2020年9月10日木曜日

10- 菅義偉 コロナ禍で「自助」を説く頭の悪さとセンスの無さ(世に倦む日々)

 日刊ゲンダイは「自民総裁本命菅官房長官 共同会見で露呈した力量不足」と題した短い記事(9日付)で以下のように述べています。

 次期総理候補の本命と言われる男の正体みたりだ。8日午後に自民党本部で行われた総裁選の所見発表演説会と共同記者会見。NHKなどで生中継された会見には、菅義偉官房長官(71)、岸田文雄政調会長(63)、石破茂元幹事長(63)の3人が揃って出席したが、そこで明らかになったのは国会議員票の約7割を押さえて盤石とみられる菅氏の政治家としての力量不足ではないか。
 偶然かどうかはともかく、菅氏にとって誤算だったのは、質問に答える順番が石破氏の次だったことだ。「説明責任」や「安全保障」に至るまで、記者の質問に対してそつなく論理的に答える石破氏とは対照的に、しきりに時計をチラチラ見つつ官房長官のような答弁を繰り返していた菅氏。
 これに対し、石破氏は記者の質問に答えるという形をとってはいたものの、「(政治は)すべての人々に公平でなければならない」などと、これまでの安倍政権の対応をやんわりと批判しながら、隣の菅氏をけん制していたのは明らかだった。
 すでに「勝負あり」の消化試合とはいえ、共同会見を見る限り、誰が総裁にふさわしいのかは、国民の目にもわかったに違いない。

「世に倦む日々」は菅氏のことをもっと辛らつに批判しています。
 菅首相が誕生すれば、自己責任の酷薄な政治と説明にもならない説明に何時まで堪えなくてはならないのでしょうか。
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ディベートが無能な菅義偉
 - コロナ禍で「自助」を説く頭の悪さとセンスの無さ
 世に倦む日々 2020-09-09
自民党総裁選がマスコミ報道の主役になり、テレビの関心を埋めている。石破茂が候補で登場して、長く続いた安倍政権の路線を止揚する「グレートリセット」を標榜しているため、テレビでの論戦が活発で面白い。告示当日の昨夜(8日)は報ステとNEWS23で生討論会が行われたが、前者では (1)アベノミクスの成否と (2)負の遺産(森友・加計・桜)の二つに焦点が当てられ、非常に興味深いコンテンツとなった。週末12日に記者クラブ主催の公開討論会が予定されていて、延長戦が演じられるので注目される。討論の次第によっては、14日に開票される地方党員票に影響が出るだろう。討論会で明らかになったのは、菅義偉にはディベートの才能がないという決定的な事実だ。語る言葉が貧相で、反論が巧みにできず、印象に劣り、説得力のポイントを稼ぐことができない。厳しい質問に対して逃げてばかりいる。勉強家で政策通で、語りたい中身と論点が山ほどあり、テレビ出演を重ねて場慣れしている石破茂とはコントラストが著しい。指導者の器量に欠ける。

普通の感覚で判断して、リーダーに相応しいのは石破茂の方だろう。石破茂は、厳しい批判をされても逃げるということがない。菅義偉の方は、質問に答えず別の話をして、その場をかわす胡乱な態度に終始していた。いつもの官房長官会見の手法と同じだ。だが、選挙の討論会ではそれは通用しないのである。官房長官会見では、司会が官邸官僚だし、その場の記者たちも身内で昵懇の安倍軍団ばかりなので、菅義偉のペースで仕切って進行させることができる。「当たらない」とか、「政府として問題とは考えない」とか、「個別の問題については回答を差し控える」とか言って切り捨て、応答をせず、「時間がないので次」と言えばそれで済んだ。論破される前に強権的に遮った。選挙の討論会では、菅義偉も一候補者であり、そのような態度と方式は通用しないのだが、菅義偉にとってマスコミとのやりとりは官房長官会見のスタイルしか覚えがなく、冷静な応酬ができず、粗雑な方法で押し通してしまうのである。討論を演出する才能がなく、弁が立たず見劣りする

菅義偉が「自助・共助・公序」をスローガンとして掲げたのも、政治家としての行動としてあまりに無神経で非常識に思われる。この点は報ステの徳永有美が生討論の席で衝いていて、やはりそう思う人間が多いのだろう。この標語は、小泉政権の後に竹中平蔵が何度も口にするようになって耳に付いた言葉だ。竹中平蔵が自助論を喧伝し、意味は社会保障の切り捨てであり、公共政策の削減であり、それを受け入れろという地均しだった。新自由主義のスローガンであり、リベラリズムの社会原理である。この標語と言説には、今までの戦後の政府があまりに弱者を含めた国民全員に手厚く施しをしすぎたという批判の含意がある。国民が政府に頼って甘えるようになり、怠惰なフリーライダーになり、自助努力をしなくなったという決めつけがある。2000年代以降、こうした邪悪なプロパガンダを竹中平蔵がシャワーし、竹中平蔵の子分たちがマスコミでリフレインし、維新の台頭や第2次安倍政権へ繋がる環境的基礎を作っていく。下野して野党になった自民党の綱領にまで文言が収まった。

