東京新聞のシリーズ<天皇と憲法>の4回目です。
本項では、「戦争放棄」をすれば天皇制を存続できると考えた当時の幣原首相が、占領軍最高司令官マッカーサーにそれを提案したことが述べられています。その提案はマッカーサーを仰天させましたが、結果として幣原が意図したとおりになりました。
「象徴天皇制」は発足の時点から「平和憲法」と表裏一体のものだったのでした。
ただ、いわゆる国体の維持のために想到したものであったため、幣原は国内には一切を秘匿し、閣議にも、また当時松本烝治国務大臣が仕切っていた「憲法問題調査委員会」にも提言しませんでした。その結果、公文書には一切記述がなく、逆に、幣原提案とは異なる「松本憲法改正案」を首相として承認するという矛盾に陥りました。
そうしたことを取り上げて「幣原発案説」を強く否定する意見があります。米国による「平和憲法押しつけ論」にとって都合が悪いからというのは論外ですが、旧憲法下の1946年当時、幣原が「国体に触れることだから、仮にもこんなことを口にすることは出来なかった」と、後日述べた事情にあったことは十分に理解できるところです。
幣原が「戦争放棄」を提案したことは下記等のことから明らかです。
・マッカーサー自身がそれを認める書簡を1951年米上院軍事外交合同委員会に出している(側近だったホイットニー准将の回顧録にもその時の状況が記述されている)
・幣原自身が、1951年出版の「外交五十年」の中で記述している
・幣原の元側近議員・平野三郎が同内容を幣原から逝去の直前に聞き取った「平野文書」が国立公文書館に残されている
・岸内閣時代の憲法調査会の公聴会で、元中部日本新聞政治部長 小山武夫が幣原から直接オフレコで同内容を聞いたと述べた(音声テープが残っている)。
・同調査会からの問わ合わせに対して、マッカーサーは幣原が提案したものだと書簡で答えている。
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天皇と憲法(4)平和への祈りは続く
東京新聞 2019年5月2日
「平成」は戦争のない、平和な時代として歴史に刻印された。天皇は常に平和を祈る存在でもあった点は大事だ。憲法はむろん平和主義を最重視する。
「国民に寄り添い、憲法にのっとり、日本国民統合の象徴としての責務を果たします」
五月一日。天皇陛下が即位後に述べたお言葉だ。上皇さまも一九八九年の即位で「憲法を守る」と語り、お言葉の中には「平和」の文字が三回あった。
憲法の中核である平和主義と天皇制は結びついていないか。新憲法制定の過程で、天皇制の維持と戦争放棄の規定が同時に構想されたとみられるからである。
◆戦争放棄は日本側から
その手掛かりが、昭和天皇の公式記録である「昭和天皇実録」にある。四六年一月二十五日の項に次のように記されている。
<午後三時二十五分、表拝謁ノ間において内閣総理大臣幣原喜重郎に謁を賜(たま)い、奏上を受けられる。幣原は、昨日連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと会見し、天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき懇談を行った>
戦争放棄案を首相の幣原側から持ち掛けたとする説に絡む一節だ。その前日、一月二十四日に幣原がマッカーサーと会ったのは明白である。懇談内容は幣原が亡くなる直前に秘書官だった元岐阜県知事平野三郎に語った。「平野文書」はこう記す。
<風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった>
<天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた>
そして幣原はマッカーサーと語り合った。戦争放棄をすれば、天皇制を存続できる-。それが幣原の計算だった。
◆念頭から離れない遺族
<第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。(中略)賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった>
「マッカーサー回想記」にも同じ場面の記述が見える。
<私は腰が抜けるほどおどろいた。(中略)この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった>
昭和天皇に幣原が内奏したのは、その翌日である。また五六年につくられた憲法調査会会長の高柳賢三がマッカーサーに書簡を出したが、同じ趣旨の返信があった。他にも幣原の友人に語ったメモが存在する。
どれも内容が同一方向を指し、事実関係に矛盾がない。「昭和天皇実録」も含めて…。戦争責任を問われかねない昭和天皇。そして天皇制の維持のため、日本は平和主義の路線をとった-。そんな幣原の筋書きが見えるようである。
日本国憲法は連合国軍総司令部(GHQ)に押し付けられたという「押し付け憲法論」がある。確かにGHQの影響下で新憲法が制定されたことは事実だ。だが、新憲法の最大の要である九条案を日本側から提案したとなると様相はがらりと変わる。
憲法一条と九条のつながりは重みがある。連合国側から天皇が戦争責任を追及されれば、天皇制の維持も危うかったからである。幣原提案説を上皇さまが聞かされていたかは不明である。
だが、戦争経験者や遺族の存在は、おのずと天皇が慰霊の旅をし、祈る存在とし、さらには多くの国民の平和希求の思いと重なった。実際、上皇さまが平和を強く希求したのは事実だ。例えば九四年の誕生日のお言葉。
<戦争による多くの犠牲者とその遺族のことは少しも念頭を離れることなく、今後ともその人々のことを思いつつ、平和を願い続けていくつもりです>
昨年十二月の誕生日にも。
<平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています>
戦争を繰り返した明治憲法下で、天皇は陸海軍を統率する大元帥の地位にあった。戦争と天皇とは無縁でなかった。そのことを考えれば、「平和の天皇」でいられた感慨は、ひとしおであったろう。喜びであった。記者会見でも述べられた。
◆戦争の記憶を伝える
<先の大戦で多くの人命が失われ、戦後の平和と繁栄が(中略)国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にも正しく伝えていくことが大切である>
戦争の記憶を正しく伝える-。次世代への貴重なメッセージと受け止める。天皇陛下は「上皇陛下の象徴としてのお姿に心から敬意を申し上げる」と述べた。平和に対する気持ちも、もちろん引き継がれるであろう。