1956年5月1日に熊本県水俣市で公式発見された水俣病は、有明海などの魚介類を摂取することで引き起こされた大規模な「有機水銀」中毒症でした。
原因が有機水銀(排出元はチッソ水俣工場)であることを熊本大学が1959年に突き止めましたが、当時政府が組織した委員会はそれを認めず、チッソはその後も約9年間、有機水銀を含む工場排水を有明海に流し続けました。
厚生省がようやく有機水銀が原因であると認めたのは1968年で、それまで何も知らなかった住民は水銀で汚染された魚介類を摂取し続けたため、水俣病患者は膨大な数に達しました。
当時日本は重化学工業の発展段階にあり、チッソが製造するアセトアルデヒドは塩ビの可塑剤として極めて重要な物質であったため、政府はチッソを操業停止にしたくなかったのであり、重化学工業を発展させるために住民を犠牲にしたといえるのでした。
政府はその後も、複数の症状を示さなければ水俣病とは認められないとする「認定条件の改悪」を行って、患者と認定されることを妨害しました。しかし司法では一つの症状であっても認定するという動きなどもあり、政府は2014年3月に感覚障害だけでも認定可能としました。ところが同時に水銀摂取と症状の因果関係の立証に客観的な資料を求めるとしたため、半世紀以上も前に有機水銀の摂取したことを証明することは当然困難で、実質的には殆ど改善に当たらないものでした。
政府の「救済」策から漏れた「水俣病被害者互助会」の8人がチッソと国を相手取って起こした訴訟の二審で、福岡高裁は「史上最悪」といわれる判決を出しました。
熊本日日新聞と西日本新聞の記事を紹介します。
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水俣病互助会訴訟 救済漏れ黙認する判決だ
熊本日日新聞 2020年3月14日
県に水俣病の認定申請をして認められなかった「水俣病被害者互助会」の8人が、原因企業チッソと国・県を相手取って損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、福岡高裁は原告全員の請求を棄却した。一審の熊本地裁判決は3人を水俣病と認めていたが、二審は原告側の全面的な敗訴となった。原告は上告する方針だ。
8人は水俣病が公式確認された1956年前後に不知火海沿岸で出生。メチル水銀に汚染された魚介類を幼少期に食べたり、胎児期に母体を通じて取り込んだりしたとして、熊本県や鹿児島県に認定申請した。しかし認められず、司法の場に救済を求めていた。
判決によると、福岡高裁は原告が水俣病かどうかを判断するにあたり2013年4月の最高裁判決を踏襲。患者ごとに魚介類を食べた状況と症状などとの関係を「総合的に検討」すべきだとの立場をとった。
8人にはメチル水銀の摂取状況が分かる「頭髪水銀値」の測定結果などが残されていなかった。このため居住歴、日常の食生活、家族の罹患[りかん]状況などを基に、高濃度の水銀汚染を受けたかを考慮。それに起因した手足の感覚障害などの症状があるかを判断した。うち6人には家族に認定患者がいないことなどから、多くのメチル水銀を摂取したとは言えないとした。一審で水俣病とされた原告の1人については、出生時のへその緒の水銀値が高く、父母らも水俣病と認定されているが、感覚障害との因果関係を認めなかった。
判決は水銀摂取の有無を判定するにあたり、家族の認定状況などのほか、頭髪水銀値などを重視している。だが、原告らを含む多くの被害者にそうしたデータが残っていないのは、行政がやるべき調査をしなかったせいだ。そのことで被害者が不利になるとすれば、あまりに酷で、これまでの水俣病訴訟の判例からも大きく外れた判断ではないか。水俣病事件の歴史的経過をきちんと踏まえた判決とは思えない。
水俣病認定を巡っては、1970年代以降に何度も裁判で争われ、救済範囲が狭すぎることが指摘されてきた。13年の判決を含め、最高裁も2度にわたり、行政から認定されなかった患者を水俣病とすることを妥当としている。
にもかかわらず、国は認定基準を改めることなく、かたくなに現行制度の運用を続けてきた。
その結果として生まれた何万人という未認定患者に対し、1995年に政府解決策、2009年に特別措置法による救済策がなされたが、その線引きから外れた人たちによる裁判も全国5カ所(新潟水俣病含む)で続いている。
認定制度と救済策の二段階にわたる救済漏れが黙認され続ける限り、今後も紛争が続くのは間違いない。さらに言えば、救済の遅れを招いたのは被害の全容解明の調査が行われていないせいでもある。国・県とチッソはその責任を改めて自覚し、一刻も早く救済漏れを解消するべきだ。
「人と思えぬ」まさかの全員敗訴 水俣病賠償訴訟、福岡高裁
