佐高 信氏の「一人一話」シリーズの第40話、「101歳のジャーナリスト むのたけじ」 「憲法をぞうきんのように使え」を紹介します。
むのさんは、敗戦を機に朝日新聞などが太平洋戦争の戦意高揚に関与した責任を感じて退社しました。そして秋田県にもどり週刊新聞「たいまつ」を創刊し、反戦の立場から言論活動を続けた人です。
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「憲法をぞうきんのように使え」
101歳の現役ジャーナリスト むのたけじ
佐高 信 ダイヤモンドオンライン 2016年2月29日
(第40回 佐高 信の「一人一話」)
怒りの炎を燃やし、命がけで生きる
『週刊金曜日』の2016年2月19日号で、むのたけじが八王子市議の佐藤梓と「70歳差対談」をやっている。学生時代、記者になりたいと思っていた佐藤は、むのの本を読んで衝撃を受けた。戦争責任を感じて1945年8月15日に『朝日新聞』を辞め、郷里の秋田県横手市に帰って週刊新聞『たいまつ』を発行したむのに、自らの存在を揺さぶられたのだろう。
昨年の春に市議会議員となった佐藤は、自民党会派から出された安保法制への賛成の意見書に反対の立場をとり、1940年に帝国議会で斎藤隆夫が行った「反軍演説」を引いた。
「あなた方の先輩には斎藤議員のような人がいたんですよ」と伝えたかったからである。
むのは当時、記者席から反軍演説を見ていた。
「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共和、曰く世界の平和……」
すさまじい怒号にも斎藤は怯まなかった。小柄ながら張りのある声で斎藤は演説を続ける。
「かくのごとき雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば……」
むのは、斎藤が命がけなのだと思った。
むのも、怒りの炎を燃やし、命がけで生きている。むのと同じ1915年生まれは、落語家の柳家小さん(5代目)であり、女優のイングリッド・バーグマンである。
むのは、言葉には話し言葉と書き言葉の2つがあるとし、「あくまでも話し言葉が基本」だとする。肉声が入らないと本当の言葉にはならないところがあるので、「原稿を書くときも、まずはしゃべるようにしている」とか。
「70歳差対談」のタイトルは「人間にとっていちばん大切なのはやっぱり人間だ」だが、70歳下の佐藤ともきちんと向き合えることが、むのの現役の証拠だろう。
新聞の戦争責任を思い、朝日新聞を退社
『第三文明』の1998年9月号で、むのと対談した時、私は「前記」にこう書いた。その最初と最後だけ引く。
<むのたけじという人は、ある意味で、私の人生を決定した人である。むのさんの本を学生時代に読んで、日本を変えるには足もとから変えなければならない、と私は郷里に帰ったようなところがある。教師になったのも、むのさんの影響が大きかった。
大学2年の秋、盲腸で入院した池袋病院の一室で、むのさんの『雪と足と』を読み、ノートにこんなことを書いた。
「ほんものだ!ほんものの思想だ!揺るぎなきほんものの思想だ」
朝日新聞社に勤めていたむのさんは、新聞の戦争責任を思い、ただ一人退社する。そして秋田に帰り、新聞『たいまつ』を創刊する。その記録が『たいまつ十六年』だが、ほぼ絶版になっていたこの本を、後年、私が編者の現代教養文庫のノンフィクション・シリーズに入れることができたのは幸いだった。>
<私が自分の“思想的故郷”ともいうべき魯迅に出会ったのも、むのさんを通じてだった。
「行く先が明るいから行くのか。行く先が暗くてきびしくて困難であるなら、行くのはよすのか。よしたらいいじゃないか」
展望があるから、行く手に光があるから、私たちは行くのではない。行かねばならないから行くのである。魯迅の思想の本質をむのさんはズバリと私たちに提示してくれた。80歳を過ぎて元気なむのさんの健在を祈るや切である。>
ちなみに『雪と足と』は絶版で、『たいまつ十六年』は岩波現代文庫に入っている。
戦争犯罪人として裁かれた東条英機とむのは記者時代に会ったことがある。
首相の東条の秘書官が演説について、「閣下が入れ歯を治して、それがうまくはまらないから、発音が悪かったんでしょう」と言っているのを聞いて、むのはそれをコラムに書いた。
東条はそういうことが気になる男なので、きっと反応があるだろうと思っていたら、案の定、「この記事を書いたのはだれだ! そいつを呼べ!」という話になり、指定された国会の玄関で待っていたら、東条が来て、口をあんぐり開け、「これを見よ。おれの入れ歯の具合が悪いと書いたが、どこが悪いんだ」と怒られた。
それで、むのは東条を、自分に対する批判はともかく許さないような、とても気の小さい人なんだなと思った。「実力はないし思想もないのに、歴史のいたずらというか、何かのめぐりあわせで、大戦争の指導者という地位に身を置かされた人物」だと、むのは確信したのである。
『世界』の2000年3月号で対談した時は、私は次のような「後記」を書いた。
<私が大学を出て教師となるために帰ったのは、むのさんの影響が大きかった。
「自分はボロを着ても、タクアンのしっぽでめしを食っても、子どもは上の学校にやろう、参考書も文房具も十分に買って与えようという気持ちは美しい。けれども人間の幸福とか不幸とかいわれるものは、しょせん社会とのつながりできまるものではありませんか。本気でわが子をしあわせにしたいなら、この子らに私たち親はどんな社会をひきつごうとしているかを一番熱心に考えて努力しないといけないのではありませんか」
むのさんは『詞集 たいまつ』(評論社)にこう書いている。
「自画自賛、結構じゃないか。自賛できないような画は描くな」
こんな指摘もあった。魯迅の思想も、私はむのさんや竹内好さんから受け継いだが、憲法をぞうきんのように使え、というのもむのさんらしい>
「憲法をぞうきんのように使え」という意味はこうである。
「現在の日本国憲法に対しても、実生活から離れた大変立派なものであって、たとえていえば礼服を着たときの胸ポケットの絹のハンカチのようにきれいに扱うような意識が、いまの若い方々にもあるのではないか。そのような態度では憲法の中身が次第に風化するでしょう。私は、憲法は絹ハンカチではない、台所を朝昼晩清めるぞうきんのように使えということを言いたいです。日用品です」
あるいは、次のような指摘を、現在の改憲論者はどう受け止めるのだろうか。
「明治憲法の時代は、憲法を変えろなどとはだれも公然とは言えなかった。言ったら死刑になる恐れがあった。戦前と戦後と何が変わったかといったら、現在は憲法のもとで暮らして、その憲法に基づいて国会議員になったり、国務大臣になっている連中が、こんな憲法変えなければいけない、時代に合わない、と言っても処罰されないことでしょう」