余りにもバカらしくてもう殆ど人々の記憶には残っていないと思いますが、2005年8月に行われた郵政民営化解散では、小泉政権は「郵政を民営化すればバラ色の世の中になる」との大宣伝を行いました。曰く「民営化すれば郵貯会社の株式発行で国は莫大な財源を得る、20万人弱の郵便局員の人件費が浮く、郵便代がより安くなる」等々でした。しかし事実は、民営化しても何一つ良いことはありませんでした。民生は何も向上せず、郵便局員の人件費は自前の収益から出ていたので税金の投入は元々ありませんでした。郵便料金は上がりより不便になりました。簡易保険は米保険大手・アフラックグループに取って代わられました。先に問題化した郵貯勧誘・契約上での不正問題は民営化の誤りを端的に示したものでした。
そもそも郵政民営化自体 米国の要求に基づくもので、対日要望書には95年から『簡保の民営化』が盛られ続けました。当時米国には約240兆円の対外債務があり、その内の100兆円を日本が米国債などを買って支えていました。米国は残りの140兆円も簡保の資金(郵貯と合わせると350兆円)で日本に購入させたかったのでした。民営化の実務を行った竹中平蔵氏は米国通商部の代表と「秘密裏に」18回もの打合せを重ねました。
小渕内閣以降、新自由主義の旗振り役を任じていた中谷巌・一橋大名誉教授が文春3月号に「竹中平蔵君、僕は間違えた」の手記を発表したのは2009年でした。それは世界が2008年9月に始まったリーマンショックを経験し、利潤追及だけを求める新自由主義の破綻が明らかになる中で、学者としての良心が語らせたものでした。しかし東洋大教授を表看板にしているものの実態は最大手人材派遣会社パソナ会長である竹中氏(一橋大の後輩)の心にそれは届きませんでした。政府委員などの地位を利用する政商だという誹りを一部から受けながらも、彼が利潤追求の姿勢を改めることはありませんでした。ところで菅氏は、竹中氏が小泉内閣の総務相を務めた時の副大臣で、その時に新自由主義を吹き込まれたのでしょうか、彼が口にする「自助・共助・公助(⇒自己責任論)」や「規制緩和」は新自由主義の標語に他なりません。
酒井まど氏の「菅首相の叫ぶ『規制緩和』は30年も前の流行語だった! 竹中平蔵がバック、時代遅れの新自由主義が国民生活をさらに圧迫する」とする記事がLITERAの載りました。菅氏は、18日朝にさっそく1時間会食懇談をするなど、いまでも毎週のように竹中氏と会っているということです。既に世界的に破綻したと言われる新自由主義路線を全開している異様さは、その辺に原因があるのでしょうか。たまには心を安んじられる情報に接したいものです。
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菅首相の叫ぶ「規制緩和」は30年も前の流行語だった! 竹中平蔵がバック、時代遅れの新自由主義が国民生活をさらに圧迫する
https://lite-ra.com/2020/09/post-5644.html
LITERA 2020.09.22
ついに動き出した菅政権。菅義偉新首相は16日の就任会見では、「行政の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義、こうしたものを打ち破って、規制改革を全力で進めます」「この内閣は、既得権益を打破し、規制を改革する、国民のために働く内閣」「規制改革というのをこの政権のど真ん中に置いています」などと「規制改革」「既得権益打破」を連発。18日朝にはあの竹中平蔵パソナグループ会長とさっそく約1時間会食懇談するなど、総裁選中の「自助・共助・公助」に続き、新自由主義路線を全開にしている。
実質“自民党菅派”であり同じ新自由主義信者である維新の吉村洋文・大阪府知事や橋下徹・元大阪市長らも「規制改革に期待」とさっそく同調し、メディアも「規制緩和」「構造改革」ともてはやしている。
