2019年9月12日木曜日

いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(1)(2)

 しんぶん赤旗が「いま振りかえる植民地支配 歴史と実態」のシリーズを始めました。
 
 1910年~1945年の36年間の「韓国併合」という名の植民地支配が、如何に血塗られた残虐なものであったのかを改めて知ることが出来ます。
 日本国内では、植民地支配の過程で朝鮮に義務教育制度を作ったり、鉄道や道路などを整備したというプラス面を強調する向きがありますが、仮に統治の都合でそうしたプラス面も行ったとしても、それが無数の朝鮮人民を殺害し、独立運動や民主化運動を弾圧し関係者を逮捕投獄するなどの残虐行為、弾圧を免罪することになど到底なり得ません。
 
 シリーズは全4回です。その(1)と(2)を紹介します。
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いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(1)
脅迫と強圧で実現した「韓国併合」
 しんぶん赤旗 2019年9月8日
 「清日戦争、露日戦争、満州事変と中日戦争、太平洋戦争にいたるまで、60年以上にわたる長い戦争が終わった日」。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、日本の植民地支配から解放されたことを記念する光復節(8月15日)の演説でこう述べました。戦前の日本帝国主義による侵略と36年間の植民地支配は、韓国の人々から国を奪い、人間の尊厳を奪い、言葉や名前すら奪いました。韓国国民の中にその傷痕と怒りは今も消えていません。日韓関係を改善するうえで、加害者である日本が過去の植民地支配にどう向き合うかは決定的です。日本の植民地支配はどのように進められたのか、改めて考えます。(若林明)
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日清戦争と日露戦争
朝鮮支配めぐる侵略戦争
 明治維新から10年もたたない1875年、日本は江華島事件を起こしました。軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(94年)でした。
 当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。運動は朝鮮半島の南西部の中心都市・全州を実質的に統治するほど力を持ちました。
 そのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。
 
 日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返還せざるを得ませんでした。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閔妃=ミンピ=)を殺害し、遺体を井戸に投げ込むという暴挙を行いました。こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。
 
 日露戦争(1904年)は、韓国(1897年に大韓帝国に改称)と中国東北部をめぐる日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。
 日本は開戦と同時にソウルを軍事占領した上、韓国に「日韓議定書」を強要し、日露戦争への協力を約束させました。さらに、「第1次日韓協約」で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押し付け、財政と外交の事実上の実権を握りました
 
不法・不当な「併合」条約
どう喝・拉致・監禁下で
 日露戦争後、韓国に対する日本の覇権は無制限になっていきました。韓国の外交権を取り上げた第2次日韓協約(韓国保護条約)は、日本による軍事的強圧のもとで締結されました。
 特派大使の伊藤博文(初代首相、後に韓国統監)は「もし拒否するのであれば、帝国政府はすでに決心している。その結果はどのようなことになるか」(「伊藤特派大使内謁見始末」)と韓国の国王を脅迫。韓国政府の閣議の場に憲兵を連れて乗り込み、協約締結をためらう韓国の大臣を「あまり駄々をこねるようだったらやってしまえ」とどう喝しました。
 さらに、日本の特命全権公使の林権助は回想『わが七十年を語る』で、韓国側の大臣が逃げないように「憲兵か何かを予(あらかじ)め手配しておいて、途中逃げださぬよう監視してもらいたい。勿論(もちろん)名目は護衛という形をとるのです」などと、事実上の拉致・監禁下での交渉であったことを記しています。
 この条約で、日本は韓国に「統監府」をおき、属国化を進め、1910年に「韓国併合条約」を押しつけました
 当時の国際法でも国家の代表者を脅迫しての条約は無効でした。しかも第2次日韓協約で韓国から外交権を奪っておいて、条約を締結させたのですから二重三重に「不法・不当」なものでした。
 
