2020年3月2日月曜日

改めて問う 首相の大ウソ/権力は「無罪」なのか

「安倍首相は顔も見たくないし声も聞きたくない。TVに出ると直ぐにチャンネルを変える」という声を至る所で聞く一方で、何が何でも彼を支持し応援するという岩盤支持者も30%ほどいるのは本当に不思議なことです。一体いつ大ウソツキを免罪するという文化? が日本の社会に生まれたのでしょうか。
 かつてベネディクトは、日本を「恥の文化(恥をかくことを最大の汚辱とする文化)」と敬意をもって喝破しましたが、いまやその文化は消失しました。

 著名な書き手が交代で登場する日刊ゲンダイのリレーコラムに、吉田潮氏(コラムニスト)が「桜を汚した彼の功罪…顔見るのも名前言うのも嫌」とする一編を載せました。
 東京五輪招致で世界中に「福島原発からの汚水はコントロール下にある」と大ウソを吐いたことに始まり、その後も「出るわ出るわ、口利きにもみ消し、嘘と隠蔽が雨後のタケノコ状態。法律や憲法の勝手な解釈変更などありえないし、国民の血税を自己顕示欲丸出しの宴に使うなど言語道断。顔を見るのも、名前を書くのも嫌」と書いています。

 そもそもウソは合理化することが出来ません。合理化しようとすればウソにウソを重ねることになります。そうなれば果てしがありません。
「モリカケ」問題がそうでした。首相のウソを合理化するために日本の官僚組織は虚偽と隠蔽と捏造のそれに変わりました。桜問題では、日本の超一流ホテルをやはり「虚偽と隠蔽」の世界に巻き込みました。
 そして黒川問題では、人事院と法務省を虚偽文書、虚偽見解の製造所に変えました。内閣法制局はとっくにそうなっています。

 ウソ吐きは結局「嘘の中で生きる羽目になる」。
 チェコの大統領だったハベルは「権力はみずからの嘘に囚われており、そのため、すべてを偽造しなければならない」と述べたということです。
 それはいうまでもなく独裁政治での話なのですが、一応民主主義の筈の日本で何故それが起きているのでしょうか。

 東京新聞が印象的な社説:「週のはじめに考える 権力は『無罪』なのか」を載せました。併せて紹介します。
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怯むなANAホテル!ウソと詭弁を終わらせろ
桜を汚した彼の功罪…顔見るのも名前言うのも嫌
吉田潮 日刊ゲンダイ 2020/03/01
コラムニスト
 過去、数名の虚言癖に遭遇してきた。虚言癖には2種類いる。賢くて話題と語彙が豊富、案外魅力的なサイコパス系と、吐く嘘が下手すぎて残念だが、逆に笑いを提供してくれるエンターテイナー系だ。いずれにしろ嘘つきに違いないが、近寄らなければ、害はない。
 ところが、このどちらでもない、賢くもなく笑えない嘘つきが今、日本の総理大臣だ。深刻な害である。
 正直、第1次政権のときの記憶はほとんどない。「いろいろな部位が弱くて可哀想な人」の印象。気の毒な人、としか覚えていない。
 違和感を覚えたのは、2013年の五輪招致のスピーチだ。当時、福島の原発事故は収束どころではなく、汚染水は日々量産状態。収束作業に尽力された吉田昌郎氏も亡くなった。福島第1原発付近の住民は故郷を失い、帰る希望すら抱けず。
 何ひとつ進まぬ状況なのに、スピーチで「シチュエーション イズ アンダーコントロール」と大嘘こいたのだ。耳を疑った。この人、世界中に向けて堂々と、とうとうと嘘をついている! 違和感は一瞬で不信感に。
 その後も出るわ出るわ、口利きにもみ消し、嘘と隠蔽が雨後のタケノコ状態。法律や憲法の勝手な解釈変更などありえないし、国民の血税を自己顕示欲丸出しの宴に使うなど言語道断。顔を見るのも、名前を書くのも嫌。
 不信感はすっかり嫌悪感に。
 2月17日、久々に国会中継を見た。ホテル側の回答の文面も提出し、理路整然と質問する辻元清美衆院議員に対して、薄ら笑いで詭弁を繰り返す。話が通じないのではなく、日本語が通じない。もうね、拒否感しかない。

