沖縄タイムスは、戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」を9月までの間、実際の経過に即しながら随時掲載しています。
70年が経ちましたが決して忘れてはならない太平洋戦争における沖縄の悲劇です。
本ブログでは、出来るだけフォローして掲載の都度紹介したいと思います。
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[戦後70年 地に刻む沖縄戦] 戦場の琉球語 間諜を警戒し使用禁ず
沖縄タイムス 2015年5月11日
「老幼婦女子」という言葉は沖縄戦を語るときのキーワードの一つである。沖縄戦当時、「老」の年齢に達していた人々にとって、とりわけ、教育者や県庁勤めなどのいわゆるインテリではなく、ウチナーグチしか話さない年老いた庶民にとって、沖縄戦とは何だったのだろうか。
それを知る手がかりは少ないが、作家の故船越義彰さんが興味深いエピソードを残している。
船越さんは10・10空襲で家を焼かれ、本島中部の縁者の世話になっていた。その家に幕末の1863年(文久3)に生まれた老婆がいて、こう語っていたという。
「ヤマトとウランダのイクサだのに、なぜ、ウチナーまで攻めてくるのか」
ウランダとはウチナーグチで欧米のこと。皇民化教育や総力戦体制が学校現場や地域を覆い尽くす一方で、高齢者には、時勢を超越したような旧時代の庶民感情がまだ残っていたのである。
皇紀2600年にあたる1940年、県学務部は標準語励行の一大県民運動を展開する。学校では方言札が出回った。運動の行き過ぎにクレームを付けた日本民芸協会メンバーとの間で方言論争が起こったのもこの時期である。
学校での挨拶を家でもきちんとやるように教えられた子どもが、ある朝、早速それを実行して父親に「お早うございます」と言ったら、「何(ぬう)が、我(わん)ね先生(しんしー)どぅやるい」(何だ、わしは先生なのか)と怒鳴られた、という(米須興文『ピロメラのうた』)。
学校では標準語、家ではウチナーグチという生活が、田舎では普通だった。
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第32軍司令部が創設され、降ってわいたように各地に日本軍部隊が配置されたことは、標準語を話せず国体観念とも縁の薄い高齢者にとっては、大規模な「異文化接触」にほかならなかった。
守備軍の日本兵から見ても、沖縄の文化やウチナーグチとの出会いは異文化接触そのものであった。
だが、軍部は行政や住民に向かって「軍官民共生共死」を説き続ける一方、沖縄住民の国体観念、皇国思想、国家意識が希薄なことを憂慮していた。
軍部の根っこにあったのは、住民不信である。沖縄戦の悲劇はここから派生することになる。
牛島満司令官は44年8月31日付の訓示の中で、「地方官民ヲシテ喜ンデ軍ノ作戦ニ寄与シ進ンデ郷土ヲ防衛スル如ク指導スベシ」と指摘。その上で、各部隊に対し、注意を促している。
「防諜ニ厳に注意スベシ」
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球部隊(第32軍の通称)の命令を伝える45年4月9日付の球軍会報は、さらに一歩進んで具体的な指示を出している。
「爾今(じこん)軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ」 (爾今:以後)
「沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(かんちょう)トミナシテ処分ス」
間諜とはスパイのこと。「処分ス」というのは殺害するという意味である。ウチナーグチで話し合ったらスパイとみなして処分する、と言っているのである。
ウチナーグチはウチナーンチュにとって、普段、当たり前に使う日常語であり、生活語である。軍民混在の戦場でウチナーグチが飛び交うのは避けられないことだ。ウチナーグチしか話せない人が大勢いたのだから。その使用を禁じることは、米軍上陸によって第32軍司令部が異常な緊張状態に置かれていたこと、住民に対する猜疑(さいぎ)心が膨らんでいたことを想像させる。
ウチナーグチは明治以来、政治に翻弄(ほんろう)され続けてきた。「琉球方言」から「琉球語」への最近の呼称の変化も決して政治と無関係ではない。「戦場の琉球語」について掘り下げていけば、沖縄戦当時の庶民意識や軍の住民観がもっと明らかになるだろう。