモリ報道」として批判しています。
武田氏のブログではときどき、芥川龍之介が「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である」と述べたことを引用していますので、それを紹介した同氏の元記事も併せて紹介します。
原典は、芥川龍之介の「侏儒の言葉」です。
「 輿論
輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。
又 輿論の存在に価する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。」
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STAPの悲劇を作った人たち(8) (主犯 NHK-4 常にコウモリ報道)
武田邦彦 2014年9月2日
すでに示したように主犯NHKの犯した反社会的な行為は、次の5つである。
1) STAP論文の記者会見を大げさに報道して有名にしておいて、後で叩くという「マッチポンプ報道」をしたこと。
2) STAP論文の主要な著者は4人なのに、小保方さんだけに焦点を当てて批判を展開したこと。完全にNHKの判断で「良い人、悪い人」を分け、著者の中でも恣意的に区別を行ったこと。
3) STAP論文にネットで疑義が出されると、「意見が異なる両者」の意見を比較して報道するのではなく、放送法4条に違反して「疑義を言う人だけの言い分を報道する」という放送法違反の報道をしたこと。
4) 理研の調査委員会が結論をだし、論文が取り下げられたのに、特定の個人(笹井さん、小保方さん)の的を絞った批判の報道を続けたこと。
5) 取材に当たって小保方さんに2週間の怪我をさせ、女子トイレに閉じ込めたこと。個人の私信であるメールを公開したこと。
今回は4) を整理する。理研は論文を出し、特許を出し、記者会見をした当事者なのに、ネットで論文の欠陥を指摘されると自らの判断や責任を回避して(はしごを外して)、裏切り行為にでた。そして、調査委員会を開き(最初の調査委員長は同種の論文不正で退任)、理由を明示せずに著者の一人(小保方さん)だけを「不正行為をした」と認定した。
これに対してNHKは理研の手続きや判断の不正を問題にせず、「小保方さんの不正が確定した」と報じた。そしてさらに問題の論文が取り下げられたので、「論文を出した4人の著者の責任」はなくなった。もし、この問題をきっかけに「日本の科学技術のあり方」とか「理研の闇」を追求するとしたら、それは小保方さんやその論文の不備を指摘したり報道したりすることではなく、政府の研究費配分のあり方、文科省などの「盗用、剽窃、悪意」などの規則の非合法性、税金を使った研究の成果としての論文などの所有権の問題などに進むべきである。
さらにもし個人的な問題があるとしたら、若山氏(正規の研究員で上司)と小保方さん(無給研究員で部下)が共同執筆者で投稿したSTAP論文が若山氏がサイエンスなどの雑誌に出し、ネイチャー論文が問題になるとまるで他人の論文のように批判側に回ったのかなどの謎に迫るなら、まだ意味があった。
しかし、7月末のNHKの笹井さん、小保方さんのリンチ番組に至るまで、NHKは「正義がどちらにあるか」ではなく、日本社会の誤解を拡大する方向の報道姿勢をとり続けた。これは朝日新聞が戦前は「軍部礼賛、アメリカ敵視」記事から、戦後は「平和主義、親アメリカ路線」に切り替えたのと同じだ。
しかし、朝日新聞は商業的に売れれば良いという新聞であり、商売だから若干の理由があるが、NHKは営利団体でない、誤解を拡大して視聴率を取る必要はない。むしろ、商業放送とは違うスタンスをとることができるから国民は受信料をとっているのである。
いずれにしても、「論文を取り下げろ」というからとりさげて「何もなくなった」と言いながら、さらに取り下げた論文の著者のうち、特定の個人だけを狙った報道はいかにも悪質だった。人間が悔しく、かつ反撃の意欲を失うのは、不当なバッシングがある時だ。正当なバッシングでしかも反論のチャンスが与えられれば人間は反論し、正常な精神状態にいることができるが、不当なバッシングと反論の機会を与えないというのは、まさに芥川龍之介が書いたように「ピストルの代わりにペンを持ち、娯楽の快感を味わってリンチをした」と言えるだろう。
芥川龍之介談・・・「娯楽」で人を死に追いやる人たち
武田邦彦 2014年8月22日
芥川龍之介が「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても」と述べている。さすがは芥川龍之介で、遠く明治(小説家としての活躍期は大正年間・・・事務局)の時代に今日のバッシング文化を鋭く批判している。
この警句が載っているブログの記事に「リンチ(私刑)は許されるか」というのがあった。それによると、(1) この世には「悪いこと」があり、(2) それは罰するべきである、という考えが、現代日本の社会に蔓延していて、ネットという新しい手段で、それが正当化される可能性があるとしている。
恐ろしいことだ。
まず第一に「この世に悪いこと」があるという。そうであれば誰かが「これは悪いことだ」というのを決めなければならない。それは「神様」か「偉人」ということになっている。普通の人が「これは悪いことだ」と決めることはできない。たとえば、浄瑠璃の世界では主君のために我が子を殺すことが正当化される。殺人ですら、常に「正義」の名のもとで行われるのだから、「普通のこと」の「善悪」というのは誰も自分で判断することはできない。
そこで人間は長い歴史の中で「合意」をしていることがある。第一には宗教団体のように任意に参加できる団体内では、その団体内だけで「善悪」を決めることができること、第二に一般社会ではその社会を構成する人(国民)が相互に約束して「これは悪いこと」と決めて法律を作り、税金を出してその法律を政府や警察に守らせるというシステム、である。
また「倫理」と「道徳」は区別されないこともあるが、厳密に言えば、「倫理」の倫は相手という意味だから、相手の理(ことわり)に従うことを意味している。これをいれると、「正しいこと」というのは、宗教団体では神様が決め、社会では法律(約束)が決め、個人的には相手(倫)が決める、ということになる。
ネットでは「自分で正しいことを決めることができる」ということになると、それはこれまでの人間の歴史ではありえないことで、もしネットで「自分が正しいと思うことに基づいて、「悪いこと」を罰する」ということになると、まさに「リンチ」であり、それは「反社会的なこと」で、それ自体が「悪いこと」になる。つまり「悪いことを罰する」という行為自体が「悪いこと」なのだ。
また、私たちの約束事(法律)では、単に「何が悪いか」を決めているだけではなく、「悪いことをした人の自由を奪ったり、罰したりする手続き」も決まっている。これが民事訴訟法、刑事訴訟法で、とても大切な法律だ。
つまり、「なにが悪いか」を決めただけでは不十分で、「悪いことを決める手続き」も同じように大切である。仮にネットの人で神様のような人がいて「悪いこと」を決めることができても、その人が「悪い」と決めれば、即、死刑ということではなく、たとえば「ネットで批判する場合は名前を名乗らなければならない」とか、「批判に対して、同程度の反論の場を与えなければならない」などの細かい手続きが必要だ。
このような手続きが重要なのは、「原理原則」と「それを現実にする方法」が大切だからだ。その意味では、ネットのバッシングは (1) ネットの人が神様になることと、(2) 手続きを無視して直ちに「首を刎ねろ!」というような暴君になること、を意味している。
STAP事件のマスコミ・リンチで言えば、NHK、毎日新聞、分子生物学会などが「神様」と「暴君」の役割を同時に果たし、その結果、リンチが成立した例でもある。