2020年3月11日水曜日

3・10東京大空襲は米軍の非道な「無差別殺戮」

 75年前の1945年3月10日、深夜に東京は米空軍から猛烈な空爆・空襲を受け、市民10万人が焼き殺されました。負傷者は4万~11万人被災者100万人を超えました。
 空襲は僅か2時間の間に集中して行われました。出来るだけ大量の焼夷弾を積めるように一切の武装を解除したB-29重爆撃機325機が出撃し、38万1300発の焼夷弾1,665トンを投下し、東京の下町を火の海にしました。その夜は東京に強風が吹き火災が広がることを好機と見て決行したのでした。
 焼夷弾で先ず下町を囲む周辺に火災を起こさせた後に中心部に雨あられと降らせたといわれています。その方が効果的に焼死させられるからです
 いうまでもなく都市への無差別空爆は戦争犯罪であり、ハーグ空戦規則(1922年)で禁止されています。しかし米軍は早くから関東大震災(1923年)の検証を行うなどして、木造住宅が密集した都市は火災に弱く、焼夷弾による空襲が最も効果的であることを認識し、アリゾナ州の砂漠に木造日本家屋を作り、焼夷弾投下の実験を繰り返したのでした。

 西洋ではドイツ東部の美都ドレスデン大空爆の方が有名です。それは英米が1945年2月13日から15日にかけて規模爆撃を行ったもので、史上空前の規模でした。
 空爆は4度にわたり、延べ1300機の重爆撃機が参加し合計3900トンの爆弾が投下されまし大量の榴弾爆弾)先ず屋根を吹き飛ばし建物内部の木材をむき出しにしたところに焼夷弾を落として火災を起こし、その後、消火救助をしている人たちを殺戮するためにさらに爆弾を落とすという残虐なものでしたが、死者は18万人(25万人とも)で東京大空襲の犠牲者の1/4以下に留まりました。

 10日、著述家の佐藤 けんいち氏が
   「東京大空襲で10万人の死者、3・10を忘れるな 
       原爆よりも犠牲者が多かった米軍の非道な無差別殺戮』」
と題する硬質な文章を JPpress に載せました。

 その中で「東京大空襲」を知ったのは大学3年生のときだったと述べています。
 そして、日本は沢山の都市で空襲を受け、死者は30万人(東京大空襲を含む)に上り、広島・長崎の原爆の死者21万人余を超えているにもかかわらず、原爆の被災に比べてあまり知られていないのは、公式な記念碑がないからではないかとしています、

 いずれにしても「3・10東京大空襲」は忘れてはならない悲劇です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
東京大空襲で10万人の死者、「3・10」を忘れるな 
原爆よりも犠牲者が多かった米軍の非道な「無差別殺戮」
佐藤 けんいち JPpress  2020/03/10
著述家・経営コンサルタント
 自然災害か人災かにかかわらず、大事件を発生した月日の数字で表すことがある。2001年の米国の同時多発テロ事件「9・11」や、2011年の東日本大震災と原発事故の「3・11」がその代表であろう。
 まもなく、また「3・11」を迎えることになる。東日本大震災と福島原発事故からまもなく9年になるのである。月日がたつのは早いものだ。猛威を振るっている新型コロナウイルス関連の記事や番組があふれている現在どうしても隠れがちだが、福島の復興の状況が気になるところだ。
 だが、本日3月10日にも大量に死者がでた大事件があったことにも注目してほしい。ここでは「3・10」と名付けておくが、「3・11」だけでなく、「3・10」についても考えてほしいと思うのである。いや、この2つの出来事は一緒に考えるべきものかもしれない。日本の弱みや問題点が集約的にあらわれているからだ。

狙われた東京下町、2時間の空襲で死者10万人
 3・10とは、東京大空襲のことである。1945年(昭和20年)3月10日、大東亜戦争末期の帝都東京に対して行われた、米軍の大規模空爆による大被害のことである。夜間の超低空から実行された、焼夷弾による都市攻撃である。攻撃を行ったのはマリアナ基地から発進したB29であった。
 死者はなんと10万人超、負傷者は4万~11万人、被災者全体で100万人超となった。しかも空襲が行われたのは、3月10日の午前0時8分から、空襲警報が解除された午前2時37分までの約2時間たらずのことだった。まったくの深夜のことであった。
 空襲が集中したのは東京の下町である。山の手ではない。米軍は、最初から意図的に東京下町の住宅密集地帯を狙って実行したのである。
 焼夷弾は破壊を目的としていないので爆発はしないが、充填されているナパームなどの焼夷剤が燃焼して攻撃対象を焼き払うことを目的としている。木造建築が圧倒的であった当時の民家に焼夷弾が被弾すると、一気に火が拡がって投下された地帯が焼け野原になってしまったのである。
 逃げ遅れて焼け焦げになって転がる死体、逃げた先の河川で山のように積み重なった死体。大空襲後の東京下町がどんな状態であったかは、自身が12歳の時に大空襲を体験した被災者であり、大空襲の語り部である作家・早乙女勝元氏の編著による『写真版 東京大空襲の記録』(新潮文庫、1987)をみてほしい。あまりにも悲惨な光景に、目を背けたくなるのではないだろうか。モノクロ写真だから耐えられるが、これがカラーだったらどうだろうか。直接体験した人たちにとってトラウマとなったであろうことは、容易に想像できる。

