2015年9月20日日曜日

民主政治の危機についての2人の著名ブロガーの考察

 安保法案の成立強行は、本来は資格のない一人の特異な人間が総理大臣になった場合に国はどうなるかを、極端な形で示しました。
 二つの秀逸なブログがほぼ同じ観点からこの問題について論じています。
 
 植草一秀氏は、「権力者が権力を濫用すれば今回のような事態が発生し得る」ので 「日本国憲法の欠陥ということもできる」。
 「内閣総理大臣が、日本国憲法を正しく理解し、法の規範に従って行動する自制心を持つべきであることは自明であるが、そうした自制心を「もたない人物が、何かの拍子で内閣総理大臣の地位に就いてしまうとき、国は真正の危機を迎える」ことになると述べています。
 
 あいば達也氏も、「なにゆえ、これほど易々と準合法的な“クーデター”が可能なのか、愕然とした」とし、本来「民主主義や資本主義と云うシステムを、従来の意味合いで作動させようと云う人間の共通の意識が必要だ」が、そうした意識を欠落させればいくらでも堕落する。
 これまでは「幸いにも、そう云う恥じらいを感じる行為に走り出す政党も首相も、たまたまいなかっただけ」で、本来的に「民主主義は、永遠に独裁政権を生む運命にある」と述べています。
 
 今後の斗いの道は既に明らかなのですが、それはそれとして、いまの時期に読むと身にしみる話です。
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憲法の破壊!「やられたらやり返す!」だけだ
植草一秀の「知られざる真実」 2015年9月19日
戦争法が制定された。この事態は想定されたものだ。権力者が権力を濫用すれば今回のような事態が発生し得る。これは、日本の統治システム、ひいては、日本国憲法の欠陥ということもできる
日本が憲法で規定している統治システムは、議院内閣制と呼ばれるものだ。
議院内閣制は、米国の大統領制などと比較した場合、「権力を創出する」性格が強いと言われる。米国の大統領制は「権力を抑制する」性格が強いと言われるのと対照的である。「権力を創出する」という意味は、日本の内閣総理大臣に突出した権能が付与されることだ。
主権者国民は選挙を通じて国会議員を選出する。この国会議員が多数決で内閣総理大臣を選出する。内閣総理大臣は内閣を組織し、この内閣が行政権を担う。
国会で支配権を確保するのは、通常は内閣総理大臣を頂点とする与党である。そして、内閣総理大臣は裁判所の人事権を握る。つまり、内閣総理大臣は、その気になれば、行政権、立法権、司法権を一手に掌握してしまう
 
しかし、他方、このような権力の濫用を防ぐための規定も憲法や法律には盛り込まれている。日本国憲法第76条は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定し、裁判官の独立を謳っている。
放送法は、NHKの経営委員の任命について、第31条で、「委員は、公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」と規定している。
内閣総理大臣が、日本国憲法を正しく理解し、法の規範に従って行動する自制心を持つなら、統治の乱れは生じない
 
しかし、内閣総理大臣が日本国憲法および各種法令を正しく理解できず、自制心を失い、暴走すると、統治は崩壊してしまうのである。安倍晋三氏は、憲法も法令も理解できないのだろう。また、立憲主義、法の支配、法の安定性、権力者の自己抑制、などをまったく理解できないのだろう。このような人物が、何かの拍子で内閣総理大臣の地位に就いてしまうとき、国は真正の危機を迎える
そして、いま日本は真正の危機を迎えている。日本国憲法は、集団的自衛権の行使を禁止している。この禁止している集団的自衛権行使を容認する法律を制定してしまったのだ。笑いごとで済まされない。
 
日本の主権者の生命、自由および、幸福を追求する権利が根底から覆される明白な危険が生じることになる。日本は米国が創作する戦争に巻き込まれることになる。そのために、日本はテロの標的になる。
主権者が戦争に駆り出され、命を失うことになるだけでなく、国内においても、主権者がテロの標的とされ、命を失う事態が発生することになる。主権者がこの憲法破壊を望んだのではない。権力が暴走して、この憲法破壊行を実行しているのだ。
 
文字通りの「緊急事態」に移行した。したがって、一刻も早く、主権者が権力を行使して、この危機を打開しなければならない。具体的には安倍暴走政権を倒すことだ。
そして、主権者の意思に沿う政権を樹立することだ。
そのためには、安倍政権の基本政策路線に反対の主権者が団結し、次の衆参両院の国政選挙で、「一選挙区一候補者」の体制を構築して、投票を集中させることが必要である。
Festina Lente! 「ゆっくり急が」ねばならない。
 
 
“偽装合法クーデター” いつでも起きる議院内閣制の罠 
世相を斬る あいば達也 2015年9月20日
昨日のコラムで「“919クーデター政権” 「隷米・軍国主義国ニッポン」誕生!」と云う見出しを書いたのだが、よくよく考えると、民主主義や議院内閣制。それと小選挙区制、政党助成金と云うターボ・チャージャーが付加された国の政治は、実は簡単に「全権委任政治」に変身する事実を、我々は知ってしまった。なにゆえ、これほど易々と準合法的な「クーデター」が可能なのか、愕然とする面もある。筆者は、イデオロギー的には「民主天皇制」と云う理想を持っているのだが、この思想は、次期尚早なのだろうと云うことで、あまり前面には語っていない。ただ、筆者が、「民主天皇制」と云う政治制度を考えるに至った、欧米デモクラシーの大欠点が現実的に現れたわけで、そろそろ、本気で語る時期は近づいているような気にもなっている。
 
