2020年10月11日日曜日

学者を侮辱する政府の国会答弁は的外れ

  政府は学術会議の新会員候補のうち6名の任命を拒否しましたが、その理由については「総合的、俯瞰的な(活動を確保する)観点から判断した」と述べた以外には何の説明もしていません。学術会議法の改定にあたり、首相が「学術会議が推薦した候補者を任命する」ことが確認されています。従って、敢えて任命を拒否するのであれば、少なくともその理由を明らかにする必要があるし、それが出来ないのであれば任命すべきです。

 日刊ゲンダイの記事によれば、今回降ってわいたように持ち出さされた「総合的、俯瞰的・・・云々」は、147月に科技相の下に設置された「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」が、153月に行った「日本学術会議の今後の展望について」提言のなかで、会員選考について〈自らの専門分野の枠にとらわれない俯瞰的な視点をもって向き合うことのできる人材が望ましい〉と述べていることを引用したものです。
 「そういう人物が望ましい」という限りにおいては異議は出ないと思われますが、その観点から任命しなかったということになれば、日本学術会議法を上回る位置づけを与えたことになります。まず会員が「総合的、俯瞰的視野を持つ」ことが「絶対的条件なのか」という点と、6人について「具体的にどのようにして判断したのか」が問題になります。
 菅首相にまともな回答が出来るとはとても思えません。だから ひたすら逃げ回っているのでしょうが、それでは首相としての責任は果たせません。
 なお提言が〈政府の打ち出す政策について科学的な見地から分析を行い、場合によっては批判的なものも含め、科学的なエビデンスに基づく見解を出していく、という機能は、我が国の科学アカデミーとして重要な役割である〉などと述べていることについて、政府は十分に玩味すべきです。
 任命拒否問題に関する政府側の説明は全く筋が通っていません。恥ずべきことです。
 日刊ゲンダイの記事を紹介します。
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巻頭特集
なんという言い草 “陰湿政府”学者を平然と侮辱の国会答弁
                        日刊ゲンダイ 2020年10月9日
                       (記事集約サイト「阿修羅」より転載)
 日本学術会議が推薦した会員候補6人が任命拒否された問題に対する反発が広がっている。8日は秋雨に濡れながら大学生ら200人が官邸前で抗議集会を開催。「学問に介入するな」「学問独裁許さない」などと書いたプラカードを掲げ、反対の声を上げた。日本ペンクラブも〈発足したばかりの菅政権のほぼ最初の仕事がこのような陰険なものであることに、私たちは暗澹とする〉などとする声明を出し、任命拒否に関する具体的な理由開示と6人の任命を求めた。
 そうした中、衆院に続いて参院内閣委員会の閉会中審査が8日開かれたのだが、またもメチャクチャ。内閣府の三ツ林裕巳副大臣は野党が求める排除理由の説明をかたくなに拒みながら、「日本学術会議が専門領域での業績のみにとらわれない広い視野に立って、総合的・俯瞰的観点から活動を進めていただくことが必要だ」と答弁。これでは任命拒否した6人が「専門領域での業績のみにとらわれ」「狭い視野に立って」いるかのようである。なんという言い草なのか。満天下で学者を罵倒の鉄面皮である。菅首相は内閣記者会のインタビューで「現在の会員が自分の後任を指名することも可能な状況になっている」と既得権益化をにおわせ、「前例踏襲でよいのかを考えてきた」と規制改革の一環であるかのような言いぶりだった。総力を挙げて汚い印象操作を展開しているのである。前代未聞の陰湿悪辣だ。
 政治評論家の本澤二郎氏は言う。
「最も腹が立つのは、学術会議問題の張本人である菅首相が国会から逃げていること。裏を返せば、任命拒否に至る本当の理由が一切言えないから副大臣や官僚を矢面に立たせているのです。安倍政権の下、中立であるべき日銀総裁やNHK会長に息のかかった人物を据えて支配下に置き、『憲法の番人』といわれた内閣法制局も人事で思い通りにし、内閣人事局を通じて霞が関を牛耳ってきた。これに味をしめ、菅首相は教養がないがゆえに教育を軽んじ、学問の自由を侵す暴挙に出たのでしょうが、これは特大のチョンボ。国民全体に関わる問題で、波紋が広がらないわけがありません」

