櫻井ジャーナルが「それでも核兵器を欲しがる人々(1~4)」を26日~28日に渡り連載しました。以下に紹介します。
米国は1941年から原子爆弾の開発を手掛け、1945年7月に完成させると8月6日に広島に、9日に長崎に投下しました。
原爆の開発はソ連が対象でした。9月の段階で米国は、ソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要と推計し、そのため保有すべき原爆数は446発、最低でも123発と算出しましたが、当時はまだそれだけの数を保有していませんでした。
1957年、米軍は300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する計画を作りました。好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定でしたが、ジョン・F・ケネディ大統領は許可しませんでした。
日本に関する部分の概要は次の通りです。
日本では仁科グループが1943年1月に研究をスタートさせましたが、保有するウランの絶対量が少なくて上手く進みませんでした。
戦後になり、岸信介首相は1957年5月に参議院で「たとえ核兵器であっても持ち得ると憲法を解釈している」と答弁、1959年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張しました。佐藤栄作首相は1965年に訪米した際、ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えました。(追記 岸信介の発言はなんとも唐突ですが、同氏は米国から戦犯を免除されCIAのエージェントになっているので、そちらの意向を体したものかも知れません)
1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立されました。1969年2月には日本政府が西独政府に申し入れていた秘密協議が実現し、日本側は、日独両国はアメリカから自立し核武装によって超大国への道を歩もうと主張しましたが、受け入れられませんでした。
東海発電所の原発はGCR型(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で原爆用プルトニウムを製造するのに適しています(米・ソ連もこの型)。動燃の「もんじゅ」と「常陽」も同様に高品質のプルトニウムを製造することができ、そこで生産した兵器級プルトニウムを東海再処理工場付属のリサイクル機器試験施設(RETF)で再処理すれば、30発以上の核兵器を製造できます。
1977年に登場したジミー・カーター大統領は従来の核政策を変更し、高速増殖炉の研究を中止させました。米国の増殖炉研究者たちは日本に注目し、関連する技術(高性能プルトニウムの分離装置など)を格安で日本に売り渡しました。
しかし1995年12月に「もんじゅ」で金属ナトリウムの漏出事故を起こし高速増殖炉が止まると、苦肉の策としてプルサーマル計画が生まれました。
(以上が1/4~3/4の部分からの抜粋です.。4/4では、それ以後小型核兵器が実際の戦場で使われている可能性に触れています。)
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それでも核兵器を欲しがる人びと(1/4)
櫻井ジャーナル 2020.10.26
核兵器開発の始まり
国連で2017年7月に採択され、同年9月に署名された核兵器禁止条約が来年1月に発効する見通しになったようだ。それ自体、悪いことではないだろうが、それで世界から殺戮と破壊がなくなるわけではなく、そうした殺戮と破壊から目を背けていることを誤魔化す「いちじくの葉」としてこの条約を利用する人もいるだろう。
核兵器の開発は1939年8月に出されたアルバート・アインシュタイン名義の勧告書から始まる。その草稿を書いたのはハンガリー出身の物理学者、レオ・シラードとユージン・ポール・ウィグナーだ。
1940年2月にイギリスではバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてMAUD委員会が設立される。その委員会のマーク・オリファントが1941年8月にアメリカでアーネスト・ローレンスと会い、10月にフランクリン・ルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可してイギリスとの共同開発が始まった。
マンハッタン計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、その計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の関係が良くなかったことが知られている。ルーズベルトが初めて大統領に就任した1933年にJPモルガンをはじめとするアメリカの金融資本がファシズム体制の樹立を目論んでクーデターを計画したことはスメドリー・バトラー海兵隊少将が証言している。
そのJPモルガンの創始者はジョン・ピアポント・モルガン。その父親であるジュニアス・モルガンはイギリスでジョージ・ピーボディーと銀行を経営していた。その銀行が苦境に陥ったとき、助けたのがネイサン・ロスチャイルド。ロスチャイルド家はウィンストン・チャーチル、そして父親のランドルフ・チャーチルはロスチャイルド家をスポンサーにしていた。またルーズベルトは反ファシスト、チャーチルは反コミュニストだ。(つづく)
それでも核兵器を欲しがる人びと(2/4)
櫻井ジャーナル 2020.10.27
米英金融資本の対ソ連戦
ドイツ軍は1941年6月、つまりアドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月、ソ連へ向かって進撃を始めた。その際、アドルフ・ヒトラーは軍幹部の意見を無視、ソ連を攻撃するために約300万人を投入している。西部戦線に残されたドイツ軍は約90万人にすぎなかった。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)