まあ、筆者のイデオロギーは追々語るとして、民主主義とか、資本主義と云うものは、人間の「善的な資質」に多くを委ねている面がある。日本語で表現すれば、「徳」と云うことになる。もう少し、具体的に言えば、民主主義に関わることが出来る歴史的経過や訓練である。言い換えれば、民主主義や資本主義と云うシステムを、従来の意味合いで作動させようと云う人間の共通の意識が必要だと云うことだ。このような意識の共有があってこそ、民主主義も、資本主義も、本来の目的に沿う結果を生みだせる。 
 
しかし、物々交換から、貨幣と云う利便なものが生まれ、産業革命(明治維新の産業革命じゃないよW)以降、製造業を中心とする“ヒト、モノ、カネ”の流通がなされた処までで、おそらくオシマイ(制度の臨終又は危篤状態)があったのだろう。しかし、次の新たなシステムを、人類は見つけることが出来ずに、金融資本主義と云う「魔物」へ、ステップアップさせてしまった。この金融資本主義はまさに“打ち出の小槌”のように、マネーがマネーを産み、また産むと云う、麻薬のような資本主義に至った。このことは、1%による、99%の人間の豊かさの剥奪に繋がっているわけだ。マネーと云う“観念的価値”は、生身ではないので、どうなろうと、痛いとも痒いとも言わない。 
 
このマネーに人間が支配される世界が到来することで、企業の実存説も擬制説もヘッタくれもなくなった。企業を誰が支配しているかも、瞬間的には特定可能だが、その誰かは変りうるわけで、住所不定のマネーと云う怪物に、循環的に支配されてしまう。それが、現在そのものだ。最近、英労働党やギリシャで起きている極左なイデオロギーの抬頭、逆にフランスやドイツで起きている極右の抬頭。ピケティの『21世紀の資本主義』など、さまざまな現象として現れている。民主主義も、この資本主義同様の問題点を抱えていたことが、今回の安倍政権のあっという間のクーデターとして、起きてしまったのだ。
 
今回の「“919クーデター政権” 「隷米・軍国主義国ニッポン」誕生!」のような出来事が、軍隊を動員することもなく、詐欺的だが合法の範囲で起きてしまったのか。その部分を、我々は真面目に考えなければならないのだろう。特に、今後も民主主義と資本主義をセットにして、日本と云う国を考えるのであれば、なぜ?こんなの「おかしいだろう、 これ。」の一言しか言えなくなるわけだ。言い得て妙な表現だ。ただ、ここで感想だけ言っているわけにもいかない。“どうしてだ”を考える必要がある。 
 
現時点で、言えることは、国民が選挙の時だけ「政治」を考えていては駄目だと云うことだ。選挙で議員を選ぶ以上に、選んだあとで、フォローをしなければならない。良い意味では、応援し続ける、悪い意味では監視し続ける。民主主義制度が成り立つためには、どうもこれがないと、日本では「政党」の独裁が、簡単に行える仕組みになっていた。つまり、戦後70年以上、どの政党でも、政権を握った場合、今回のアベシンゾウが行ったクーデターは出来たという事実に“慄然”となる。ただ、幸いにも、そう云う恥じらいを感じる行為に走り出す政党も首相も、たまたまいなかっただけで、過去の政権で“クーデターは出来た”と云うことになる。 
 
少々、話は堂々巡りしているが、書き連ねる時間しかないので、賢明な読者の皆様の英知に頼りながら、続けていこう(笑)。つまり、幸運にも、過去の政権は、「いくらなんでも」と云う矜持や徳や経験があったのだろう。たまたま今回は「矜持や徳や経験」のない人間が首相となり、政権を握ったからに過ぎないとも言えるが、こういう人間が連続して出てくる事もあり得るし、もっと凄いのが出てくることもある。だからと言って、憲法69条内閣不信任が、日本国のリコール制度となると、小選挙区制度や政党助成金制度との整合性は、まったく取れていない事を意味している。 
 
ここまで、考えて疲れ果ててしまったの、「だから」と云う問題は、次回に回すが、国民が政権ウォッチを横着していると、権力は何をするか判らないと云う事が、身に染みて理解できたわけだ。戦争に対する拒否反応も、戦後70年以上が過ぎてしまえば、多くの人々は「戦争を知らない人々」に占められる。80歳以上の方々が後20年生きて、何かを語ってくれると期待しては酷だろう。経験が一番の教師ではあるが、他の動物を差別するだけの大脳を与えられた人間なのだから、過去を学び、現在を知り、未来を想像する為に、大脳を有意義に使いたいものだ。うっかりすると、我々の民主主義は、永遠に「独裁政権を生む運命」にあること、嫌になるほど、肝に銘じなければならないようだ。 
 
こうやって考えると、平和ってものを、知らずに手に入れていた戦後70有余年、幸運だったに過ぎないのだ。これから、不幸の連鎖が継続しないように、心新たに、日本の民主主義の危険性を、忘れずにしたいものだが、日々の生活と云う難題に立ち向かいながら、訳のわからん政治にまで気を配らなければならないのであれば、動物農場でもやっている方が良いという人もかなりいるだろう。こういう人たちは、俺は運がいいから、政治で酷い目には遭わないと、思考停止になっているのだと思う。