2019年9月12日木曜日

12- 週刊ポストだけ非難されてテレビは不問の怪 ~(世に倦む日々)

「世に倦む日々」氏が、「週刊ポストの記事が韓国ヘイトだというのであれば、いまテレビ全局がやっていることは韓国ヘイトではないのか。私は、週刊誌だけを標的にして攻撃し、テレビを不問にして放置容認している左翼リベラルの神経が全く理解できない」と述べています。
週刊ポストの記事は、中身は大いに問題があり、常識的にも許されるものではないが、 法律違反ではない」、それに対して「日本のテレビの文在寅叩きは、放送法第4条2の政治的公平に明らかに逸脱するものであるのに、この法的視点からの問題提起がどこからも出ていない」と批判しています。
 
 (放送法違反の指摘は、植草一秀氏が10日付のブログで行っていますが、極めて少数であるのは事実です。
 
 そしてこのような事態に至らせた元凶は立憲民主党で、安倍政権の文在寅叩きに同調しているため、国内に政治的に異論がない状態が成立してしまったとして、共産党でさえ今回の文在寅憎悪の政治を強く批判する行動に出ておらず、国民に反対運動を訴えず、党として静観する態度に逃げている、と批判しました。
 11日付の上掲記事と重なる部分がありますが、こうした主張は余り見当たらないので敢えて紹介します。
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週刊ポストだけ非難されてテレビは不問の怪 - 放送法と公平中立 
世に倦む日々 2018-09-11
昨日(10日)、検査で病院に行ったら、待合室のテレビでワイドショーを流していて、ずっと嫌韓プロパガンダのシャワーで放送を埋めていた。シャワーというより洪水と氾濫だ。夜のBS各局の政治番組と全く同じ内容で、同じ論者がコメンテーターで出演している。朝の番組も、昼の番組も、曺国の法相任命の話を延々とやり、文在寅政権を叩いていた。先週、週刊ポストの記事と見出しが槍玉に挙がり、それが「韓国ヘイト」だという理由で糾弾される幕となったが、テレビ全局がやっていることは「韓国ヘイト」ではないのだろうか。私は、週刊誌だけを標的にして攻撃し、テレビを不問にして放置容認している左翼リベラルの神経が全く理解できない。今回の文在寅叩きで最も巨大な影響力を発揮しているのはテレビであり、文在寅と韓国に対する憎悪を扇動し、国民世論を文在寅潰しの方向に収斂させ、過激に一色に染め上げている運動主体はテレビだ。右翼の手先となったテレビだ。 
 
なぜ週刊ポストは×で、テレビは〇なのか。週刊誌は買わなければいい。選択ができる。週刊誌の嫌韓記事など、何もカネを払って買ってわざわざ読むことはないし、読みたい人間が読めばいいことで、週刊ポストと同じ内容の記事は週刊新潮や他の右翼雑誌に溢れている。テレビの方はそういうわけにはいかない。テレビを点ければ、朝と昼のワイドショーが目に入るし、BSの政治番組が目に入るし、受信料を払って見ているNHKの7時のニュースが目に入る。テレビは公共的な情報送受信のシステムであり、半ば強制的な社会装置である。新聞も公共性の高いメディアだが、これも契約して購読料を払って読むものであり、テレビとは決定的に違う。新聞は、社によって独自の政治的スタンスを持つことができ、新聞社が訴える方向に世論を導くことが自由にできる。新聞を縛る法律や規制はない。あったら大変だ。だが、テレビは違う。テレビには放送法がある。
 
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
 
放送法の4条には上記の規定があり、放送事業者はこの原則を守らなくてはいけない。放送は不偏不党でなくてはならず、そのことは第二項に明記されている。これは、放送が政治的に偏向することを禁止・抑制するための重要な原則で、放送の偏向が社会や国民生活に重大な害悪を与える結果になるから、それを避けるべく法律が制定されている。ナチスドイツのラジオのプロパガンダや、戦前戦中の日本のラジオ放送が、排除し回避すべき過去の全体主義の反省と教訓として想定されている。
 
今回の日本のテレビの文在寅叩きは、放送法の政治的公平に明らかに逸脱するものではないのか。否、むしろ、放送法が排除し回避しようとするところの、ナチスのラジオ・プロパガンダの復活そのものではないのか。この法的視点からの問題提起がどこからも出ていない。つまり、放送法を根拠にして、文在寅憎悪を扇動する異常な報道ファシズムを食い止めようと発想する者がいない。韓国の現実に正しく即けば、曺国の法相任命を支持する者は半分はいるし、賛成反対の世論は二分されている。放送法の政治的公平の原則に基づけば、二分された世論状況をそのまま反映させて伝えるのが日本のテレビ報道の姿勢でなくてはいけない。一方の側に与した論調で固めるのは偏向だ。だが、NHKは、朝鮮日報など反文在寅の右翼マスコミのみを「韓国メディア」として代表させ、ハンギョレの報道は無視する。これが偏向でなくて何だろうか。しかも公共放送のNHKが。
 
私が、この問題の元凶は野党だと強調する論陣を張るのは、この点に関わる。すなわち、立憲民主党が文在寅叩きに同調しているため、国内に政治的に異論がない状態が成立してしまっている。そのことを問題視しているのだ。立憲民主党が文在寅叩きにシフトしているため、今のテレビの文在寅憎悪が放送法の「政治的公平」に抵触しないような状況が作り上げられている。そのため、テレビ局側は、現在の報道について、放送法違反ではないと反論ができ、偏向ではないと開き直ることができる。立憲民主党の左に位置するのは共産党だけしかない。その共産党でさえ、今回の文在寅憎悪の政治を強く批判する行動に出ておらず、国民に反対運動を訴えず、党として静観する態度に逃げている。立憲に忖度している。共産党の声が小さいため、永田町の中で、文在寅を擁護する声が全く聞こえて来ない。だから、テレビは自由奔放に文在寅叩きができるのであり、公共の電波をこの日本会議のキャンペーンに使うことができるのである。
 
週刊ポストの記事は、中身は大いに問題があり、常識的にも許されるものではないが、表現の自由という観点からは憲法が保障する権利行使の範囲だと認めてよいはずだ。法律違反ではない。テレビは法律を犯している。8月から続く怒濤の文在寅叩きの報道は、放送法2条の「不偏不党」の原則を逸脱し、放送法4条の「政治的公平」に違反するものだ。許容できる範囲を超えていて、ナチスのラジオ・プロパガンダの先例と同じになっている。オーウェルの『1984年』そのものだ。テレビの暴走を見ながら思うのは、日本のアカデミーでメディア論とかをやっている「社会学者」たちである。この連中は何をしているのだろうか。私学にはやたらとこの肩書きの専門家が多い。見るからに遊び人風で、世の中を舐めきった表情と口調をして、したり顔でくだらない喋りの舌を回してマスコミに登場する。新聞社やテレビ局の幹部が天下っている例もある。科研費で豪遊し、マスコミの連中と戯れているのだろう。
 
税金の無駄としか思えない「メディア論の社会学者」。この「社会学者」たちが、いくら法律に無知だと言っても、放送法の条文を知らないということはないだろう。第2条の「不偏不党」や第4条の「政治的公平」の規定と照らして、現在のテレビの文在寅叩きの現象はどうなのだ。「メディア論」の「専門家」として、今のテレビの異常事態を見て何も思うことはないのだろうか