西からアメリカ軍やイギリス軍に攻められたなら一溜まりもなかっただろうが、そうしたことはなかった。そして1943年2月にドイツ軍はスターリングラードで降伏、その年の5月にイギリスとアメリカは慌てて協議、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、コミュニスト対策で米英軍はマフィアと手を組む。
スターリングラードでドイツ軍が降伏した段階で第2次世界大戦の帰趨は決したのだが、戦争はしばらく続く。その間にアレン・ダレスやライマン・レムニッツァーはナチスの幹部と善後策を大統領に無断で協議しはじめる。サンライズ作戦だ。
そして1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死、5月にドイツは降伏。その直後にチャーチルはソ連に対する奇襲攻撃を目論み、作成されたのがアンシンカブル作戦。7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだったが、参謀本部がこの計画を拒否したので実行されていない。
1945年7月16日にはアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功した。副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下されたのである。8月15日には天皇の声明、いわゆる「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれるものが日本人に対して発表された。
その声明発表から15日後、レスニー・グルーブス少将に対してローリス・ノースタッド少将はソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。当時、アメリカはこれだけの原発を持っていなかったのだが、その生産能力をトルーマン大統領も知らなかったという。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)
チャーチルは1945年7月26日に辞任するが、46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の開幕を宣言、その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
1951年4月にはニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えているとチャーチルは話したとする文書が存在する。その半年後に彼は首相に返り咲いた。
一方、アメリカでは1957年に軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)
この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったとしている。
こうした好戦的な作戦の前に立ちはだかっていたのがジョン・F・ケネディ大統領。そのケネディは1963年11月22日に暗殺された。好戦派は暗殺の黒幕がソ連、あるいはキューバだという話を流して開戦に持って行こうとしていたが、失敗した。(つづく)
それでも核兵器を欲しがる人びと(3/4)
櫻井ジャーナル 2020.10.27
日本の核兵器開発
日本でも核兵器の研究開発は行われてきた。第2次世界大戦当時、理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究と海軍が京都帝大と検討していたF研究が知られている。
仁科グループは1943年1月に研究をスタートさせ、44年3月には濃縮実験を始めているが、保有するウランの絶対量が少ない。陸軍は福島県石川郡でのウラン採掘を決め、海軍は上海の闇市場で130キログラムの二酸化ウランを手に入れたという。
その一方、ドイツから二酸化フランを運ぶ計画もあった。1945年の始めに1200ポンド(約540キログラム)の二酸化ウランをU234潜水艦で運ぼうとしたが、5月1日にアメリカの軍艦に拿捕され、乗っていた日本軍の士官は自殺、ウラン化合物はオーク・リッジへ運ばれたとされている。
日本の支配層は戦後も核兵器の開発を諦めていない。例えば、岸信介は1957年5月に参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、1959年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張している。
NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、佐藤栄作首相は1965年に訪米した際、リンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」を設立した。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)
NHKの番組によると、この時代、日本政府は西ドイツ政府に秘密協議を申し入れ、1969年2月に実現した。日本側から外務省の国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調査課長だった村田良平が出席した。日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を歩もうと日本側は主張したのだという。
ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、リチャード・ニクソン政権で大統領補佐官を務めたヘンリー・キッシンジャーは日本の核武装に前向きだった。彼はスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)
自衛隊も核武装の研究をしていた。1969年から71年にかけて海上自衛隊幕僚長を務めた内田一臣は、「個人的に」としているが、核兵器の研究をしていたことを告白しているのだ。実際のところ、個人の意思を超えた動きも自衛隊の内部にあったとされている。(毎日新聞、1994年8月2日)
原爆の製造に必要なプルトニウムを製造することになっていた東海発電所の原発はGCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で、原爆用のプルトニウムを生産するには適していると言われている。アメリカやソ連はこの型の原子炉でプルトニウムを生産、原爆を製造している。
