モリカケ問題ですっかり有名になった言葉に「李下に冠を正さず」がありました。「君子行」の一節である「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」が由来で、「他人から怪しまれることをしてはいけない」という警句ですが、怪しさが満載のモリカケ問題で、安倍首相自身がこの警句を用いていたのには強烈な違和感がありました。
それは自身がウミの塊りなのに「財務省にウミを出し切らせる」と公言した鉄面皮ぶりと双璧をなすものでした。
美智子皇后の誕生日(20日)に発表された恒例の文書は、「皇后」として最後となる誕生日のコメントでした。そこには主に皇太子妃、皇后として明仁天皇とともにした道のりの回想が述べられていましたが、そのなかに、安倍首相への“メッセージ”とも解釈できる部分が隠されていました。
それは末尾にでてくる、ご自分が体験されたことについて「大変な瓜田に踏み入るところでした」と述懐されているところで、LITERAは、「李下に冠を正さず」の対句をここに用いられたのは偶然ではないと述べています。
官邸は今回も、拉致問題に触れられたところなどに宮内庁を通じてクレームを出したようですが、美智子皇后はそれには応じられなかったということです。
誕生日のコメントはこうした多くの制約の中で著わされた文章なので、その真意を真剣に受け止める努力が要求されます。
LITERAの秀逸な論文を紹介します。
追記)宮内庁から発表された20日付の「皇后陛下お誕生日に際し(平成30年) 宮内記者会の質問に対する文書ご回答」を別掲します。
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美智子皇后の誕生日談話「マクワウリ」に隠された意図が?
天皇夫妻が発信し続けた護憲・平和への思い、安倍改憲への危機感
LITERA 2018年10月21日
昨日20日、美智子皇后の誕生日に際した恒例の文書コメントが発表された。来年4月をもって今上天皇が退位することで、「皇后」として最後の誕生日コメントということもあり、皇太子妃、皇后として明仁天皇とともにした道のりの回想が主だったが、そのなかに、美智子皇后から安倍首相への“メッセージ”とも解釈できる部分が隠されていたのをご存知だろうか。
ほとんどの人は気がついていないと思うが、それは文章の終盤、今後皇后の公務から離れたら何をしたいかについて語っている箇所にある。美智子皇后は、これまで手をつけられなかった小説などをじっくり読みたいと記してから、唐突に、こう筆を進めている。
〈また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。〉
一見、自らの“引退後”のささやかな夢を思い出深く語っているようだが、ここに、さりげなく意味深長な語句が挿入されている。「大変な瓜田に踏み入るところでした」という部分だ。実は、誕生日コメントが掲載されている宮内庁のホームページには、今回の文書の終わりにわざわざ「(参考)」として、こんな解説文が添えられていた。
〈「大変な瓜田に踏み入るところでした」
広く知られている言い習わしに「瓜田に履を納れず」(瓜畑で靴を履き直すと瓜を盗むのかと疑われるのですべきではないとの意から、疑念を招くような行為は避けるようにとの戒め)がある。〉
「瓜田に履を納れず」は「李下に冠を正さず」の対句としてしばしば使われる中国由来のことわざである。「李下に冠を正さず」のほうは聞き馴染みのある人も多いはずだ。
そう、このフレーズは、昨年からの森友学園、加計学園をめぐる一連の疑惑で、しばしば登場した言葉なのである。
「自分には関係がない」といいはる安倍首相に対して、野党やメディアが、「政治家、ましてや総理大臣には『李下に冠を正さず』という姿勢が必要だ」などと追及。安倍首相自身も国会で「(加計孝太郎理事長は)長年の友人でもあり、そうした疑いを持たれるということももっともなことだ、こう思いますから、李下に冠を正さずという気持ちで注意を払わなければいけなかった」などと繰り返す事態に追い込まれた。
こうした安倍首相を諌めるために使われた慣用句の対句となる言葉を今回、美智子皇后が発した。これは単なる偶然なのだろうか。
実際、皇后の誕生日文書をよく読むと、そこに強い意図があることは明白だ。語られているエピソード自体は、皇后がそうとは知らずに神聖な瓜田のマクワウリを取りたいと言ったところ、天皇から止められたというもの。ところが、そこにいきなり前述した「大変な瓜田に踏み入るところでした」という強い表現が加えられ、わざわざ「瓜田に履を納れず」の“注釈”がつけられる。つまり、マクワウリをめぐる夫妻の思い出話が、「地位のある者は疑われるような行為をしてはならない」というメッセージに発展しているのだ。
護憲、戦争責任、反核、反ヘイト…美智子皇后が発し続けた安倍政権へのカウンター
