安倍首相は、第二次安倍内閣が発足した当時は行く先々で中国脅威論を振り撒き、世界中から顰蹙を買いました。その後、米中の関係は日米の関係よりももっと強固であることを認識したようで、それは止めにして代わりに北朝鮮脅威論に転じたのはご存知の通りです。
どうも近くに強烈な「脅威」が存在しないことには、国策にしても対外政策にしても成り立たない、というところが安倍政権の泣きどころのようです。(^○^)
日本は太古の昔から、大陸渡来の文化・文明によって啓発され発展を遂げてきたわけで、中国の恩恵は並々ならぬものでした(江戸末期から明治に入ると西洋文化に触れることになり、更なる展開を果たしました)。
日中平和友好条約の締結から12日で40年になります。今年はまた、中国の改革開放政策から40年になります。
東京新聞が、日本に留学した中国人たちの軌跡を通じ、日中関係の40年を振り返る、「敵として 友として 中国人留学生40年」について、3回のシリーズで連載します。古き良き時代の日中関係について知ることが出来ます。
冒頭の部分で中国の李克強・現首相が登場しますが、李氏が日本留学時代に小沢一郎氏の実家(山形県水沢市)にホームステイした事実は知る人ぞ知るの逸話です(小沢氏自身は多くを語る人ではないのであまり知られていないし、記事のなかにも出てきませんが)。
近隣の国家との間に「善隣友好」の関係を構築することこそ平和のために何よりも必要なことで、それはまた安倍政権に最も欠けているものです。
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<敵として 友として 中国人留学生40年>
(上)若き李克強首相「日本に学べ」
東京新聞 2018年8月9日
「日本のメディアには初めてお見せするものです」
中国江蘇省蘇州のホテルで会った弁護士、謝思敏(しゃしびん)さん(61)が、かばんから取り出した古い手紙は茶色に変わっていた。
北京大の同級生だった李克強(りこくきょう)・現首相が、日本留学前の謝さんに宛てたものだ。李氏は旅立つ友にこうつづっている。
「日本人は進取の精神に富んでいる。日本では専門知識だけでなく、時間をかけて日本の民族精神と文化的な背景を学ぶべきだ」
「日本人は東西の文化を融合できたことに誇りを抱いている。彼らになぜそれができたのか。理性的に研究するだけでなく、感性で理解することも必要だ」
謝さんと李氏は、大学の寮で二段ベッドの上と下に寝ていた仲。手紙の中でも李氏は謝さんを「思敏」と呼び掛け、文末に「克強」と記し、親しい間柄にあったことが分かる。
謝さんは一九八二年十月、政治動乱の文化大革命(六六~七六年)終了後に初めて公費で留学した大学院生百四十九人の一人だ。「日本で何を学ぶべきか方向を示してくれた」この手紙を今も大切にする。
七八年十二月、改革開放政策を決めた中国政府は、人材育成策として海外留学重視を打ち出す。日中戦争以来約四十年、中国人留学生の受け入れは実質的に途絶えていた。
謝さんは神戸大の大学院で民法や商法を学んだ。中国国内にはソ連や国民党時代の文献しかなく、外国で学ぶことを強く望んだ。帰国後は証券市場の開設に奔走し、改革開放政策の一端を担った。
「旧敵国への留学に周囲の反対はなかったか」と問うと、首を横に振った。
「敵から学ぶこともできる。日本が戦後、米国から学んだように」
◆重圧あり楽しくもあり
一九八二年十月、謝思敏(しゃしびん)さんと同じ飛行機で来日し、京都大の大学院で高分子化学を学んだ唐本忠(とうほんちゅう)さん(61)=香港科技大教授=が鮮明に覚えているのは、留学前の半年間、遼寧省大連で受けた日本語の特訓だ。
「まったくのゼロからのスタート。でも日本人の先生は悪魔のように厳しかった」と振り返る。そして留学生活で「重いプレッシャーを感じていた」と明かした。
中国政府は謝さん、唐さんらに五年以内の博士号取得を求めていた。「日本では五年で博士号を取る人は少ないが、成し遂げなければならない使命だった」
唐さんは後年、中国学術界の最高称号「中国科学院院士」を得ることになる。
大学院生に先駆け、学部レベルの公費留学は七九年に始まった。その一人の孫暁燕(そんぎょうえん)さん(66)は早稲田大で日本語を学んだ。
文化大革命の時に若者を農村で再教育する「下放」の五年間を経て二十一歳で北京外国語大の日本語学科に入った。孫さんの父は日中国交正常化前に対日工作を担った故孫平化(そんへいか)氏だが、日本語専攻を希望したわけではない。「下放が終わり、北京に戻れれば、専攻は何でもよかった」と笑う。
留学は大学卒業後、党の機関で「毛沢東(もうたくとう)選書」の和訳などの仕事をしていたときに降って湧いた。留学先を決めたのも政府だ。「聴従国家的召喚(国家の召喚に従う)」のが当然とされた時代。「誰もが中国の近代化に貢献したい一心だった」という孫さんの言葉に、当時の雰囲気がにじむ。