 東京に対する空襲は130回に及んでいるが、そのうち9割の被害が3月10日の大空襲に集中している。しかも、わすか2時間の空襲で死者10万人の大被害となったのである。
 その理由について、上掲書で早乙女氏は4つ指摘している。第1に、下町が住宅密集地帯であっただけでなく、多数の河川や水路があることが避難の妨げになったのである。橋が焼かれてしまうと移動できなくなるのだ。
 第2に当日の気象状況の影響があるという。風速7.9~12.7メートルの強風が、火災の被害を大きくしたのである。強風にあおられた大火災が火炎旋風となって町を焼き尽くしたのだ。関東大震災や阪神大震災とおなじような状況となっていたのである。
 第3に住民の防空観念として、逃げずに消火しなくてはいけないという意識があったことが指摘されている。しかも、当時の「防空法」第8条には、自宅から無断で退去することも避難することも禁止されていたのである。違反すると1年以下の懲役または罰金刑が規定されていた。恐るべきことではないか。
 そして第4に防衛当局のミスにより、空襲警報が発令されたのは空襲開始の午前0時8分から7分遅れた0時15分だった。この7分差が多くの人の生死を分けた決定的な時間となった。被災地の生存者で、空襲警報発令を記憶している人は、ほとんど皆無だったという。
 さらに問題なのは、なぜ空襲警報発令をためらったかというと、B29の襲来が真夜中のことであり、防空当局は軍を守ることしか念頭になく、真夜中に天皇陛下を防空壕に避難させることを避けたかったからだという参謀の証言もあるそうだ。
 国民がまったく視野になかったという点に関しては、敗戦による満洲崩壊時の棄民状態とまったく同じである。この期に及んでも、国民の生命を犠牲にしながら戦争を止めようとしなかったのだ。

原爆に匹敵する空襲の被害
 広島や長崎の原爆投下については、日本国内だけでなく国際的に注目されている。昨年2019年11月には、ローマ教皇フランシスコ1世が訪問したばかりだ(参考:「いよいよローマ教皇来日、フランシスコはどんな人?」)。だが、東京大空襲は、そのほか地方都市に対して行われた空襲も含めて、日本国内でもあまり取り上げられることはない。東京大空襲だけについても、被災地となった下町と、おなじ東京であっても山の手では認識に大きな違いがあるようだ。
 5年前のことになるが、英国のThe Economist誌の記事で知った事実は、その意味ではショッキングなものがあった。それは "Japan and the past: Undigested history" (2015年3月7日)という記事だ(日本語タイトル:「日本とその消化されざる過去の歴史」)。
 先にも名前を出した早乙女勝元氏のインタビューから書き起こされたこの記事によれば、東京以外の地方都市の被害も含めると、大東亜戦争での日本の犠牲者は空襲による死者だけで30万人を超える。さらに広島の原爆投下で14万人、長崎の原爆投下で74万人が犠牲者となっている。記事に掲載された図表(下記参照)をみると、日本の被った空爆の被害が、群を抜いて異常なまでに大きなものであったことがわかる。

 いまだに非人道的であったと反発の声があがるのが、米英連合軍によってドイツに対して実行された「ドレスデン大爆撃」(1945年2月13~15日)である。だが、それですら死者は18万人なのである。「バトル・オブ・ブリテン」(1940年9月~1941年5月)におけるドイツ空軍による数回にわたるロンドン空爆と同規模である。ロンドン空爆による民間人の死者は約2万人だ。
 東京大空襲は、ドレスデン大爆撃の5倍以上の死者を出しているのだ! にもかかわらず、東京大空襲が日本国内では大きな話題になることはなく、そのための公式の慰霊碑すらないという事実に The Economist誌は注意を喚起している。この事実は日本人としては重く受け止める必要があるのではないか。
 しかも、東京大空襲を含めた空襲による日本人の被害は総計30万人であり、広島と長崎の原爆被害のそれぞれより多いだけでなく、広島と長崎をあわせた原爆死者(約214万人)よりも多いのだ。
 もちろん、原子爆弾と焼夷弾とでは被害の性格が異なる。原爆の場合は被爆による後遺症のため、戦後しばらくたってからも亡くなる方も少なくないという大きな違いもある。だが、空襲による犠牲者の圧倒的多数が非戦闘員のシビリアン、すなわち民間人であったことに変わりはない。戦闘員と非戦闘員の区別なく犠牲となったという点において「無差別殺戮」であったといって過言ではない。この事実をしっかりと認識することが重要だ。この認識があってはじめて、現在なおシリアなどで続いている空爆の非人道性を認識することができるのである。