もとより、皇后は詩を愛し文学を研究するなど、深い教養をもつ人だ。例年、誕生日に際した文書コメントは、皇后自らが推敲を重ねてつくっていると言われる。今回の宮内庁による“注釈”も当然、皇后の指示によるものだと考えるべきだろう。
そうした点を考えても、皇后は、マクワウリのエピソードを安倍首相に警句を発するために、あえて持ち出したのではないか、そう思えてならないのである。
無論、こうした解釈が成り立つのも、美智子皇后がここ数年、婉曲的にではあるが、安倍政権の改憲や政策に警鐘を鳴らしてきたからに他ならない。
たとえば、2013年の誕生日文書コメントでは〈今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます〉としたうえで、基本的人権の尊重や法の下の平等、言論の自由などを定めた五日市憲法草案など、民間の憲法草案に触れて〈深い感銘を覚えた〉と回顧した。美智子皇后は〈市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います〉と最大級に評価し、日本国憲法と同様の理念をもった憲法観が日本の〈市井の人々〉によってもつくられていたことを強調したのだが、これは、安倍首相ら右派の言う「現行憲法はGHQの押しつけだから改憲せねばならない」なる主張へのカウンターとしか思えないものだった。
翌2014年には、自らA級戦犯の問題に踏み込み、その責任の大きさについて言及した。皇后は「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません」として「その時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います」と記したのだが、実は、この皇后発言の2か月前には、安倍首相がA級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に、自民党総裁名で哀悼メッセージを送っていたことが報じられていた。連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、安倍首相は戦犯たちを「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と賞賛したという。そうしたタイミングで皇后は、宮内記者会からの質問にはなかったA級戦犯の話題を自ら持ち出す、異例のコメントを発したのだ。
そして昨年の誕生日文書では、ノーベル平和賞に「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」が選ばれたことを取り上げた。ICANは昨年7月の国連核兵器禁止条約の採択に貢献したことなどが評価されてノーベル平和賞を受賞したのだが、日本政府は条約批准を拒否、安倍首相は受賞に一言もコメントを出さないという時期に、美智子皇后はICANについて掘り下げて〈ようやく世界の目が向けられたことには大きな意義があった〉と大きく評価したのである。また、自身のエピソードを交えて軍縮の意義を強調し、〈奨学金制度の将来、日本で育つ海外からの移住者の子どもたちのため必要とされる配慮〉に言及するなど、安倍政権下での軍事増強やはびこる排外主義、ヘイトスピーチ、相次ぐ朝鮮学校の補助金停止問題を憂慮すると受け止められる文言も盛り込まれた。
天皇は平成最後の誕生日に何を語るのか? メディアはその真意に迫れるか
慎重に言葉を選びながらも、安倍政権とは対照的な姿勢を表現してきた美智子皇后。こうして振り返ってみても、やはり今年、「マクワウリ」の思い出話にあえて「瓜田に履を納れず」を織り込んだのは、森友・加計学園問題に代表される安倍首相の政治姿勢への“警句”の意味が込められている可能性は決して低くない。
いや、森友・加計問題だけではなく、何重もの意味が含まれている可能性もある。たとえば、美智子皇后はこのマクワウリが「6月の大祓の日に用いられる」ことを天皇から教えられたとも語っているが、大祓の儀というのは、天皇がツミやケガレを祓い清める儀式。以前は成年男性の「親王」に限っていたのを、2014年から女性皇族も参列できるよう改められたもの。この「大祓」にふれたのはなぜか。
また、「大変な瓜田に踏み入るところでした」という言葉も、もしかしたら、いま、日本が踏み込もうとしている改憲への動きを戒める意味もあるのではないか。そんな推察まで頭をもたげてくるのだ。
いずれにしても、美智子皇后のこれまでの姿勢と、深い教養を考えると、そのメッセージに、表向きの言葉以外の真意や隠された意図があることは明らかだろう。
ただ、残念なのは、こうした解釈や分析が、皇室タブーと政権タブーという二重のタブーに阻まれて、マスコミでは議論の俎上に乗せることすらできなくなっていることだ。
12月には、今上天皇の「平成最後の誕生日談話」が発表される。否応なく注目をせざるを得ないが、メディアには、この“最後のメッセージ”の真意にまできちんと迫る姿勢が求められる。(編集部)