太平洋戦争末期の20年5月29日に横浜大空襲に遭遇した元中学・高校教諭の石原洋二さん(81)が、26日、横浜吉田中学校でその体験を語り、全校生徒ら400人が聴き入りました。 (志村彰太)
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横浜大空襲 中学生に体験語る 元教諭の石原洋二さん
東京新聞 2015年5月27日
太平洋戦争末期の一九四五年五月二十九日の横浜大空襲に遭遇した元横浜市立中学・高校教諭、石原洋二さん(81)=東京都町田市=の講演会が二十六日、横浜市中区の横浜吉田中学校であり、全校生徒ら四百人が聴き入った。 (志村彰太)
石原さんは、四四年八月から箱根町の旅館に集団疎開していたが、体調を崩し、翌年一月に横浜市中区本牧三之谷の自宅に戻って空襲に遭った。当日は三歳上の兄は勤労動員で、両親は仕事でおらず、家には祖母と叔母と三人だった。
「午前八時半ごろ、けたたましくサイレンが鳴り、すぐに三人で防空壕(ぼうくうごう)に入った」。「ウーッ」という重低音、「ヒューン」という笛のような音、「ザー」とトタン屋根に雨が打ち付けるような音が続き、B29が近くに焼夷(しょうい)弾を落としていると悟った。
外を確認すると、辺りは火の海。熱風が押し寄せ、「このままでは焼け死ぬ」。祖母らに「逃げよう」と言うと、「私はもう死んでもいい。一人で逃げて」と動かない。
「僕を困らせないで」。石原さんの叫びに祖母と叔母が立ち上がり、三渓園まで避難。三渓園では焼夷弾の油をかぶり、「熱い、痛いよ」と泣き叫ぶ女性がいた。兄と合流し、配給をもらいに行った小学校では、「焼け焦げた物体が五十以上並んでいた」。焼死体だと兄に聞かされ、「立ちすくみ、暗い気持ちになった」という。
講演では、逃げるのを諦めた祖母を前にした時の苦悩について「家族が焼け死ぬのを分かってて、自分だけ逃げられますか」と問いかけた。静まり返って耳を傾ける生徒たちから「空襲を思い出すことは」と質問され、「思い出すというより、常に私にくっついている感じ」と、癒えない心の傷になっていることを明かした。
牛乳パックで組み立てた模型で焼夷弾の特徴も解説。戦争の怖さを「究極のいじめ。抵抗する力のない子ども、年寄りを焼け出して、衣食住を奪う。死に至らしめる」とかみ砕いて伝えていた。
石原さん=横浜市中区で