国民のことを考えていた軍人もいた
 バトル・オブ・ブリテンのロンドン空爆から学んだ教訓が、日本の防空に一部なりとも活かされた事実があったことを記しておくべきだろう。
 軍を守ることが防空の中心だったと記したが、例外があったのだ。それは「学童疎開」である。日本の将来を担う若者たちを空襲被害から守るため、学童を都会から地方に疎開させたことは、戦後復興期の日本にとっては不幸中の幸いであった。
 学童疎開の計画立案と実行にあたったのは、辰巳栄一陸軍中将である。新憲法策定にも関与した民間経済人の白洲次郎とともに、吉田茂にとって懐刀であった「影の参謀」だ。『歴史に消えた参謀-吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(湯浅博、産経新聞出版、2011)でその生涯をたどることができる。
 辰巳中将は、駐在武官としてロンドンに3回滞在している異例のキャリアの持ち主であった。3度目のロンドン駐在で体験した「バトル・オブ・ブリテン」の経験が、日英開戦にともなう交換船で1942年7月に日本帰国後、東部軍参謀長として本土空襲防衛と学童疎開を推進する役割を演じることになったのであった。先見の明の持ち主であったといえよう。陸軍にもこんな人物がいたことは、記憶しておかねばならない。

非情なまでに組織的かつ徹底的だった米国
 攻撃される側から見た「空襲」は、攻撃する側から見たら「空爆」となる。空爆した米国側から見た「東京大空襲」について考えてみることも必要だろう。
 米国は、組織的かつ徹底的に空爆を計画し、実行したのである。この事実を抑えておく必要がある。日本の戦意をくじくため、民間人に対する違法な爆撃作戦を遂行したのである。原爆だけではなく、空爆においても徹底的に研究を行っていた。
 効果的かつ効率的な成果をあげるために採用したのが焼夷弾であった。これは当時の日本家屋の特性を踏まえたものである。民間人の一般住宅は、火がつけば、あっという間に炎上してしまう木造平屋建てが大半を占めていたのである。東京下町の住宅密集地帯を狙ったのは意図的で、米軍はそのためのシミュレーションと訓練を念入りに行っていた
 焼夷弾攻撃の実験が行われたのは、アリゾナ州の砂漠にある米軍の実験場においてであった。木造で燃えやすい日本家屋の実物大の模型を作製し、焼夷弾実験を繰り返して、詳細なデータを収集し解析を行っていたという。その成果を踏まえて実行されたのがB29による東京空襲作戦なのである。ちなみに原爆実験が行われていたのはニューメキシコ州である。
 そしてその日本家屋の模型建設にかかわっていたのが、戦前と戦後の日本で洋風建築普及に大きな貢献をしたアントニン・レーモンドという、チェコ出身で米国に帰化した建築家であった。
 帝国ホテルを設計した建築家フランク・ロイド・ライトの弟子として初来日したレーモンドは、米国の軍籍をもつインテリジェンス・エージェントでもあったのだ。この事実は、『ワシントン・ハイツ-GHQが東京に刻んだ戦後-』(秋尾沙戸子、新潮文庫、2011)で明らかにされている。
 米国は総力をあげて戦争に取り組んでいたのである。モノ・カネといった物量だけが日本に勝っていたのではない。ヒトもまた総動員されて徹底的に活用され、もてる知力の限りを尽くして戦争遂行に貢献していたのである。ベトナム戦争を指導したマクナマラ国防長官は、第2次世界大戦では陸軍航空部隊の統計管理局に所属し、戦略爆撃を効果的かつ効率的に行うための解析作業を行い、B29の大量投入を実現させている。
 非情なまでに組織的かつ徹底的な米国に対して、やることなすことすべてが場当たり的な日本。第2次世界大戦で顕在化したこの対比は、現在またふたたび繰り返されている。中国の武漢で発生した新型コロナウイルスの対応にも、まったくおなじ構図を見いだしてしまうのは、私だけではないと思う。
 敗戦国に生まれた日本人として、私もまた米国に対しては複雑な感情を抱く者であるが、有事の際に顕在化する日米の大きな違いについては、ため息をつきながらも認めざるを得ないのである。

