愛知県の大村秀章知事は26日、文化庁が国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」への補助金約7800万円の不交付を決めたことに対し「採択決定が覆る合理的な理由はない。速やかに裁判で争いたい」と法的措置をとる考えを示しました。
知事は一旦は国の第三者機関「国地方係争処理委員会」に審査を申し出る考えを示していましたが、文部科学省を相手取り、補助金の不交付決定の取り消しを求めて裁判で争う方針に切り替えました。
司法が政権の意向を忖度する傾向が強まっている中では多くは期待できませんが、法廷の場で事実関係を確認することは必要だし、何より司法が表現の自由をどう判断するのかを確認することができます。
文化庁は「県は補助金を申請する段階で、展示会の安全で円滑な運営に支障があると認識していたにもかかわらず、必要な事実を申告しなかった」ために不交付にしたとする一方で、「申告すべきものを申告しなかったという理由で補助金の不交付を決定した前例は、今のところ確認できない」と述べており、極めて異例の決定であったことは明らかです。
そもそもこの問題は8月1日の「トリエンナーレ」の開催と同時に松井大阪市長が企画展「表現の不自由展・その後」への反対を表明し、引き続き河村名古屋市長が同調したことを受けて、8月2日に菅官房長官が補助金交付について「事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と会見で明らかにしたことを機に、この異例の展開となりました。
官邸の意向が強く働いたということです。寺脇研・京都造形芸術大客員教授は、「申請の不備を不交付の理由にしたのは、官邸に逆らえない文化庁が苦肉の策で生み出したもの」と述べています。
この文科省―文化庁の決定に対して、
アーティスト集団のChim↑Pomは、〈あり得ない。日本の公共的文化制度が終わります〉と投稿し、
映画評論家の町山智浩氏は〈政府に都合のいい文化事業にしか補助金が出ない。戦争の歴史的展示にも同じことが起こる〉と警鐘を鳴らし、
文筆家の内田樹氏は〈補助金不交付の決定は、文化活動へのすべての補助金は「政権への忠誠度」を基準に採否を決すると文科省が宣言したと僕は解しました〉と述べました。
また映像作家の想田和弘監督は〈日本には表現の自由はいらないと決めたよう〉〈要は政府が気に食わぬ表現を含む催しには金を出さぬどころか、決まっていた補助金も引き上げる。そう宣言したわけ〉〈日本の「公共」は首相の考えにそぐわぬものは許容されぬ場になった。つまり私物化された〉と述べました。
このままでは、安倍政権にとって“無害”か、あるいは積極的に利用したい言論、芸術、だけが補助金を受け、政権に対する異論や不都合な表現は狙い撃ちされることになり、公共から自由な表現活動が消えていきます。
LITERAの記事を紹介します。
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安倍政権の芸術検閲が始まった!「あいちトリエンナーレ」補助金取り消しを町山智浩、内田樹、平野啓一郎、想田和弘らが批判
LITERA 2019.09.27
明らかに安倍政権による“国家検閲”だ。脅迫やテロ予告を含む電凸攻撃を受け、企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた「あいちトリエンナーレ」に対し、文化庁が昨日26日、採択していた約7800万円の補助金を交付しない決定を発表した。
「表現の不自由展・その後」をめぐっては、慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」などの展示に対し、右派からの批判が殺到。河村たかし名古屋市長や松井一郎大阪市長、そして自民党の国会議員らが展示を問題視・攻撃するような発言を繰り返した。さらに、菅義偉官房長官や当時の柴山昌彦文科相も国からの補助金をタテにして牽制していた。
だが、まさか本当に補助金を全額取り消してしまうとは、開いた口が塞がらない。しかも、愛知県が設置した第三者検証委員会(「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」、座長=山梨俊夫・国立国際美術館館長)が中間報告を公表し、「条件が整い次第、すみやかに再開すべきである」と提言したのがつい前日25日のことだ。
この文化庁の“補助金取り消し”に対し、すでにTwitter上では多くの識者や表現者らが懸念や批判の声を上げている。たとえば「表現の不自由展・その後」にも作品を出展したアーティスト集団のChim↑Pomは、補助金不交付の報道に対してこう投稿した。
〈あり得ない。日本の公共的文化制度が終わります。こんな前例ありますか。これがまかり通って良いのでしょうか。リフリーダムや不自由展や知事や津田さんとかあいトリ関係者だけじゃなく、日本のアート関係者一丸となって動かないと、文化庁も助成制度も表現の自由も国際文化競走も「終わり」ませんか。〉
また、映画評論家の町山智浩氏は〈政府に都合のいい文化事業にしか補助金が出ない。今後、戦争の歴史的展示にも同じことが起こるぞ〉と警鐘を鳴らし、小説家の平野啓一郎氏は〈こんな前例を作ってはならない。強く抗議します〉と表明。文筆家の内田樹氏は〈愛知の芸術祭への補助金不交付の決定は、文化活動へのすべての補助金は「政権への忠誠度」を基準に採否を決すると文科省が宣言したと僕は解しました〉として〈今後は体制批判と解釈される作品や活動には一切公的資金は支給されないからそのつもりで、という告知だと思います〉などと投稿した。
