東日本大震災から丁度5年、福島原発事故の被災者を合わせると避難者の総数は17万4471人に上ります。震災関連死は、3月10日時点で3410人に増え、死者、行方不明者を合わせた震災の犠牲者数は2万1865人となりました。
その一方、この間の国による被災地の復興はどうだったのでしょうか。朝日新聞の東北復興取材センター長兼仙台総局長の坪井ゆづる氏はこの5年を通観して、11日の紙面に、
「いまからでも遅くない。次の5年の復興・創生期間で、政府は被災地に一部負担を求めて自立を促す。ならばその間、国の権限も財源も県へ、(そして)県のものは市町村に渡すべきだ。住民の知恵と工夫で暮らしを再生してはじめて自立できる。それが復興の理念にかなう」
と署名記事で書きました。
既に5年が経過しているのに、「いまからでも遅くない」と言うところに、復興方針が的を得ていない現実とスピードの鈍さへの氏の思いが凝縮されています。
東京新聞の記事と天木直人氏のブログを紹介します。
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避難いまも17万4471人 死者・不明・関連死2万1865人
東京新聞 2016年3月11日
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故による全国の避難者は、なお十七万四千四百七十一人に上る。
津波被害の激しかった岩手、宮城、福島の三県によると、避難生活での体調悪化などで亡くなった震災関連死は、三月十日時点で三千四百十人にまで増えた。死者、行方不明者を合わせた震災の犠牲者数は二万一千八百六十五人となった。
大地震は二〇一一年三月十一日午後二時四十六分に発生し、宮城県で最大震度7を観測。大津波が太平洋沿岸の広い範囲を襲い、多くの市街地や集落が壊滅的打撃を受けた。
警察庁によると、死者は一万五千八百九十四人、行方不明者は二千五百六十一人。
三県では、プレハブ仮設住宅で今も計五万七千六百七十七人が暮らしている。
原発事故では、福島県双葉町など県内七市町村の一部が今も帰還困難区域に指定され、福島県から県外に避難した住民は二月二十六日現在、四万三千百三十九人に上っている。
一方で、昨年三月には常磐自動車道が全線開通し、五月には仙台市中心部と宮城県石巻市を結ぶJR仙石線が全線復旧するなど、交通網の整備は進んだ。
被災後三県警に収容された一万五千以上の遺体は身元の解明が進んだが、今年二月末時点で七十五遺体が未判明だ。行方不明者家族の多くは、遺体が見つからないままやむなく死亡届を提出。警察庁によると、提出率は震災半年後に約77%に及んだが、少なくとも二十七人の不明者家族は、五年後の今も死亡届を出せずにいる。
「復興の権限・財源を被災地に」と書いた朝日新聞
天木直人 2016年3月11日
震災5年目に当たるきょうの各紙は、「復興なお道半ば」という記事であふれている。
しかし、詳しく読んでみると、「道半ば」どころではない。
5年も経つというのに、津波被害も原発被害も、根本的な問題解決はほとんど手つかずのままだ。
そしてついにメディアが書いた。
きょう3月11日の朝日新聞が一面トップで「復興へ権限・財源を被災地に」という見出しで次のように書いた。。
「いまからでも遅くない。次の5年の復興・創生期間で、政府は被災地に一部負担を求めて自立を促す。ならばその間、国の権限も財源も県へ、(そして)県のものは市町村に渡すべきだ。住民の知恵と工夫で暮らしを再生してはじめて自立できる。それが復興の理念にかなう」と。
まさしく私が5年前に指摘したことだ。私の長年の読者ならご記憶だろう。震災直後の2011年5月に私はブログで書き、それを日刊ゲンダイが連載で掲載した。
この国の指導者(政治家、官僚、有識者たち)に復興を任せていては解決はおぼつかない、なぜならば彼らこそ、それまでの日本のシステムを作って来た責任者だからだ。この際、権限と予算の一部を彼らから取り上げ、現場に与えよ、と。
せめてこの未曽有の災いを転じて福となすには、この機会に日本の権力構造を革命的に変えることしかない、と。
ついに朝日までが書いた。
そしてそれは震災復興に限らない。
そっくりそのまま日本の再生にあてはまる。
いま我々が連日目にしているものは、行政がすべての分野で行き詰まっている姿だ。
それに対して何も出来ない無策の姿だ。
ならば彼らが独占して来た権限と財源を国民に与えるのだ。
一挙に全部とはいわない。
その一部で十分だ。
そして、その一部の権限・財源の移譲がうまくいくことが誰の目にも明らかになった時、その移譲の範囲はおのずから広がっていく。
それこそが市民革命である。
暴力によらない平和的手段による革命である。
それこそが、当時私が唱えた「もうひとつの日本」づくりであり、いま実現が望まれる既存の政党・政治家を否定したあらたな政治づくりである(了)