「経済」は本来的に弱肉強食の特性を持ちます。それを抑制するのが「政治」であり、放埓な弱肉強食のあり方を是正する使命を持っています。経済的弱者を「自己責任」として切り捨てることはあってはならないことです。
しかしながらそれを公然と打ち出したのが2001年4月に発足した小泉(・竹中)政権でした。政策として明記したというようなことではないのですが、当時TVなどに登場する人たちが盛んに口にし、多くの人たちが公然と主張しました。
その後に登場した第1次安倍政権ではさすがにそれでは具合が悪いと思ったのか、当初は「セーフティネットの構築」を掲げましたが口先だけでのことでした。
「自己責任」とはまさに新自由主義の酷薄さを示すものでその批判は既に確定しています。それなのに第2次安倍政権はまたゾロ「自助・共助・公助」などと言い出しました。なるほどそこには「自己責任」という文字はありませんが、その意味するところはLITERAが解説している通り、「基本は自己責任。次に家族や地域社会に頼れ。国が出るのは最後の最後の段階だ」というものです。
そして菅氏は総裁選立候補に当たり公然と「自助・共助・公助」をスローガンとして打ち上げました。LITERAは、この「自助・共助・公助」こそは、菅氏がこれまでも繰り返し言及してきたフレーズだと述べ、自助・共助も必要ではあるものの「国のあるべきかたち」として「基本は自分」「駄目なら国が面倒を見る」などと宣言するのは論外だとしています。
菅氏は立候補に当たり盛んに自分が苦労人であったことを宣伝し、官邸記者クラブのメンバーも何故か かつて「令和おじさん」などと持ち上げました。しかしTVが伝える菅氏の風貌や言動は冷酷、酷薄そのものにしか見えません。
LITERAの記事を紹介します。的確な指摘です。
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「自助・公助・共助」を打ち出した菅官房長官はゴリゴリの自己責任論者!
「叩き上げ」が国民に「生存者バイアス」を押し付ける
LITERA 2020.09.04
「密室政治」によってすでに「次期自民党総裁・首相」となることが決定的となっている菅義偉官房長官だが、その次期総理が打ち出したスローガンに批判が巻き起こっている。
菅官房長官は、2日におこなった総裁選出馬表明の会見で、「国の基本は『自助・共助・公助』」と宣言。さらに、同夜に出演した『ニュースウオッチ9』(NHK)でも、「自民党総裁になったらどんな国にしたいか」という問いに対し、「自助・共助・公助」と書いた手書きのフリップを掲げて、こう述べた。
「『自助・共助・公助』。この国づくりをおこなっていきたいと思います」
「まず、自分でできることは自分でやる。自分でできなくなったら、まずは家族とか、あるいは地域で支えてもらう。そしてそれでもダメであれば、それは必ず国が責任を持って守ってくれる。そうした信頼のある国づくりというものをおこなっていきたいと思います」
基本は自己責任で、次に家族や地域社会に頼れ。国は最後の最後 ── 。同じく総裁選に出馬している石破茂氏は「納得と共感」、岸田文雄氏が「分断から協調へ」というスローガンを掲げ、安倍政治の反省と克服を打ち出しているが、菅官房長官はむしろ、安倍政治の基本ベースとなっていた自己責任をより強く打ち出してきたのだ。
じつは、この「自助・共助・公助」は、菅官房長官がこれまでも繰り返し言及してきたフレーズだ。
たとえば、阪神大震災から22年を迎えた2017年1月17日の会見でも、菅官房長官は「個々人が被害を軽減するためには、公助だけでなく地域における自助・共助の取り組みが重要だ」と指摘。また今年に入ってからも、北海道新聞(3月28日付)や秋田魁新報(3月30日付)などに掲載された政治学者の姜尚中氏との対談で「自助、共助、公助がしっかりした社会をつくるべきだと思っています。基本は自分、そして家族、地域で頑張るが、駄目なら国が面倒を見るという社会です」と発言している。