「義兵闘争」「独立運動」
抵抗する民衆 徹底弾圧
 しかし、日本の乱暴な植民地化に朝鮮の民衆は抵抗し、1906~11年には「反日義兵闘争」が韓国全土に広がりました。これに対して、日本軍は村々を焼き払い、義兵を大量に殺害し、日本軍に非協力的な民衆を見せしめに殺傷しました。
 19年3月には、日本の侵略に抵抗を試みた前皇帝・高宗(コジョン)の死をきっかけに、植民地支配からの独立を目指す「三・一独立運動」が起こりました。ソウルで始まった運動は朝鮮全土に拡大。数百万人が参加したと言われています。この運動に対しても日本は徹底的に弾圧を行い、1年間で死者7千人、負傷者4万人、逮捕者は5万人に及びました。
 戦後、日韓請求権協定(65年)の交渉で日本代表は「韓国併合」を不法・不当なものとは一切認めませんでした。それは、軍事的強圧のもとに締結したことを正当化する、国際的にも恥ずべき態度でした。
 
安倍「戦後70年談話」
反省語らず日露戦争美化
 ところが安倍晋三首相は「戦後70年談話」(2015年)で、自らの言葉としては「侵略」「植民地支配」への反省を語らず、朝鮮の植民地化を進めた日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と美化しました。
 日露戦争直後に、ロシアの敗北を帝国主義の抑圧に苦しむ諸民族から歓迎を受けたという事実はありますが、すぐに真実は明らかになります。インドの独立・建国の父の一人、ジャワハルラル・ネールは『父が子に語る世界史』で「その(日露戦争)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった」と指摘しています。
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 このシリーズは今後、植民地支配の実態(第2回)、戦後日本政府の認識(第3回)、植民地主義をめぐる世界の流れ(第4回)を掲載します。
 
 
いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(2)
抑圧36年、日本は朝鮮で何をしたか
 しんぶん赤旗 2019年9月11日
 1910年8月22日、漢城府(現ソウル)に戒厳令が敷かれ軍と警察が巡回する中、日本と大韓帝国(韓国)は「韓国併合に関する条約」(以下、併合条約)に調印しました。以来36年、朝鮮半島は日本の植民地下に置かれます。その時、日本は朝鮮で何をしたのでしょうか。(栗原千鶴)
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総督府設置し専制政治
一片の“権利”も付与せず
 併合条約に調印直後、日本は朝鮮にあった結社を解散させ、政治集会を禁止します。29日に併合条約が公布されると呼称を「韓国」から「朝鮮」に変更。司法・行政・立法の三権を握る「朝鮮総督府」を新設し、初代総督には現職の陸軍大臣だった寺内正毅が就任しました。
 日本は併合条約の前文で、併合は両国の幸福や東洋平和のためだと合理化しました。しかしその約3カ月前には「併合後の韓国に対する施政方針」を閣議決定し、▽朝鮮には当分、憲法を施行せず大権(天皇)により統治する ▽総督は天皇に直属し、朝鮮における一切の政務を統括する権限を有する―としていました。
 当時の大日本帝国憲法は徴兵制など天皇絶対の専制政治を国民に強いるものでしたが、条件を満たした一部の男子には選挙権を与えていました。日本は朝鮮に対し、憲法のこのわずかな「権利」すら与えず、総督が天皇の代理人として民衆を弾圧できる専制政治を実践しました。
 
憲兵警察制度
暴力支配と土地取り上げ
 警察と憲兵が一体となった憲兵警察制度は、朝鮮の人々を苦しめました。全国すみずみに憲兵と巡査を配置し、暴力的な支配を行い、「武断政治」と呼ばれました。
 10年から18年まで行われた土地調査事業は、多くの農民が書類の提出ができず、土地の所有権を失いました。取り上げた土地の大部分は総督府のものとなり、そのほとんどが日本人に安く払い下げられました。農民の80%が小作人になります。中国東北部や日本へ移住し、低賃金労働者となり苦しい生活を強いられた人もいました。
 不満が渦巻く中、19年3月1日に京城(現ソウル)で始まった朝鮮の独立・自主を求めた「三・一独立運動」は、約3カ月にわたり全国に広がりました。総督府は軍隊を動員し無差別に発砲したり、逮捕後も拷問するなどして徹底的に弾圧しました。
 
「文化政治」の名で
「親日派」養成し運動分断
 独立運動によって、日本は武力一辺倒の政策から転換を迫られることになります。
 19年8月、新しい朝鮮総督に海軍大将の斎藤実が就任します。斎藤は「文化政治」の実施を宣言します。一方で憲兵や警官の駐在所の数を3倍に増やすなど、植民地支配体制を強化。治安維持法を朝鮮にも適用し、独立勢力の弾圧を強めていきます。
 また一定の条件を満たす団体は結社や集会が認められ、日本の植民地支配に協力する親日勢力を養成します。文化政治の本質は、「親日派」を利用し、独立運動を分裂させることにありました。
 