3・10について知らなかった大学生
 3・10については、意外と知られていないのが実情だろう。何を隠そう、いまこのコラムを書いている私も、恥ずかしながら大学3年生になるまで知らなかったのだ。現在の大学生を無知だといって、責める気にはならないのである。
 個人的な回想を語らせていただくことにしよう。いまからもう35年前のことになる。当時は体育会合気道部で主将を務めていたのだが、昇段試験も兼ねた春合宿でのことだ。夕食の席で、合気道九段の師範先生から話題が振られたのである。「きょうは3月10日だが、何の日か知っているか?」、と。
 私は答えられなかった。単純に知らなかったからだ。東京大空襲については、なんとなくは知っていた。小学校5年生の始めまで東京都にいたので、担任の先生(女性)から、東京大空襲についていろいろ話は聞いていた。担任の先生は子ども時代に空襲を体験している世代だったので、防空壕などの話はリアリティがあった。だが、それが頭の中で3月10日という具体的な日付とは結びついていなかったのだ。
 ついでに書いておけば、私の父親は神戸生まれの神戸育ちであり、神戸大空襲を体験している世代なので、空襲の話は子ども時代に何度も聞かされてきた。隣の家に焼夷弾が落ちて全焼、その残り火でコメを炊いたこともあるという、妙にシュールなエピソードを聞いたこともある。電気炊飯器などなかった時代の話である。
 神戸の空襲に関しては、神戸出身の著名人が回想をもとにした小説を執筆していることで、比較的よく知られていると思う。野坂昭如の短編小説『火垂るの墓』はジブリでアニメ映画化されているし、妹尾河童の自伝小説『少年H』は、私の父親の同世代の神戸人のあいだでは大評判になっていたようだ。
 東京や神戸だけでなく、日本各地の地方都市の空襲については、直接体験した人から話を聞く機会はもうないかもしれない。だが、文学作品や映像作品などをつうじて、ぜひ追体験してほしいと思う。

語り伝えが不可能なら学校で教えるべき
 東京大空襲は1945年3月10日のことであり、すでに75年もたっている。いくら「人生100年時代」といっても、実際に100歳まで生きる人はそう多くはない。空襲にまつわる話を、体験した人から直接聞くような機会は、もうなくなってしまうのだろう。
 とはいっても、教育現場で取り上げられることも、あまりないようだ。日本の歴史教育では現代史が軽視されているからだ。歴史の授業が時間切れで現代に入る前に終わってしまうことは、多くの人が経験していることだろう。
 現代史に関しては、政治上の左右対立が激しくて、冷静な立場での歴史記述が難しいという状況もある。歴史的事実は事実としても、解釈が異なると、まるで違う歴史となってしまうためだ。拙著『ビジネスパーソンのための近現代史』(ディスカヴァー・トエンティワン、2017)を執筆する際に苦労したのはその点だ。バランスのとれた記述は難しい課題である。

 参考のために、比較対象としてドイツを中心とした欧州の歴史教育について記しておこう。長年にわたってドイツで日本語学校の校長を務めてきた岡裕人氏の著書『忘却に抵抗するドイツ-歴史教育から「記憶の文化」へ』(大月書店、2012)によれば、日本と違ってドイツでは、歴史教育の現場では現代史のウェイトがきわめて大きいようだ。
 背景には1990年代以降の欧州では、「記憶の文化」がメインストリームとなっていることがある。「記憶」が歴史をつくり、「記憶」はつねに更新され、活性化されねばならないという姿勢である。個人をベースにした欧州社会ならではの智恵なのかもしれない。語り部が消えていく時代には、ドイツなど欧州を参考にして、学校の授業で積極的に教えるべきだろう。
 東京大空襲に関しては、少なくとも当事者である東京都がもっとチカラをいれて取り組むべきだろう。そのためには、先に紹介したThe Economist誌が指摘しているように、記憶を形にした公式の慰霊碑など、なんらかの形のモニュメントが必要ではないか。広島も長崎も原爆ドームや原爆資料館があるからこそ、世界中から訪問者が絶えないのである。
「記憶」は文字として固定化されることによって「記録」となる。そしてまた建造物や博物館の展示もまた、「記憶」を想起するための「記録」となる。こうした取り組みが必要不可欠なのは、記憶はきわめて曖昧であり、容易に変容されやすく、また捏造されやすいからだ。