もともと、「自助」を強調するリベラリズムは、90年代の民主党の立ち上げの際にも吹聴された政治哲学であり、90年代の日本の政治の流行思想で、小沢一郎の自由党もこのイデオロギーを前面に打ち出した政党だ。当時は、ネオリベラリズム⇒新自由主義がこれほど凶悪な弊害と厄災に至るという認識がなく、皆が軽口を叩くように戦後日本の一億総中流社会を貶下し、護送船団方式を侮蔑し、民営化と規制緩和を無条件に賛美していた。91年のソ連崩壊が背景にあり、労働運動の右翼的再編と小選挙区制導入の「政治改革」の流れが前提としてあったこと、あらためて確認するまでもない。長い時間をかけ、第2次安倍政権の年月を経て、この言説なり標語は、政府は何もしないのだという無策行政主義を当然視する過激な意味になり、国民一般のために政府のリソース⇒資源は使わないのだという開き直りを正当化する政治用語になった。菅義偉の自助主義が典型的に現れているのがコロナ対策で、PCR検査もしないし、隔離など対策はすべて自治体に任せている。

自助主義のイデオロギー性、すなわち、その言説の正体が国民一般を幸福に導くものではなく逆であること、中間層を解体し、社会に格差をもたらし、国民多数を貧困に落とし込む政策の騙しの宣伝文句であり、新自由主義を美化するトリックであることの真実が、20年かけて一般にも常識になっている。この標語を聞けば、誰もが想起するのは竹中平蔵の顔だろう。もう、今の日本国民には自助などできる余地はない。資産を失い、健康年齢を失い、コロナ禍で働き口を失った多くの国民がテレビの前で佇んでいる。地域の経済発展どころか、持続可能性の展望すら失っている。そんな中で「自助・共助・公助」を平然と言い、それを総裁選のスローガンに立てる菅義偉の無神経に鼻白む思いがする。まさか「自助・共助・公助」を衆院選でもスローガンにするのだろうか。こんな効果としてリスクの高い標語を選ぶということが、菅義偉の頭の悪さとセンスの無さを証明していると断言できよう。そして、菅義偉の周辺にライターがおらず、演出戦略に長けた参謀がいないことを物語っている。

おそらく、菅義偉自身が「自助・共助・公助」のイデオロギーの徒であり、この信念にコミットする狂気の確信犯なのだろう。この時勢、叩き上げで這い上がってきた経歴の成功者には、グッドウィルの折口雅博のようにこの類の思想の持ち主が多い。ただ、菅義偉の場合、自己責任主義(=レッセフェールの政府無責任主義)の経済思想がお気に入りというより、それ以上に動機として強烈な反共主義があり、反共右翼としての必然で新自由主義を選び取っているという核心的契機がありそうだ。通常、菅義偉的な類型と世代の自民党政治家というのは、ネオリベとは本来的に相反する関係性のイメージがある。80年代以前の自民党議員の属性はそうだった。新自由主義はまさに社会主義の否定であり、社会の中に制度化されて定着したあらゆるソシアルな要素を根絶・撤廃しようとする。公共政策を否定し、水道を民営化し、生産者組合と労働組合を潰し、労働基準法を潰す。菅義偉がどのように右翼青年として出発し、冷血で冷酷な反共闘士となったのか、ジャーナリズムの調査と報告が待ち遠しい

推理を入れるとすれば、60年代末の大学紛争の激動の過程があるだろう。4歳年上の町村信孝が類似の範疇に入る(菅義偉よりアッパーなクラスの住人だが)。当時の若者のエネルギッシュな革新運動に対してカウンター(保守反動)の側に立った異端者たち。その人生の目的と使命感。

安倍政権の番頭であり、話下手で、ゴリゴリの新自由主義者の菅義偉が、自民党諸派閥を密室で纏めて次期総裁確実となった途端に、なぜ急に、あれほどの人気が出たのか。その点は謎である。末期安倍政権に対する異常に高い評価というのも、俄に信じられない政治現象だ。愚衆の付和雷同というほかなく、日本人の政治意識の終末的な劣化に途方に暮れるしかない。総裁選レースを報じるマスコミの世論調査では、今年に入って石破茂がリードし、コロナ禍の中で安倍政権を批判する石破茂に国民の期待が集まっている状況が顕著だった。リセットを求めている国民の気分は明確だった。それが、わずか一週間弱の多数派工作の政治報道とプロパガンダで、あのように簡単に急変し逆転してしまうものなのかと、軽薄さと空疎さに驚き脱力してしまう。安倍辞任以降、テレビとネットの報道は石破茂を叩きまくってきた。自民党内で評判が悪いだの、仲間外れだの、政治生命の終わりだの。マスコミは官邸と直結しているから、石破茂の悪宣伝に徹したのだろうが、それに簡単に釣られる国民世論もどうかしている。

信じられないのは、マスコミの世論調査ではなく、付和雷同の国民の方なのだ。スマイルズの法則が示す国民の政治能力の実態なのだ。絶望はそこにある。