たしかに災害時には避難行動など「自助」による取り組みも必要になってくるが、政治家ならば、まずは避難所や公的住宅の用意、支援などの「公助」について責任を持つと姿勢をあきらかにし、その上で「共助」「自助」について語るべきだ。しかも、災害時だけにかぎった話ではなく「国のあるべきかたち」として「基本は自分」「駄目なら国が面倒を見る」などと宣言するとは ── 。
しかも、菅官房長官は最後の最後に「公助」と述べているが、実際には、その最後の砦さえ国民に用意する気はないはずだ。現に、第二次安倍政権が最初に強行採決した2013年成立の社会保障改革プログラム法でも、最終報告書にあった「公助」という文言を消し、「自助・自立」を前面に押し出していた。
そもそも、安倍首相の新型コロナ対策が完全に後手後手にまわり、それによって内閣支持率をあれだけ落としたというのにその反省はまったくなく、そればかりか「自助」ではどうにもならない「国難」が起き、新自由主義路線の限界が決定的になったこのタイミングにあって、総理大臣が決まる総裁選で「自助・共助・公助」を全面に押し出してきたのである。これは、いかに菅官房長官が社会的弱者を無視する強固な自己責任論者・新自由主義者であるかという証拠だろう。
菅は「庶民派」ではなく小泉ばりの弱肉強食志向 政治学者の中島岳志も新自由主義的本質を分析
実際、政治学者である中島岳志氏は、昨年発表した『自民党 価値とリスクのマトリクス』(スタンド・ブックス)のなかで、菅官房長官を〈冷徹なポピュリスト〉〈人事を通じた権力掌握を巧みに行い、「自主規制」や「忖度」によって既得権打破の構造改革を進める政治家〉だと評し、その政治姿勢にこう言及している。
〈菅さんの打ち出す政策は、基本的に「自助」という自己責任を基調とする「小さな政府」路線に基づいています。〉
〈菅さんは小泉構造改革を断固として継続すべきという立場をとってきました。規制緩和を徹底することによって新しい産業を起こしていくというヴィジョンは、大臣就任以前からの持論でした。(中略)
国家戦略特区を推進し、農協改革によって自由競争を推進する。法人税を減税し、大企業の国際競争力を高める。
一方、政府の側も行政改革によるスリム化、効率化を図り、官邸主導によるスピード感を実現する。地方分権を推進し、地方自治体に競争原理を導入することで自助努力を促す。公務員の人件費は削減し、首長の高額退職金にもメスを入れる。〉
〈法人税を減税し、大企業の国際競争力を高める〉と言えば聞こえがいいが、その実態は減税された大企業は内部留保を溜め込むばかりで賃金には回ってこず、雇用も賃金が安い非正規が増加する一方となった。メディアはこぞって菅官房長官を「段ボール工場で働いていた叩き上げ」などと取り上げて「庶民派」であるかのように演出しているが、庶民の生活への視点などまるで持ち合わせていない。
いや、むしろ、この「叩き上げ」という経歴こそが、「自己責任」に走らせているという指摘もできるだろう。前掲書のなかで、中島氏もこうまとめている。
〈彼が「共助」よりも「自助」を強調する姿勢には、「自分はたたき上げで、裸一貫から努力してのし上がってきたのだ」という自負心があるのでしょう。一時期、議員の世襲制に対して猛烈に批判を加えていた背景にも、この思いが存在していると思います。
しかし、この考え方が「社会的弱者は公助に甘えている」という認識につながっているとすれば、やはり問題があります。大衆の欲望に敏感でありながら、本当の苦しみに寄り添えないようでは、大衆政治家として問題があると言わざるをえません。〉
これは菅官房長官と親密な関係にある橋下徹氏とも共通する問題だ。橋下氏も「苦労人」「叩き上げ」と呼ばれてきたが、生活困窮者や社会的弱者に対して「自己責任だ」「努力が足りない」と切り捨ててきた。「苦労人」「叩き上げ」だからこそ、「自分は苦労してもそれを努力で跳ね除け成功した。成功できない人間は努力が足りない」という「生存バイアス(⇒偏り、偏見)」「成功バイアス」を振りかざすのだ。
それでなくても安倍政権によって自己責任論が社会に蔓延してしまったというのに、その上、「基本は自分でなんとかしろ」と堂々掲げる菅氏が次期総理となれば、被災者も病人も生活困窮者も国から見捨てられ、「そもそも自分が悪い」とバッシングされる冷血極まりない国となることは間違いないだろう。(編集部)