それでも留学は楽しい思い出に彩られている。早大の故安藤彦太郎教授の家庭にホームステイし、「何でも見て、いろいろな人に会いなさいと連れ回してもらった」。他の留学生とともに首相官邸で大平正芳首相にも会った。孫さんはその後、通訳として文字どおり日中をつないできた。孫さんの長男も東京芸術大で学び、三代で日本に留学したことになる。
唐さんも「日本人は留学生に親切にしてくれた。私も日本人が礼儀を重んじ、真面目に仕事に取り組む姿勢から多くを学んだ。いい時代だった」と懐かしむ。
今となっては信じられないほどの「日中関係最良時代」の恩恵に、留学生たちも浴していた。
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日中平和友好条約の締結から十二日で四十年となる。今年は中国の改革開放政策から四十年でもある。日本に留学した中国人たちの軌跡を通じ、日中関係の四十年を振り返る。
(上海支局・浅井正智、中国総局・中沢穣)
<日本の中国人留学生受け入れ>
日清戦争直後の1896年、清国の官費留学生を受け入れたことに始まる。魯迅(ろ・じん)や郭沫若(かく・まつじゃく)、周恩来(しゅう・おんらい)、蒋介石(しょう・かいせき)ら著名人も日本に留学した。日中戦争後、その数は激減。1949年の新中国成立後、中国はソ連や東欧に留学生を派遣したため、日本留学は長らく途絶えた。本格的な受け入れ再開は、改革開放政策導入後まで待たなければならなかった。
<敵として 友として 中国人留学生40年>(中)強い熱意、成功つかむ
東京新聞 2018年8月10日
一九九六年九月、中国・上海テレビで前例のない番組が始まった。タイトルは「中日之橋」。日本の社会や文化を紹介する内容で、出演者は日本語で話し、逆に中国語の字幕が付く。
司会を務めた呉四海(ごしかい)さん(56)は大阪のテレビ局で研修を受けた後、八九年に関西学院大学に入学、日本文化論などを学んだ。帰国後、半年の準備期間を経て、番組をスタートさせた。
「すべてが初の試みだったが、日本で学んだ経験が生きた」と振り返る。二〇一四年九月まで続いた番組は、日本に関心を持つ上海人に広く知られていた。
中国から日本への留学生は八〇年代半ばから順調に増加していく。八三年に中曽根康弘首相が提唱した「留学生十万人計画」が呼び水になった。中国政府が私費留学を認めたことも、中国人の日本留学熱を高めた。
初期の公費留学生が改革開放への貢献が求められたのに対し、この時期の留学生からはさまざまな分野で成功を収める人が現れる。
中国政法大学教授の陳景善(ちんけいぜん)さん(49)は結婚四年後の九七年から十年間にわたって早稲田大学などで学んだ。途中で長男の出産も経験する。「もう無理かなとあきらめかけたが、当時七十四歳だった祖母が『勉強を続けなさい』と背中を押してくれた」。長男は生後三カ月で祖母に預け、法学博士号を取得して帰国したときは五歳になっていた。
朝鮮族の陳さんは韓国語も操り、日中韓の専門家が集まる学術会議やシンポジウムでは自ら通訳も買って出る。「法律の専門知識があって三カ国語を使える人はそんなにいないですから」と笑う。中国ではまだ未整備の部分が残る商法の専門家として活躍し、学内では日本の大学との提携交渉などにも携わる。
李小嬋(りしょうぜん)さん(63)は八三年に早稲田大学に留学する前、福建省のアモイ大学で台湾研究をしていた。「生活は保障されていたが、自由な国で可能性に挑戦してみたかった」という熱意で研究職を捨てた。
卒業後に日本企業に就職。九六年に独立してアパレル会社を設立した。中国でも自社工場をつくり、洋服のデザインから生産、日本への輸出を一括して行う。現在、会社経営の一線からは退き、作家として、日本語と中国語で小説やエッセーなどを出版。三重県桑名市に住む李さんは「日本は私のジャパンドリームをかなえてくれた」と決断が間違っていなかったことを実感している。
留学経験者の裾野が広がる一方、この時期の日中関係は揺れた。まず、八九年の天安門事件が友好ムードを吹き飛ばした。執拗(しつよう)に歴史問題を持ち出した九八年の江沢民(こうたくみん)国家主席の訪日、〇一年の小泉純一郎首相の靖国神社参拝。国のトップの言動で、関係は一層冷え込んだ。
上海テレビの「中日之橋」にも「なぜ日本語放送をやっているのか」と批判が寄せられ、放送時間を一時的に三十分から十五分に短縮されたこともある。
日本人にとって中国との心理的な距離が広がり、中国人には日本が「旧敵国」として意識に上り続ける。日中関係は悪化と小康状態の間で揺れ続けた。
(上海支局・浅井正智、中国総局・中沢穣)