兵器クラスのプルトニウムを製造するために重水炉や高速炉も利用できるようだが、その高速炉の開発を目指していたのが動燃だ。「もんじゅ」と「常陽」が核兵器製造システムに組み込まれていると疑われても仕方がないと言える。ちなみに、常陽の燃料を供給していたのが臨界事故を起こしたJCOだった。
日本の動きをアメリカは警戒していると最初に指摘したのはジャーナリストで市民運動にも積極的に取り組んでいた山川暁夫。1978年6月に開かれた「科学技術振興対策特別委員会」で再処理工場の建設について発言、「核兵器への転化の可能性の問題が当然出てまいるわけであります」としている。実際、カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったと言われている。
アメリカの情報機関の内部には日本が核兵器を開発していると信じている人が少なくないようだ。日本が核武装を目指していると信じられている一因はリサイクル機器試験施設(RETF)の建設を計画したことにある。
RETFとはプルトニウムを分離/抽出することを目的とする特殊再処理工場で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。常陽やもんじゅで生産した兵器級プルトニウムをRETFで再処理すれば、30発以上の核兵器を日本は製造できるということだ。
ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、ロナルド・レーガン政権の内部には日本の核兵器開発を後押しする勢力が存在し、東京電力福島第1原子力発電所で炉心が溶融する事故が起こった2011年当時、日本は約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”)
アメリカで核兵器開発で中心的な役割を果たしてきた施設はオーク・リッジ国立研究所やハンフォード・サイト。オーク・リッジ国立研究所の目と鼻の先でCRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画が1972年に始められたのだが、1977年にジミー・カーターが大統領に就任しすると核政策の変更があり、基礎的な研究計画を除いて中止になる。
しかし、ロナルド・レーガン政権になった後の1981年に計画は復活したが、87年に議会はクリンチ・リバーへの予算を打ち切る。そこで高速増殖炉を推進していた勢力が目をつけたのが日本だ。クリンチ・リバー計画の技術を格安の値段で日本の電力会社へ売られることになる。
その結果、毎年何十人もの科学者たちが日本からクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入っている。中でも日本人が最も欲しがった技術はサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関するもので、RETFへ送られた。そうした流れの中、1995年12月に「もんじゅ」で起こったのが冷却剤の金属ナトリウムが漏れ出るという事故。高速炉が動かなくなったため、始められたのがプルサーマル計画だ。
2011年3月8日付のインディペンデント紙によると、都知事だった石原慎太郎が「日本は1年以内に核兵器を開発することができる」と語ったという。その3日後、東電の福島第1原発で炉心が溶融、環境中に大量の放射性物質を放出するという大事故が引き起こされた。(つづく)
それでも核兵器を欲しがる人びと(4/4)
櫻井ジャーナル 2020.10.28
使われる核兵器
2011年3月11日に大事故を引き起こした東電の福島第1原発の警備を担当していたのはイスラエルのマグナBSP。セキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラが原発内に設置していたとエルサレム・ポスト紙やハーレツ紙が伝えている。
そのイスラエルは世界有数の核兵器保有国。核兵器の研究開発はネゲブ砂漠にある原子力研究センターが中心になっている。1986年10月にサンデー・タイムズ紙が掲載したモルデカイ・バヌヌの内部告発によると、イスラエルが保有している核弾頭の数は150から200発。水素爆弾をすでに保有、中性子爆弾の製造も始めていたという。中性子爆弾は実戦で使う準備ができていたとしている。
イスラエルの軍情報機関ERD(対外関係局)に勤務、イツァク・シャミール首相の特別情報顧問を務めた経歴を持つアリ・ベンメナシェによると、1981年に時点でイスラエルがサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上で、水爆の実験にも成功していたという。(Seymour M. Hersh, "The Samson Option", Faber and Faber, 1991)またカーター元米大統領はイスラエルが保有する核兵器の数を150発だとしている。(BBC, May 26, 2008)
今年8月4日にレバノンの首都ベイルートで大きな爆発があり、インターネット上に流れている映像には核爆発を思わせるキノコ雲や衝撃波が映っている。映像のいくつかには飛行物体が写っていて、最初の爆発はイスラエルが発射した対艦ミサイルガブリエル、2度目の爆発はF16が発射した核弾頭を搭載したデリラだとする説もある。爆発の様子やクレーターの存在などから小型核兵器、あるいは核物質を使った新型兵器だとも言われている。
実は、中東で小型核兵器、あるいは核物質を使った新型兵器が使われた疑いのあるケースは今回以外にもある。2006年7月から9月にかけてのレバノン侵攻でイスラエル軍はヒズボラに敗北、その際にイスラエルが誇るメルカバ4戦車も破壊されたが、その直後にウルスター大学のクリストファー・バスビー教授はレバノンへ入り、残されたクレーターを調査、濃縮ウラニウムを見つけている。レバノンやガザを走っていた自動車のフィルターからもそうした物質が発見されたという。バスビー教授は2011年10月にイラクのファルージャでも調査、そこで濃縮ウラニウムが人の髪の毛や土の中から検出されたと語っている。
日本は「唯一の被爆国」なのだろうか?(了)