でも、ちょっと待ってほしい。この人たち、正気で言っているんだろうか。菅首相が掲げる新自由主義路線って、この30年の間ですでに限界が露呈しているんじゃなかったのか。というか、そもそも「規制緩和」とか「構造改革」とか、ワードとして古すぎるだろう。これらの言葉がいかに手垢のついた古臭いものであるかは、過去の「流行語」を調べてみればよくわかる。新自由主義的改革路線が直接的には小泉政権からの流れであることは周知のとおりだが、案の定、小泉政権の誕生した2001年の流行語大賞は「米百俵」「聖域なき改革」「恐れず怯まず捉われず」「骨太の方針」「改革の『痛み』」など、小泉改革語録がずらり並んでいた。ちなみに、これらはノミネートではなくて、すべてが大賞。しかもトップテンに「抵抗勢力」や「塩爺」も入っている。いかに世の中が小泉純一郎の叫ぶ「改革」に浮かれていたかが、よくわかる。この辺りは多くの人の記憶にもあることだろう。
つまり、日本という国は20年も前から「改革」「改革」と叫び続けていることになるわけだが、「規制緩和」にいたってはそれどころではなかった。なんと27年も前、1993年の流行語大賞で、金賞を受賞していたのだ。1993年といえば、宮沢りえと貴乃花が婚約を解消し、現在の天皇が雅子妃と結婚した年で、阪神大震災もオウム真理教による地下鉄テロ事件もまだ起きていない。政治では、非自民の細川政権が生まれ、安倍前首相は初当選、菅首相はまだ国会議員にもなっていない。(中 略)菅首相は、「パンケーキ」のことを「ホットケーキ」とは言わない程度に時流に乗っているくせに、肝心の経済政策は30年前でストップしているらしい。
「規制緩和」がブームになったのは細川政権時代の1993年
いや、これはワードの古さをからかって済む話ではない。問題はこの国で30年以上もの間、「規制緩和」「構造改革」と叫ばれ続けながら、経済はまったく回復していないどころか、その結果、悪化の一途をたどり、国民の生活はどんどん窮乏していったということだ。
言っておくがこの間、「規制緩和が進んでない」わけではなかった。むしろ、数々の規制が撤廃・緩和されてきた。(中 略)この年(1993年)に誕生した細川政権が「規制緩和94項目」を掲げる。その路線は自民党政権に戻っても引き継がれ、橋本政権、小渕政権、森政権でさらに強化。そして、小泉政権で、「規制緩和」「新自由主義政策」が決定的なものとなる。「郵政民営化」に代表される行政サービスの民営化が進み、大企業のビジネスがやりやすくなるようにさまざまな規制が緩和され、社会保障がカットされる一方、法人税や高額所得者の所得税減税が行われた。
さらに、国民にとって大きな影響があったのは、その小泉政権下で一気に進んだ雇用・労働をめぐる規制緩和だろう。違法だった労働者派遣が可能になったのは、労働者派遣法が制定された1985年からだが、この時点ではまだ派遣が許されているのは13業種に限定されていた。ところが、90年代以降、規制緩和の名のもとに段階を踏みながら徐々に拡大。そして、小泉政権下の2004年に労働者派遣が製造業にまで拡大、これで非正規雇用が一気に増えたのだ。
小泉政権時代、竹中平蔵がリードした新自由主義政策と規制緩和がもたらしたもの
周知のように、小泉政権のこうした規制緩和の最大の推進力になったのが、民間閣僚として経済財政政策担当相に就任した竹中平蔵氏だった。竹中氏は規制緩和によって経済が活性化し、会社や富裕層が儲かれば、庶民も恩恵が受けられるという、いわゆるトリクルダウン理論を力説してきた。しかし、その結果、どうなったか。日本の経済は規制緩和が一気に進んだはずの小泉政権でもまったく成長しなかった。日本の名目GDPは1997年には約534兆円あったが、小泉政権下の2001年〜2006年、一度もその数値に届かず、510〜520兆円台に留まり続けた。 トリクルダウンもまったく起きなかった。それどころか、小泉政権が法人税や富裕層減税の一方で、社会保障を削減、派遣労働法改正で大企業が自由に労働者を切り捨てることができるようになったため、貧富の格差が一気に増大。日本の相対的貧困率は1985年には10.9%だったのが、2016年には15.7%と一気に1.5倍増になった。