皇民化政策
言葉や名前、誇りも奪い
 日本軍は朝鮮半島を足場に「満州事変」(31年)以来の中国侵略をすすめ、「15年戦争」に突入します。戦況が長引くと、日本は38年に国家総動員法を制定。民衆を戦争に駆り出しました
 そのために日本は朝鮮で、朝鮮民族の誇りや文化、伝統を破壊し、天皇のためにすすんで命を捨てる人間をつくりだす「皇国臣民化政策」を進めました。
「皇国臣民ノ誓詞」 
 私共は大日本帝国の臣民であります。私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民になります―。37年に制定された「皇国臣民ノ誓詞」の一部です。朝鮮では学校の朝礼はもちろん、会社、工場などでも毎日、唱和させられました。
神社参拝の強要 
 日本は、朝鮮の全ての村に神社をつくり、参拝を強要しました。神社には天照大神や明治天皇をまつり、天皇崇拝を押し付けます。これにはキリスト教徒の抵抗もあり、神社は戦後すぐ、ほとんどが取り壊されました。
朝鮮語の禁止 
 38年に朝鮮教育令の改定で、朝鮮語の科目が消えます。学校で一切の朝鮮語が禁止され、日本語だけで教育を受けさせました。朝鮮語による新聞や雑誌が発売禁止となり、言論がますます統制されていきます。
創氏改名
 朝鮮の人々は一族の系譜を記した「族譜」を大事にしてきた民族です。40年に日本が実施した創氏改名は、名前を日本式に変えさせようというものでした。拒否する人にはさまざまな圧力が加えられました。
 
工場・戦場へ強制動員
徴兵・徴用工・「慰安婦」…
 30年代後半に入ると日本では成人男性の徴兵により、労働力不足が顕著となりました。日本は国民徴用令を発令。朝鮮の人々も日本の炭鉱や鉄工所、軍需工場などへ、強制的に動員されます。
 「募集に応じ、2年働けば戻って工場長になれるといわれた」「学校の呼びかけに、級長だったので率先して応えた。日本では学校に行けるといわれた」―。募集、官斡旋(あっせん)、徴用と時期によって動員された形態は異なりますが、植民地だった当時、最も弱い立場だった人たちが犠牲になったことは明らかです。
 日本は、戦況が悪化した44年には、朝鮮に徴兵制を適用。23万人が戦場に送りこまれました。
徴用工被害 
 李春植(イ・チュンシク)さん(95)は41~43年、旧日本製鉄の鉄工所で強制労働させられました。危険な仕事に従事させられ、熱い鉄材の上に倒れて3カ月のけがを負います。賃金も支払われませんでした。韓国の最高裁は2018年10月、新日鉄住金(当時)に対し慰謝料の支払いを命じました
「慰安婦」被害
 日本軍は、戦場に「慰安所」をつくり、女性を性奴隷としました。韓国に住む被害者の李玉善(イ・オクソン)さん(93)は、16歳のころ朝鮮半島東南部・蔚山で、日本人と朝鮮人の2人組の男にトラックに押し込められ、中国の慰安所につれていかれました。性奴隷とされ、一日に何人もの軍人を相手にしなければなりませんでした。「あそこは慰安所ではない。死刑場だ」と語ります。
朝鮮人元BC級戦犯 
 日本軍は、連合国側の捕虜を監視させるために朝鮮人を動員しました。李鶴来(イ・ハンネ)さん(94)は17歳の時、人数を割り当てられた村役場のすすめで試験を受けます。実質的な強制徴用でした。泰緬(たいめん)鉄道建設に使役された捕虜の監視にあたります。2カ月の軍事訓練では、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約は知らされませんでした。李さんら朝鮮の捕虜監視員は戦後、国際条約違反で148人がBC級戦犯とされ、そのうち23人が死刑となりました
 被害者らの苦しみは1945年8月15日に解放を迎えたあとも続きました。存命の被害者はほとんどが90歳を超えました。いまも名誉回復、真の謝罪、補償を求めてたたかい続けています