2019年9月14日土曜日

いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(3)(しんぶん赤旗)

 しんぶん赤旗のシリーズ「いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態」の3回目です。
 1~2回目では「韓国併合」に至った経過とその実態を見てきました。今回はその植民地支配に対して、戦後、日本はどういう態度を取ったかが述べられています。それはまさに不誠実を絵に画いたといえるもので、そこでも「韓国蔑視」を露わにした、というしかありません。
 ドイツのポーランド侵攻から80年を迎えた9月1日、シュタインマイヤー独大統領が、ポーランドで行われた式典に臨み、「ドイツの犠牲者となったポーランド国民の前に私は頭を下げ、過去の罪の許しを請う。我々ドイツ人がポーランドに与えた傷は忘れない」 
とポーランド語で謝罪したのとは雲泥の差です。
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いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(3)
戦後、日本政府がとった態度は
 しんぶん赤旗 2019年9月13日
 シリーズ第1回では、野蛮な軍事的強圧によって「韓国併合」にいたった歴史、第2回では民族の誇りも、言葉や名前までも奪い、侵略戦争に強制動員していった歴史をみてきました。こうした植民地支配に、戦後、日本政府はどういう態度をとったのでしょうか。(藤田健)
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戦後の出発点示す2文書
無反省と開き直り綿々と
 「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈(やが)て朝鮮を自由且(かつ)独立のものたらしむるの決意を有す」
 こう宣言したのは、米、英、中華民国の首脳による「カイロ宣言」(1943年)でした。日本が受諾したポツダム宣言(45年)はこのカイロ宣言の「履行」をうたっていたのですから、植民地支配への反省と清算が戦後日本の出発点となるはずでした。
 しかし、戦後の日本政府の態度は、正反対のものでした。
 2015年、韓国の建国大学で講演した日本共産党の志位和夫委員長は、戦後の日本政府の態度を示す二つの文書を示しました。「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」(49年)と「対日平和条約の経済的意義について」(50年)という文書です。いずれもサンフランシスコ講和条約にむけた準備対策として作成された「極秘」文書でした。
 
 二つの文書には、ほぼ同じ表現であからさまな植民地支配美化論が展開されていました。
 「日本のこれら地域(朝鮮、台湾、樺太、満州)に対する施政は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでない…。逆にこれら地域は日本領有となつた当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト(未開発)な地域であつて、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもつぱら日本側の貢献によるものである」「(補助金や資金注入で)日本のこれら地域の統治は『持ち出し』になつていたといえる」(『日本外交文書 サンフランシスコ条約準備対策編』から、カッコ内は編注)
 これが当時の日本政府の認識でした。そこには、土地を奪い、「創氏改名」や日本語教育などの「皇国臣民化政策」で民族の誇りを奪い、徴兵制など侵略戦争への人的動員で命まで奪い、日本軍「慰安婦」の強制という性暴力までふるうなど、まさに朝鮮人民を「奴隷状態」においたことへの反省は皆無でした。
 それどころか、植民地支配にはあたらないと開き直り、「これら地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され」(「陳述」)たなどと朝鮮支配は合法だったと強弁しています。
 
日韓交渉
妄言連発し異例の長期化
 こうした認識は、今日なお日本政府が持ち出す日韓基本条約と請求権協定(1965年)の交渉にも引き継がれました。この交渉は、14年もの異例の長期間にわたりましたが、その要因の一つが日本政府代表団による「妄言」でした。
 1953年には、交渉の日本側代表だった久保田貫一郎が「朝鮮36年間の統治は、いい部面もあった」「はげ山が緑の山に変わった。鉄道が敷かれた。港が築かれた。米田が非常にふえた」「カイロ宣言は、戦争中の興奮状態において連合国が書いたもの」などと妄言を連発。交渉は長期にわたって中断しました。
 65年1月には、首席代表・高杉晋一が就任当日、「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ」「敗戦でダメになったが、もう20年朝鮮をもっていたら、こんなこと(はげ山)にはならなかった」「創氏改名もよかった」などと発言。「久保田発言」に匹敵する妄言でした。
 
 このときは、交渉への影響を恐れた外務省がオフレコ扱いを要請。「アカハタ」(現「しんぶん赤旗」)と韓国の東亜日報が暴露したものの、一般紙は沈黙し、その後政府が「事実無根」と否定したことのみを報じたのでした。当時の新聞は、暴言を吐く日本政府を批判するどころか、韓国に対して「弱腰」だと非難さえしていたのです。
 
併合条約「もはや無効」
ごまかし解釈今日に続く
 結局、日韓基本条約の交渉では、日本側は植民地支配だったとは認めず、「韓国併合」条約も締結当時は合法有効だったとの立場でした。
 日韓基本条約も、植民地支配について一切言及していません。第2条で「韓国併合」条約は「もはや無効であることが確認される」と規定されましたが、日韓両国で解釈が分かれました。日本政府は、締結当初は有効・合法だったが、1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈。韓国政府は、当初から無効であると解釈しました。
 しかし、条約締結当時の国際法でも国家代表者を脅迫しての条約は無効でした。そのうえ、日本はその直前の第2次日韓協約(1905年)で韓国から外交権を奪っておきながら、併合条約を押し付けたのですから、二重に「不法・不当」でした。それを日本政府は認めなかったのです。
 請求権協定では、日本が3億ドルの無償供与と2億ドルの貸し付けを行うことで合意し、請求権問題は「完全かつ最終的に解決されたこととなる」(第2条)と明記されました。しかし、両国間の賠償問題が解決しても個人の請求権は消滅しないことは日韓の政府も最高裁も認めています。また、請求権協定当時、日本は植民地支配の不当性をいっさい認めておらず、経済協力に賠償の性格がないことは明白でした。徴用工問題では、まさにこの点が問題となっています。
 
安倍政権が逆流持ち込み
反省土台にしてこそ解決
 90年代に入り、元「慰安婦」が証言し、謝罪と賠償を求めるなど、日本国内外の世論と運動が盛り上がる中で、日本政府も前向きの変化をみせるようになります。
 93年には河野洋平官房長官が「慰安婦」問題に関する談話を発表し、日本軍の関与と強制性を認め、「心からのお詫(わ)びと反省」を表明しました。95年には、村山富市首相が戦後50年談話で、日本が「国策を誤り」「植民地支配と侵略」によって多大な損害と苦痛を与えたことを認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明しました。
 日韓両国間でも、98年に金(キム)大中韓(デ ジュン)国大統領と小渕恵三首相の間で「日韓パートナーシップ宣言」に署名。「日本の韓国に対する植民地支配への反省」という表現が初めて盛り込まれました。
 
 こうした前向きの流れを逆転させたのが、歴史を逆流させる勢力の中心で政治家としての歩みをすすめてきた安倍晋三首相だったのです。「村山談話」の核心である「植民地支配と侵略」には言及せず、「慰安婦」問題の強制性を否定する閣議決定を行い、戦後70年談話(2015年)で朝鮮植民地化をすすめた日露戦争を賛美したのでした。
 日本共産党の志位和夫委員長は8月26日の記者会見で、日韓関係悪化の根本要因として、安倍首相が「植民地支配への反省」の立場を投げ捨てる態度をとり続けていることがあると指摘。そのうえで次のようにのべました。
 「日本軍『慰安婦』問題にせよ、『徴用工』問題にせよ、過去の植民地支配への真摯(しんし)な反省の立場を土台にしてこそ解決の道が開かれる」