2020年9月21日月曜日

21- はがれた仮面・ジャパンライフ事件(中)(東京新聞)

  東京新聞のシリーズ「はがれた仮面・ジャパンライフ事件」の(中)編です。山口氏は14歳のとき織物業の家元の実家が倒産しました。工業高校卒業後、自動車工場に就職しましたが1年半で退社し、訪問販売を始めました。その経験が後にマルチ商法を始める原点になっています。山口氏には著書「巨億を築く99の秘伝」があるそうですが、自分が巨億を築いた背後に無数の被害者がいたことをどう思っているのでしょうか。

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<ジャパンライフ山口元会長>訪問販売で人が変わった 「別格な家柄」のたー坊

東京新聞 2020年9月20日

<はがれた仮面・ジャパンライフ事件(中)>

 「たー坊は、小柄でおとなしい子。あいさつもできない恥ずかしがり屋だった」。たー坊とは、詐欺容疑で警視庁に逮捕されたジャパンライフ創業者の山口隆祥(78)のこと。山口の生家近くに今も暮らす男性(89)が懐かしんだ。

 山口は1942(昭和17)年、群馬県伊勢崎市の織物業の家元の三男として生まれた。自宅は2階建ての豪邸で、お手伝いさんもいた。近所の男性いわく「別格な家柄だった」という。

◆狭い裏道でリヤカー引く「財閥くん」

 だが、戦後の着物から洋服文化の流れに織元の多くが店をたたんだ。山口家も例外ではなく56年に倒産した。当時14歳だった山口は、両親や3人のきょうだいと豪邸の2階の隅の1室にひしめくように暮らし、残りの部屋を借家として貸し出した。

 仕事で山口家に食材を配達していた女性(84)は、山口がリヤカーを引いていた時のことを覚えている。親族宅に野菜をもらいに行くためだ。同級生に知られないためか、わざと狭い裏道を通っていたが見つかり、「『財閥くん』がリヤカー引いているや」と、いじめられていたという。「相当の屈辱だったと思う」と女性は語る。

 その後、地元の工業高校を卒業し、富士重工業(現SUBARU=スバル)伊勢崎工場の工員として入社。だが1年半で退社し、電話機の交換台の訪問販売を始めた。

◆「絶対に自分で定価つける」 原点の裏で多くの被害者

 山口は著書「巨億を築く99の秘伝」にこう記している。「歯を食いしばって頑張った。弱い自分を強い方向へと持っていったのである。私は断じて人間は改造できると信じる」

 近所で履物屋を営んでいた男性(85)は振り返る。「訪問販売をやるようになり、人が変わってしまった

 山口は名古屋地裁など計9地裁で214人の原告から損害賠償請求訴訟を起こされている。東京地裁に提出した陳述書には、幼いころ父親と東京・日本橋に行った時のことを記している。百貨店を訪れると、父親の作った反物が卸値の5倍で売られていた。父親の悔しそうにゆがんだ横顔が忘れられなかった。「あの姿を見て、私は自分で造った商品は絶対に自分で定価を付ける。その時の気持ちがジャパンライフを創業した原点だ」

 言葉通り、83年には、全国の25カ所の協力工場を結ぶ当時最新鋭の流通センターを埼玉県内に建て、経営に全力を注いだ。破綻した際、全国に78店舗を展開するまで会社は膨らんでいたが、その裏で多くの被害者を生んでいた。山口の4歳上の実兄で、物流センターのかじ取り役として専務を務めていた山口倫義が語る。「弟とはもう30年以上会っていない。どこで何をしているか、弟のことはもう何もわからない」 (敬称略)