西日本新聞 2020/3/14
典型症状切り捨て「何が水俣病か」
まさかの「全員棄却」に、誰もが言葉を失った。13日の福岡高裁判決は、一審熊本地裁が患者と認めた佐藤英樹原告団長(65)ら3人も含め、全員を「水俣病ではない」と切り捨てた。幼少期から原告たちを悩ませた感覚障害などは水俣病の典型症状とされてきた。「私たちが水俣病でないなら、何が水俣病か-」。提訴から12年超。「史上最悪」の判決に、原告たちは「この12年がまばたきするうちに消えた」と憤り、そして涙を落とした。
「水俣病のいろんな症状は幼少からあったと訴えてきたのに」。全員勝訴を期して臨んだ判決の後、佐藤さんは、うつむいた。
漁師だった祖母と両親は認定患者。祖父も劇症型水俣病とみられる症状で亡くなった。幼少期から毎日のように、取れたての魚介類が食卓に並んだ。振り返れば幼少期から、こむら返りなどに苦しんできた。
しかし判決は、佐藤さんの高濃度のメチル水銀摂取は認める一方、感覚障害は「アルコール性ニューロパチー(長期のアルコール常用者にみられる感覚運動障害型の末梢(まっしょう)神経障害)の可能性がある」などと指摘、総合的に検討し「水俣病と認めるには足りない」と結論付けた。
へその緒のメチル水銀値も示していた佐藤さん。「子どものころから酒を飲んでいたというのか。本当に総合的に判断した結果なのか」。国の意向を忖度(そんたく)したかのような内容に不信感を募らせた。
一審では水俣病訴訟史上で過去最高の賠償額1億500万円を認められていた原告の大堂進さん(60)は体調不良が続き、法廷に足を運ぶこともできなかった。一審に続き棄却された西純代さん(67)は涙ぐみ「こんな不当な判決、大堂さんに伝えられない」と思いやった。
佐藤さんと同様に「感覚障害があるとしても複数の他の疾患の可能性がある」とされた緒方博文さん(63)は「人が出したとは思えない判決。私たちが水俣病でないと言うなら、どんな人が水俣病か示してほしい」と訴えた。公式確認から64年。車椅子で判決を聞いた倉本ユキ海さん(65)は「だから水俣病は64年たっても解決しないんだ」。懸命に言葉を絞り出した。
闘いは最高裁に移る。「みんなが認められないと笑えない」。地域が、住民たちが味わってきた苦しみから目を背けさせないために。原告たちは全員勝訴を諦めない。(吉田真紀)
【解説】認定基準明確にせず 水銀の摂取者にも「他の疾患可能性」
西日本新聞 2020/3/14
胎児、幼児期にメチル水銀の汚染被害を受けたとする原告8人全員の請求を退けた13日の福岡高裁判決は、どのような症状が水俣病かという基準を明確に示さず、原告らが訴える症状を「他の疾患による可能性がある」として切り捨てた。行政による厳格な認定基準を前に、司法に望みを託した未認定患者にとっての救済の道を閉ざしかねない判断といえる。
水俣病を巡っては、国が1977年に感覚障害や運動失調など複数症状を認定患者の要件とする厳しい基準を提示。患者と認められなかった多くの人が裁判を起こし、司法は国の判断基準よりも幅広く被害を認めてきた経緯がある。
未認定患者らが国と熊本県に賠償を求めた関西訴訟の最高裁判決(2004年)や、熊本県の女性=故人=が県に患者認定を求めた訴訟の最高裁判決(13年)は、感覚障害だけでも水俣病と認める判断を続けた。司法は柔軟な姿勢を示し、国の厳格な基準に疑問を投げかけた。
国は14年3月、感覚障害だけでも認定可能とした一方、水銀摂取と症状の因果関係の立証に客観的な資料を求める新指針を関係自治体に通知した。
この通知の直後にあった一審熊本地裁判決(同月)は、国の新指針に沿ったかのような判断を示す。同居家族の認定患者の有無を大きな判断材料に、3人は患者認定したものの、5人については請求を棄却した。
控訴審で原告側は、漁業に依存していた当時の食生活や不知火海の広範囲が汚染された歴史など、水俣病の実態についての立証にも力を入れた。典型症状である感覚障害について、裁判官の理解を得やすくするため検査結果を客観化。阪南中央病院(大阪)の医師2人は、重りを使って感覚の程度を数値化し、検査によるばらつきを補った。
しかし、高裁判決は医師の診断結果を採用せず、「かえって評価を誤りかねない」とまで指摘。高濃度の水銀摂取を認めた原告でさえも、他の疾患の可能性を理由に請求を退けた。
「今までの裁判で積み上げてきたものを無にする、とても許せない判決。都合のいい国の証拠だけを採用しているとしか思えない」。原告側の康由美弁護士は痛烈に批判した。
高裁判決は、患者認定や補償対象を広げつつあった司法の流れにブレーキをかけた。司法は患者認定が難しい「第2世代」の被害実態を改めて直視し、幅広い救済へと導くべきだ。(村田直隆、鶴善行)