沖縄の戦争悲劇の中でも、「戦争マラリア」による悲劇は、これまであまり知られていなかったかもしれません。
マラリアは熱帯から亜熱帯に分布する原虫感染症で、宮古島や八重山諸島などを含む先島諸島には戦前から存在していました。沖縄戦が始まると、日本軍の命令でマラリアにかかる恐れの大きい地域に強制疎開させられた住民の間で犠牲者が急増し、戦争マラリアと呼ばれました。
それは人口約4万人の島に本土から3万の兵が来たので、当然著しく食料が不足しました。多大な犠牲者が生じた理由は、飢餓状態とマラリア感染の「複合的要因」によるものと指摘されています。
東京新聞が、3回の連載で取り上げました。
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<「餓死」の島 戦争マラリアの悲劇>(上)飢えと病の地獄があった
東京新聞 2018年8月5日
「宮古ブルー」と呼ばれる透き通る青い海とサンゴ礁に囲まれた沖縄県・宮古島は今、建設バブルの真っただ中にある。沖縄本島から南西に約二百九十キロ。宮古、伊良部、下地など六つの島からなる宮古島市は、さいたま市とほぼ同じ面積(約二百平方キロ)に約五万五千人が暮らす。あちこちで高級リゾートホテルやアパートの建設が進み、人手不足のため島外からも建設作業員が集まる。
宮古島と伊良部島とを海上でつなぐ全長三・五キロの伊良部大橋は三年前に開通し、絶景スポットとして人気を集める。大型クルーズ船の就航数は急増し、伊良部島に隣接する下地島(しもじしま)空港は来春、国際空港化される。二〇一五年度に約五十万人だった観光客数は本年度百万人を突破する勢いだ。
島中央部では、陸上自衛隊宮古島駐屯地(仮称)の隊舎などの工事も始まり、近い将来、警備部隊やミサイル部隊などが配備される。「島では軍隊と『カジノ』がやってくるとささやかれています」。駐屯地前で毎朝、抗議活動をしている上里清美さん(62)が皮肉交じりに語る。
急速に変貌する宮古島では、沖縄戦の記憶が風化しつつある。戦時中、そこには三万の日本兵がいた。旧平良(ひらら)市などで構成した「宮古市町村会」が戦後五十年の一九九五年に発刊した『太平洋戦争における宮古島戦没者名簿』には、この島で戦没した約二千人の軍人・軍属の名前が都道府県別に記されている。その大半は、東京や神奈川、愛知など島外出身者だ。
沖縄本島のような地上戦がなかったにもかかわらず、島で一体、何が起きていたのか。島内の歌碑に、七十三年前の光景が刻まれていた。
「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸(むくろ)焼きし宮古(しま)よ八月は地獄」 (編集委員・吉原康和)
◆孤立、食料も薬も絶たれ
宮古島の中央に位置する野原岳(標高一一〇メートル)には、海上自衛隊の宮古島分屯基地があり、南西空域を監視している。戦時中、ここには陸軍第二十八師団が司令部を構えていた。<補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸(むくろ)焼きし宮古(しま)よ八月は地獄>。島の悲劇が刻まれた歌碑は野原岳の麓にある。
この短歌は一九八一年、朝日新聞に投稿され、高い評価を得た。作者は四四年秋から一年半、衛生兵として島に駐留した高沢義人さん(故人)だ。復員後、教員や千葉県松戸市議を務める傍ら、島での経験を詠み、歌集を出版。込められた反戦の思いに心を打たれた、歴史教育者協議会宮古支部の仲宗根将二(まさじ)さん(83)と交流が始まった。
高沢さんは仲宗根さん宛ての手紙に「毎日、飢えながら、栄養失調とマラリアで亡くなった兵士を荼毘(だび)に付していました」と当時の惨状を記し、「兵隊は現地で悪いことをしていたので、私はもう宮古島へは行けません」と伝えた。
「悪いこと」とは、住民の食料を盗み食いしていたことだという。仲宗根さんの説得で、高沢さんが島を訪れたのは終戦翌年に島を離れてから五十二年を経た九八年。歌碑は二〇〇五年に仲宗根さんら島の有志が建立した。
サンゴ礁が隆起してできた小さな島に四三年秋から日本兵約三万人が駐留し、海軍と陸軍の飛行場が三つ建設された。島は軍人と住民の雑居状態だった。