さらに映像作家の想田和弘監督は〈えっ。安倍政権は「日本には表現の自由はいらない」と決めたようです〉とした上で、この補助金不交付の前例がどれだけ表現を抑圧していくかについて連続でツイートしている。
〈トリエンナーレへの補助金を安倍政権が取り消す件、憲法21条に抵触するのを恐れて政府は手続き的な瑕疵を理由としているが、それは単なる言い訳なので細かく検討するに値しない。要は政府が気に食わぬ表現を含む催しには金を出さぬどころか、決まっていた補助金も引き上げる。そう宣言したわけだ。〉
〈これは政府の補助金を織り込んだイベントの主催者にとっては脅威である。すでに決まっていた7千万以上の金すら取り上げられるなら、政府の方針に少しでも反しそうな表現はあらかじめ自己検閲するであろう。今後、補助金のあるイベントでは、自由な表現をすることは多大なリスクとなる。〉
〈これは事実上、税金の拠出が認められる公共性の高いイベントであればあるほど、自由な表現はできなくなるということ。公共の場とは様々な意見や立場が排除されない場のことなので、これは完全な背理である。日本の「公共」は首相の考えにそぐわぬものは許容されぬ場になった。つまり私物化された。〉
想田監督が指摘するとおりだ。このままでは完全に、安倍政権にとって“無害”か、あるいは積極的に利用したい言論、芸術、すべて表現行為だけに私たちの税金からなる補助金を交付し、逆に政権に対する異論や不都合な表現は狙い撃ちされる。公共から自由な表現活動が消えていき、そのまま言論統制国家さながらに突き進んでいくだろう。
萩生田光一文科相の「取り消し理由」のトンデモ 取り消しは安倍政権の政治家の圧力だ
実際、文化庁の今回の補助金取り消し決定の裏に、安倍政権の圧力があったことは間違いない。
先の内閣改造で安倍首相の側近中の側近・萩生田光一氏が文化庁を管轄する文科相に就任したが、その萩生田文科相は昨日のぶら下がり会見で「検閲には当たらない」などと強弁した。
しかし、これが事実上の国家検閲でなくてなんなのか。「実現可能な内容であるか、それから継続可能かどうか」を審査したとして、「文化庁に申請のあった内容通りの展示会が実現できていない」なる不交付の理由も無茶苦茶としか言いようがない。
繰り返すが、そもそも文化庁は今年4月に「あいちトリエンナーレ」に対し、「文化資源活用推進事業」として約7800万円の補助金交付を内定させていた。ところが「表現の不自由展・その後」の少女像展示などが発覚すると豹変。「事実関係を確認、精査して適切に対応したい」(菅官房長官)、「事業の目的と照らし合わせて確認すべき点が見受けられる」(柴山前文科相)などと“補助金交付の見直し”をチラつかせたのだ。「表現の不自由展・その後」を標的にしているのはミエミエで、実際、“安倍政権御用紙”の産経新聞ですら〈元慰安婦を象徴する「平和の少女像」や昭和天皇の肖像を燃やすような映像の展示に批判が高まったことなどを受け、交付が適切かどうか精査していた〉と書いている(産経ニュース)。
補助金をタテにとった事実上の国家検閲と呼ぶほかない。たとえば萩生田文科相は、主催側が少女像展示等に対する批判によって展示の継続が難しくなる可能性を知りながら文化庁に「相談がなかった」ことも不交付の理由にしたが、いや、それこそ展示への介入以外の何物でもないだろう。事前に展示物をひとつ残らず申請させ、その通りにつくらなければ補助金を止めるということが正当化されるからだ。美術の展示に限らず、創作物の制作過程で内容が変わることなどザラにあるし、それ以前の問題として、政府にとって都合の悪い内容なら事前の申請時点でハネられてしまうかもしれない。政権を忖度した過剰な自主規制を招くのは目に見えているだろう。
だいたい、脅迫を含む抗議殺到によって「表現の不自由展・その後」の継続が困難になった事実は、それを予見し対策が可能だったかとは関係なく、いかなる理由があろうとも責められるべきは脅迫犯であって、主催者側であるはずがない。こんな理屈が通るなら、それこそ、国や自治体から補助金が出ているイベントならなんでも、ネトウヨが電凸や脅迫を繰り返して炎上させてしまえば、「対策ができていない」などと言って補助金を停止するという暴挙がまかり通ってしまうことになる。
忘れてはならないのは、今回の「表現の不自由展・その後」をめぐる大量の電凸や脅迫は、安倍政権や政権に近い極右政治家が扇動したという事実だ。
25日に発表された検証委員会による中間報告は、美術監督である津田大介氏らの不備も指摘する一方、〈過去に禁止となった作品を手掛かりに「表現の自由」や世の中の息苦しさについて考えるという着眼は今回のあいちトリエンナーレの趣旨に沿ったものであり、妥当だったと言える〉と判定。そして、政治家たちの圧力発言については、〈河村市長らの発言による直接的影響はなかったが、TVメディア等を通じた同氏らの対外的発言によって、電凸等が激化した可能性がある〉〈政治家の発言は、純粋な個人的発言とはみなせない。内容によっては圧力となりえ、(広い意味での)「検閲」とも言いうるので、慎重であるべき。また、報道等で広く拡散されることで度を越した抗議を助長する点でも慎重であるべき〉と断じている。
いずれにしても、わたしたちが今回の補助金取り消しに強く抵抗しなければ、これからどんどん安倍政権がネトウヨをけしかけて、マッチポンプ的に事実上の検閲を行うということが繰り返されてしまうだろう。そもそも憲法で保障された「表現の自由」は、時の権力に左右されないためのものだ。戦中の日本では、報道だけでなく芸術作品までが検閲の対象となり、逆に戦争賛美や戦意高揚に利用されていった。このままでは、本当にこの国は同じ轍を踏むことになる。(編集部)