 日本中の誰もが春の訪れを告げる花として愛でてきた「桜」を、稚拙な承認欲求で汚した彼の罪は重い。


社説 週のはじめに考える 権力は「無罪」なのか
東京新聞 2020年3月1日
 「権力はみずからの嘘(うそ)に囚(とら)われており、そのため、すべてを偽造しなければならない
 はっとします。東欧・チェコの大統領だったハベルの言葉です。「ビロード革命」と呼ばれる、社会主義体制から民主化への転換で中心となった人物です。チェコ文学者の阿部賢一東京大准教授がNHK番組「100分de名著『力なき者たちの力』」で紹介しました。文章はこう続きます。
 <過去を偽造し、未来を偽造する。統計資料を偽造する。(中略)人権を尊重していると偽る。誰も迫害していないと偽る。何も恐れていないと偽る。何も偽っていないと偽る。(中略)それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる

◆嘘の中で生きる羽目に
 一党独裁体制を続けていた当時の権力の姿です。経済は停滞し、言論抑圧の中で国民には無気力、無関心が蔓延(まんえん)したそうです。ハベル自身、弾圧を受け、投獄された経験もあります。
「権力はアプリオリ(先天的)に無罪である」という言葉もハベルにあります。一九八四年執筆の「政治と良心」に出ています。権力は何をしても罪に問われない-旧東欧の悲劇的な状態を指すのと同時に権力の一般論でもあるでしょう。不条理劇の劇作家でもあったハベルは鋭く権力の核心を言い当てていました。
 「嘘の中で生きる羽目になる」とは、日本の政治状況とそっくりです。東京高検検事長の定年延長問題は典型例です。検察官の定年は検察庁法が適用されるのに、国家公務員法の勤務延長の規定を用いる無理筋です。
 人事院が八一年に「検察官には国家公務員法の定年規定は適用されない」と答弁していたことが判明すると首相は唐突に「解釈を変更することにした」と。人事院は「八一年解釈は続いている」と答弁していたため、「言い間違え」と苦し紛れの状態になりました。

◆学者は「違法」と指摘
 法相も解釈変更の証明に追われます。日付などがない文書を国会に提出したり、揚げ句の果てに「口頭決裁だった」とは。国民には政権が嘘を重ねているように映っています。
 それでも「解釈変更だ」路線で突っ切るつもりでしょう。首相が「権力は先天的に無罪である」ように振る舞っているためです。
 ハベルの言葉はベルリンの壁崩壊前です。全体主義的な体制下では、権力がすべてを抑えて、自らの不届きをただす存在を許しません。嘘をつこうが罪に問われません。権力は永久にその不正をとがめられることはないのです。

 しかし、三権分立が確立した社会では、行政府の長といえど司法のチェックは受けます。検事長人事の問題は司法分野に関係します。検察は公訴を提起できる準司法機関だからです。権力が都合のいい人事でいずれ検事総長にしたら…。政治から独立した検察組織が崩れ、巨悪は立件されないでしょう。闇から闇です。
 新憲法と同じ四七年に施行された検察庁法が厳格に定年を定めたのは理由があります。「検事の権限が強大になり過ぎないか」と懸念し、検察官の身分保障を弱める意図がありました。当時の臨時法制調査会の記録にあります。
 憲法学者らでつくる「立憲デモクラシーの会」では、法学的な問題点を突きました。
 (1)一般法と特別法の間に齟齬(そご)・抵触があるときは特別法が優越する。つまり国家公務員法は一般法で検察庁法は特別法だから、定年延長はできない。
 (2)検察官の人事ルールは国政上の最重要事項の一つで、国会の審議・決定を経ずに単なる閣議決定で決められない。
 (3)定年延長には「十分な理由」が必要なうえ、人事院規則は認められる場合を限定列挙している。今回の検事長のケースはどれにも当てはまらない。

 結論は「ときの政権の都合で法解釈を自由に変更しては、『法の支配』が根底から揺るがされる」「今回の閣議決定は人事院規則、国家公務員法に違反している疑いが濃い」-学者らの指摘を政権は重く受け止めるべきです。

◆多数派は万能でない
 確かに民主主義は最終的には多数派の意見がものごとを決める仕組みです。その一方で、立憲主義とは多数派でも覆せない原理を憲法に書き込み、権力を縛っています。例えば基本的人権や国民主権を多数派が奪おうとしても、奪うことができないように…。
 つまり民主的な手続きで選ばれた権力であっても、何でもできるわけではありません。万能でありえません。かつ法は何ができて何ができないか、自明でなければ意味をなしません。
 「できないこと」を一内閣の一存で「できる」に転換はできません。それを許せば「権力は無罪」どころか「有罪」になります。