法律を「悪しき前例」のゴマカシ
 学術会議問題をめぐり、繰り返し出てくるのは「総合的・俯瞰的」なる曖昧な言い回し。菅首相は内閣記者会のインタビューで「総合的・俯瞰的活動を確保する観点から、今回の任命について判断した」と言い、加藤官房長官も「総合的・俯瞰的観点」とたびたび口にしている。「耳になじまない表現」と与党からも批判が上がっていたが、その根拠となったのは、2014年7月に山本一太科技相の下に設置された「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」による提言。15年3月に山口俊一科技相に提出された「日本学術会議の今後の展望について」で、会員選考について〈自らの専門分野の枠にとらわれない俯瞰的な視点をもって向き合うことのできる人材が望ましい〉などと意見している。加藤は「提言の趣旨を踏まえて任命した」と強弁し、三ツ林も会員任命時の考慮する要素に挙げていた。
 立正大名誉教授の金子勝氏(憲法)はこう言う。
「日本学術会議法は会員推薦の選考基準について、17条で〈優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする〉と定めている。有識者会議の提言を理由にした基準変更は邪道で、学術会議法を改正するのが正道なのです。もっとも、改正案を国会で審議すれば、学問の自由の侵害をもくろむ菅政権の思惑があからさまになる。だから、安保法制や検察庁法改正案で安倍政権が悪用した解釈変更という姑息なやり方で突破しようというのでしょう。首相が任命権を行使できる根拠について、政府は〈公務員の選定、罷免は国民固有の権利〉と定める憲法15条などを挙げていますが、法律は憲法の規定を前提に施行されている。学術会議法7条2項は〈会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する〉と定めており、憲法15条が無条件で適用されるとは言えません。政府はこの矛盾をどう説明するのか。野党はこういった点をしっかり突くべきで、恣意的な解釈変更を押し通そうとする権力に対し、解釈について追及しても水掛け論に陥ってしまう。そもそも法治主義において、法律に定められていることは悪しき前例でもなんでもない。巧みなすり替えにだまされてはダメです」

錦の御旗「有識者提言」はつまみ食い
 有識者会議の存在で浮き彫りになったのは、安倍・菅コンビは少なくとも6年前から学術会議への人事関与をもくろんでいたという新たな事実だ。官邸の介入が始まったのは16年の補充人事から。同年は官邸の求めで学術会議側が示した候補者案に難色を示され、補充を見送り。会員の半数が交代した17年も官邸の要請で改選数よりも多い候補者名簿を事前提出し、最終的に推薦した105人全員が任命されたが、18年の補充時は再び官邸が難色を示して見送り。そして、今回の改選では候補者案を事前提出しなかったことが任命拒否につながったとみられている。この間、内閣府は18年11月に内閣法制局に照会し、「首相は学術会議の推薦の通りに任命すべき義務があるとまでは言えない」とする見解を文書で作成。今年9月にも口頭で照会し、お墨付きを得ていた。そうして6人を排除し、理由説明を拒む菅政権が錦の御旗のように掲げ始めた提言にいたっては、ご都合主義のつまみ食いである。
 前出の「日本学術会議の今後の展望について」は、「政府との関係」に関してこう意見している。
政府の打ち出す政策について科学的な見地から分析を行い、場合によっては批判的なものも含め、科学的なエビデンスに基づく見解を出していく、という機能は、我が国の科学アカデミーとして重要な役割である
「求められる人材と選出方法」についての意見はこうだ。
会員・連携会員は、自らの専門分野において優れた成果を上げていることに留まらず、様々な課題に対し、自らの専門分野の枠にとらわれない俯瞰的な視点をもって向き合うことのできる人物であることが望ましい
 210人の会員と約2000人の連携会員による推薦をベースにした現行制度を踏まえ、〈会員・連携会員には、日本学術会議の使命や役割を十分に理解した上で、それに相応しい科学者を選ぶことが求められており、その意味では、現在の制度が十分に機能するかどうかは、現会員・連携会員の意識にかかっていると言ってもよい〉とし、執行部等からの意識啓発の働きかけなどが重要だとしている。求める人材像やプロセスを分かりやすく整理し、公開するなどの透明性のある運用も求めている。つまり、学術会議内部の変革を促しているに過ぎず、政府の介入を提言などしていないのだ。

菅政権が振るう物理的、言葉の暴力
 馬脚を現した菅政権の黒い正体と、国会と国民軽視のデタラメ答弁、論点すり替えにマトモな国民は今、戦慄している。
第2次安倍政権以降、独立性が担保されているはずの組織の形骸化が広がっている。このままいくと大企業による寡占に目を光らせる公正取引委員会までもが脅かされ、権力者や富裕層の横暴が許される事態にまで発展するのではないか。菅政権は2つの暴力を振るおうとしています。数の力による物理的な暴力と、言論統制による言葉の暴力です。発足1カ月足らずの政権ですが、典型的なファシズムで、手続きを重視する民主主義のかけらもない」(金子勝氏=前出)
 菅の国家観は「自助、共助、公助」。この政権は直ちに引きずり降ろさないと、やがて年金ももらえなくなり、貧者、弱者は固定化され、それに反対の声すら上げられなくなるだろう。