実際、小泉政権後、国民から格差社会への反発が強まり、2008年には小林多喜二のプロレタリア小説『蟹工船』が再ブームとなり、2009年には「派遣切り」や「年越し派遣村」が流行語大賞にノミネートされている。いずれにしても、「規制緩和」も「改革」も「新自由主義」も、効果がないどころか、国民生活を悪化させるものでしかないことがとっくに証明されているのだ。ところが、こうした規制緩和・構造改革汚染は第一次安倍政権や民主党政権、そして第2次安倍政権でも続いた。第2次安倍政権では安倍首相がリフレ的なアベノミクスを掲げ、一時的に景気が回復したように見えたが、実際は相変わらず竹中氏がブレーンを務め、大企業に有利な規制緩和、法人税、富裕層の減税路線はむしろ強化された。その結果、貧富の差はさらに拡大。もちろんトリクルダウンは起きず、庶民の生活はさらに困窮した。ちなみに、トリクルダウンについては、安倍首相は途中から「トリクルダウンなんてことは言ったことがない」と言い出し、竹中氏も2016年の『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)で「(トリクルダウンについて)滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」と自らの過去の主張を一転させている。
そして、新自由主義、規制緩和路線の終焉は今回のコロナ禍で決定的になった。たとえば、コロナ下で検査件数がなかなか増えないなかで、保健所のキャパシティ不足問題が浮き彫りになった。1992年には全国で852カ所あった保健所が、2020年には469カ所まで削減されてしまったのだが、これは数十年に渡る新自由主義政策によって医療や福祉が軽視され削減され続けてきたためだ。ネオリベ政党・維新の生みの親である橋下徹氏も、4月3日に〈僕が今更言うのもおかしいところですが、大阪府知事時代、大阪市長時代に徹底的な改革を断行し、有事の今、現場を疲弊させているところがあると思います。保健所、府立市立病院など。そこは、お手数をおかけしますが見直しをよろしくお願いします。〉と反省めいたことをツイートした(もっとも橋下氏は完全に予防線として言っただけで、舌の根も乾かぬうちに「無駄は要りません」などと言っていたし、菅政権の「規制改革」路線も絶賛している)。
その結果、日本に限らず、世界各国で社会的ケアの重要性が再認識され、新自由主義的経済政策からの転換が求められている。新自由主義の申し子」といわれるあのイギリスのボリス・ジョンソン首相すら、今回のコロナ禍に際し「社会というものは存在する」と、サッチャー以来の社会福祉を切り捨てる緊縮財政・新自由主義路線を否定するような発言を国民へのビデオメッセージで語った。
コロナで新自由主義の限界が露呈しても竹中平蔵は反省せず
いずれにしても、「規制緩和」も「改革」も「新自由主義」も、完全に限界が露呈し、世界的には時代遅れなのだ。ところが、この国の新自由主義者たちはこの期に及んでも反省するどころか、まったく変わっていない。とくに竹中平蔵氏は、コロナ禍による経済苦に多くの人々が直面するなか、医療崩壊は医師会が医学部新設に反対したせいだなどとさらなる規制緩和を叫んだり、〈日本の失業率は2.6%と低い。しかし失業者178万人に対し「休業者」が652万人。潜在失業率は11%になる。政府が雇用調整助成金を出し、雇用を繋ぎ止めるからだ。不況が短期間でかつ産業構造が変わらないなら、それもいい。しかしそうではないだろう。こうした点が国会などで一切議論されないのは問題だ〉(6月4日のツイート)と雇用を守るための雇用調整助成金を非難したり、都知事選でコロナをめぐり医療体制や経済支援など社会的ケアが問われているさなかに〈都知事選が終盤を迎えているが、重要政策が議論されていない。東京都の巨額の資産を市場で売却することだ。イギリスでは、サッチャーによって国有企業が資産市場に売りに出された。結果的にそれが、資産市場を活性化させ、シティが世界一の金融センターになった。東京都には、売れる資産が山ほどある〉(7月2日のツイート)などと都の資産を売っぱらえと叫んだり、1ミリも反省しないどころか、ますます尖鋭化している。