島で新聞を発行していた瀬名波栄さんが出版した「先島群島作戦(宮古編)」では、戦病死した日本兵は二千五百六十九人とされ、九割はマラリアと栄養失調が原因としている。
沖縄戦が本格化した四五年四月以降に限っても、島で戦病死して靖国神社に合祀(ごうし)された軍人・軍属は九百人以上で、空襲や艦砲射撃などによる戦死者の三倍にのぼることが本紙の調査で判明している。
戦病死者が多かった理由を、島の医師、伊志嶺亮さん(85)は「疎開者を除き人口約四万人の島に三万の兵が来たのだから、食料不足が一番大きい。死因は飢餓とマラリア感染による複合的要因だ」と指摘する。
終戦直後に弟をマラリアで亡くした元沖縄県畜産会事務局長の久貝(くがい)徳三さん(84)は「自宅近くの陸軍病院前で、焼却場に運ばれる兵隊の遺体を毎日のように見た。兵隊たちが話す『マラリア』という言葉をよく耳にした」と語った。
仲宗根さんは歌碑を前に、当時軍が置かれた絶望的な状況を指摘した。
「制海権と制空権を米軍に奪われ、内地からの輸送は途絶えた。武器弾薬はおろか、食料も医薬品も届かない。マラリアに侵されても、医薬品がないから、百二十人の軍医を擁しても、なすすべもなかった」 (編集委員・吉原康和)
<戦争マラリア>
マラリアは熱帯から亜熱帯に分布する原虫感染症で、宮古島や八重山諸島などを含む先島諸島には戦前から存在した。沖縄戦が始まると、日本軍の命令でマラリアにかかる恐れの大きい地域に強制疎開させられた住民の間で犠牲者が急増し、戦争マラリアと呼ばれた
<「餓死」の島 戦争マラリアの悲劇>(中)消えた集落 補償もなく
東京新聞 2018年8月6日
「戦争は終わったのに、毎日のようにマラリアで死んでいった…」
一九四三年秋、沖縄県・宮古島に海軍飛行場(現宮古空港)を建設するため、北へ約二・五キロ離れた袖山集落に強制移住させられた元小学校校長の久貝(くがい)義雄さん(87)は、マラリアまん延の恐ろしさを淡々と語った。「葬式の連続。ここにいたら命が助からないと、四十戸余りあった集落の人たちは次々と逃げ出し、最後まで残ったのは私と兄だけでした」
地元の宮古タイムス紙は四六年十一月に、袖山集落の惨状を伝えている。総戸数四十一戸、住民三百六十人のうち、マラリアに罹患(りかん)したのは三十九戸、三百五十人(97%)で、死亡者三十八人、夫婦死亡七組、一家全滅一戸(五人)…。
久貝さんもマラリアに感染した。終戦で少年兵部隊「鉄血勤皇隊」を除隊となり、自宅に戻って間もない四五年十一月ごろ、突然ガタガタという震えに襲われた。高熱を発し、意識がもうろうとして約一カ月、生死をさまよった。
「耳元でかすかな声がし、はっと気づいた時に、枕元で母が泣いていました。私が治った後、その母も交代するように発病して一週間後に死に、父親も後を追うように死んだ」
袖山には井戸水も畑もなかった。住民は毎日、デコボコの山道を約二キロ下った隣の集落に水くみに行き、沖縄製糖工場の土地を借りてイモや粟(あわ)などを栽培して生活していた。
久貝さんは、マラリア大流行の要因を「水をくむのも、畑仕事をするのもマラリアの巣窟の湿地帯だった。そこで、住民が蚊にさされて猛烈な勢いでマラリアが広まったのではないか」と推測する。
久貝さん兄弟がこの地を去り、袖山集落は廃村となった。袖山と同じように、海軍飛行場建設に伴って立ち退きを迫られた住民の強制移住先だった七原、富名腰(ふなこし)、腰原(こしばる)の三地区には、二〇一〇、一一年に公民館が建設された。各地の旧軍飛行場建設で立ち退きを迫られた地権者に対する戦後処理の一環だが、廃村となった旧袖山集落の人々の声は届かないままだ。
また、同じマラリアで死亡しても、軍人・軍属の遺族には国から遺族年金などが支給されていることを知る島民は少ない。
海軍飛行場建設で運命が暗転、厳しい戦後を生き抜いた久貝さんが言う。「好んで住み慣れた集落から出て行ったわけではない。マラリアの危険と隣り合わせの湿地帯での生活に追いやられ、軍人と同じようにマラリアで死亡しても、われわれには何の補償もない。今にして思えば、不公平だという気持ちでいっぱいです」 (編集委員・吉原康和)