2018年10月22日月曜日

明治150年 来た道をたどらぬよう(東京新聞)

 安倍首相は15年8月に地元・山口で開かれた会合のあいさつで、
「明治維新から50年後が寺内正毅首相、100年後が佐藤栄作首相で、いずれも山口(長州)出身」だとし、自分も「頑張って18年までいけば、明治150年も山口県出身の安倍晋三首相となる」と述べています。内輪の会の気楽さで自分の本心を語りました。
 
 たまたま50年毎にそうだったからと言って、それがどうしたというのだという話なのですが、多分、明治維新から節目節目で長州出身の首相が現れ、自分もその一人になるのだと、日本をトータルで旧長州藩が支配しているという恍惚感に浸りたいのでしょう。あまりにも子供じみていて二の句が継げません。
 戦前回帰を目指している安倍首相にとって、1945年の日本の敗戦でいわば大本の価値観がコペルニクス的転回を遂げたことを、どうしても受け入れられないようです。
 
 東京新聞が「明治150年に考える 来た道をたどらぬよう」という社説を掲げました。
 そこでは、明治150年を「歴史の美化を離れて考えます」と書き出して、太平洋戦争では民間人を含め、日本人だけでも約三百十万人の死者-。血みどろの歴史を繰り返さない、それが近代を歩んだ日本の教訓に違いありませ」と結んでいます
 
 東京新聞が意識したかどうかは分かりませんが、安倍首相にこそ熟読し理解して欲しいものです。しかしそうした真っ当な理屈をどんなに説いても、どうしても理解することが出来ないようです。
 驚くべき頑迷さというよりも驚くべき愚かさというべきでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【社説】明治150年に考える 来た道をたどらぬよう
東京新聞 2018年10月21日
 明治元(一八六八)年から数えて今年は百五十年。政府はさまざまな行事で祝います。明治とはどんな時代だったか。歴史の美化を離れて考えます
 汽車や西洋風の赤れんが建物…。上流階級が舞踏会を楽しんだ鹿鳴館もありました。明治には目をみはる変化がありました。
 西洋の思想や文学、科学も入ってきます。それを理解するために和製漢語が生まれました。
 「交響曲」「空想」「詩情」などは森鴎外が。「不可能」「経済」「価値」「無意識」などは夏目漱石が造語したそうです。「芸術」「科学」「知識」などは哲学者の西周(あまね)が考案したとも…(作家・半藤一利氏の著作による)。
 
◆松陰の帝国主義とは
 何とも「文明開化」の明るい雰囲気が感じられませんか?
 別の一面もあります。「富国強兵」のスローガンに駆り立てられ、国内外に無数の犠牲者を生んだ時代です。日本史で「近代」とは、明治維新から一九四五年、太平洋戦争の敗戦までとされます。血みどろの時代でした。
 <急いで軍備をなし、隙に乗じてカムチャツカ半島やオホーツクの島々を奪い、琉球にも幕府に参勤させるべきである。朝鮮を攻めて、北は満州の地を割き、南は台湾やフィリピン諸島を手に入れよう。進取の勢いを示すべし>
 幕末にこんな趣旨の文章を残した人がいます。長州(山口)の思想家・吉田松陰です。「幽囚録」(講談社学術文庫)に書かれています。
 軍事力で他国の領土や資源を奪う帝国主義の思想そのものです。実際に朝鮮や台湾は、日本の植民地になりました。中国東北部の満州には日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」をつくっています。
 まるで松陰が描いた“戦略図”は、近代日本の戦争の歴史そのものではありませんか。
 
◆統帥権で軍が暴走した
 カムチャツカ半島はなくとも、樺太の南半分は手に入れ、フィリピンも太平洋戦争のときは日本軍が占領していました。
 確かに江戸末期はアジア諸国が西欧列強に蚕食され、植民地になった時代です。その中で松陰は共存共栄の道ではなく、アジア争奪戦に加わらないと日本が滅んでしまうと考えていたのです。
 ひょっとして長州の志士たちに「幽囚録」の一節も埋め込まれていたのでしょうか。あくまで仮説ですが、松陰の帝国主義的な思想が彼らに受け継がれていたとすれば、対外戦争の歴史を説明することにはなります。
 
 例えば明治政府の軍を握っていたのは長州閥の山県有朋です。「松陰の最後の門下生」と自ら語りました。徴兵制をつくったのも山県、参謀本部の設置や軍人勅諭の制定も山県です。「日本軍閥の祖」と呼ばれ、枢密院議長を三回、首相を二回歴任しました。軍備拡張を推し進めました。
 同じ長州閥の伊藤博文がつくった明治憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との条文がありました。統帥権の独立は、軍への政治の介入を防ぎました。昭和になって軍の暴走を招いた原因とされます。
 
 明治維新から七十七年間は「戦争の時代」でしょう。統帥権の規定で、政治によるコントロールが利かない軍隊になっていたのではないでしょうか。
 終戦からの今日までの七十三年間は、まさに「平和の時代」です。それを守ってきたのは日本国憲法です。それぞれの憲法の仕組みが、戦争の時代と平和の時代とを明確に切り分けたと考えます。
 
 戦争へ進んだ要因は他にも多々あるでしょう。興味深いエピソードがあります。作家の保阪正康さんは昔、日米開戦時の首相・東条英機らが「なぜ戦争をしたのか」と疑問を抱き、昭和天皇の側近・木戸幸一に書面で質問しました。
 「(彼らは)華族になりたかった」と答えの中にあったそうです。内大臣だった木戸の想像ですが、軍功があれば爵位がもらえたのは事実です。公爵や伯爵など明治につくられた特権階級です。満州事変時の関東軍司令官も男爵になっています。爵位さえ戦争の一つの装置だったかもしれません。
 
◆国民も勝利に熱狂した
 むろん国民も戦争に無縁ではありません。日清・日露の勝利、日中戦争での南京陥落、真珠湾攻撃に万歳を叫び、提灯(ちょうちん)行列です。勝利の報に熱狂したのは国民でもあるのです。
 でも、戦争は残忍です。日露戦争では日本兵だけで約十二万人が死にました。歌人の与謝野晶子は「君死に給(たま)ふこと勿(なか)れ」と反戦詩を発表しています。太平洋戦争では民間人を含め、日本人だけでも約三百十万人の死者-。血みどろの歴史を繰り返さない、それが近代を歩んだ日本の教訓に違いありません