取締役会長を務めるパソナグループをはじめとし、自身に関係する企業のなんらかの利益につながるというのもあるのかもしれないが、それ以上に、理屈を超えた狂信的なものすら感じる。「キセイカイカク」「キセイカンワ」「コウゾウカイカク」「ムダサクゲン」とまるで呪文かお題目のように唱え続けるこの新自由主義盲信、新自由主義カルトっぷりは、菅首相にも当てはまる。「規制改革」を連発した16日の就任会見では、記者から「規制改革の具体的な対象分野は」と問われ、「探せばいくらでもある」と言って、「縦割りと既得権益と悪しき前例、こうしたものを打破して、規制改革を進めていく」と決まり文句を言うだけで、具体例をひとつも出せない。あげく例の「縦割り110番」で募集すると言い出した。ようするに、ただ「規制緩和」ありきなだけなのだ。
しかも、前述したように18日朝には竹中氏とさっそく1時間会食懇談。小泉政権時に竹中氏が総務相、菅氏が総務副大臣を務めた関係にあり、いまでも毎週のように会っているともいわれ、「規制改革」とともに看板政策として掲げる「デジタル庁」も竹中氏の入れ知恵ではないかと指摘されているが、菅首相自身、竹中氏との蜜月ぶりを隠す気などまったくないらしい。連休中もネオリベ系経済評論家やエコノミストたちと次々懇談を繰り返している。
この期に及んで弱肉強食の新自由主義を進める菅首相に突きつけたい30年前の批判
これから先、菅政権が、安倍政権以上に新自由主義路線をむきだしにしてくることは間違いない。しかも日本では「規制緩和」「改革」「既得権益打破」などという掛け声は30年前と変わっていないが、その欠陥をさらなる欠陥で糊塗し続け、中身はよりグロテスクなものへと進化を遂げている。諸外国では極右は反自由主義を掲げている例が多いが、日本の安倍政権や維新では、極右国家主義と新自由主義が共存してきた。自己責任を謳う新自由主義のなかで疎外された人々の不安感を、国家主義的統制で抑制するというような形で、相矛盾する原理を内包しているはずの新自由主義と極右的国家主義が互いに補完・助長し合うというグロテスクな合体を遂げているのだ。それが、菅首相が掲げる「自助・共助・公助、そして絆」の正体だ。
ちなみに、「規制緩和」が流行語大賞金賞を受賞した1993年10月の衆院・規制緩和に関する特別委員会では、細川内閣の規制緩和政策について、参考人の角瀬保雄・法政大学教授(当時)がすでにこんな指摘をしていた。
〈自由放任的な競争論を基礎とした、経済の効率性のみを一面的に強調する政府規制緩和論では、公正な取引と公正な社会の実現は不可能〉〈八〇年代には先進国経済の低迷、財政赤字などから政府の失敗が問題とされ、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権は経済再生の切り札として規制緩和政策を進めてきましたが、いずれも失敗し、経済の再生は絵にかいたもちに終わったことは周知のところであります。規制緩和は決して景気回復、経済活性化の切り札となるものでないことは既に証明済みであります。そればかりではなく、アメリカ、イギリスでは、その結果、貧富の差が増大し、ホームレスが社会問題となっております〉
〈規制があったから不況になったのでないことは余りにも明白(中略)むしろ、適切な規制が欠けていたことが問題とされなければならない〉〈規制緩和をすれば不況克服に役立つというのは、短絡的な考え方〉〈大企業の自由の拡大を図るという、そうした規制緩和になっているように思います。それは、国民の景気回復の要求を規制緩和にすりかえ、国民の消費購買力を高めるというのではなく、逆の方向を示すものになっていると言わざるを得ません〉
菅首相の掲げる時代遅れの「規制改革」などという平成レトロなスローガンを復活させないためにも、この30年近く前の批判をもう一度、突きつけなければならない。(酒井まど)