2020年12月12日土曜日

『逃げる政権 迫る野党 臨時国会40日』(5)(しんぶん赤旗)

  しんぶん赤旗の連載記事『逃げる政権 迫る野党 臨時国会40日』の(5)「軍事研究動員の歴史を告発」を紹介します。

 併せて、8日のしんぶん赤旗「文化・学問」欄に、荻野富士夫・小樽商科大学名誉教授による「学問の自由と思想統制の歴史 ~ 」とする論文が載りましたので紹介します。
 記事は1933年の京都大学・滝川教授事件に始まって、1935年の美濃部達吉天皇機関事件1939年の河合栄治郎東大教授・休職処分事件を経て、そのころから大学も軍国主義に組み込まれ、特に理学・工学・医学系の軍事研究と研究体制の軍事的再編が進めらていく様子を語っています。学生も例外ではなく、日米開戦の日(1941年12月8日)に北大生の宮沢弘幸氏が軍機保護法違反で逮捕され、無実の罪で終戦まで牢獄に繋がれました。
 紙数の関係で記事はそこで終わっています。
 宮沢・レーン事件は、特定秘密保護法の制定時に被害を受けた国民の例としてクローズアプされました。概要については下記をご覧ください
            ⇒13.12.3)宮沢・レーン事件
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逃げる政権 迫る野党 臨時国会40日(5)
   軍事研究動員の歴史を告発
                       しんぶん赤旗 2020年12月11日
「憲法23条が保障する『学問の自由』を守れ」。菅義偉首相による日本学術会議の会員候補6人の任命拒否は、学術界だけでなく、宗教、文化芸術分野など幅広い団体の抗議・抵抗を呼ぴました。日本共産党と野党は、広がる抗議の声と連帯し「任命拒否は国民全体の問題だ」と一貫して追及してきました。
科学者が戦争に総動員され、侵略戦争への破滅へと国民を導いた。憲法に明記された学問の自由の保障は、歴史の反省の上に刻まれたもの」。10月29日の衆院本会議で、日本共産党の志位和夫委員長が訴えました。
「学問の自由」が侵害され、政治のしもべとされたことが過去の侵略戦争につながった-。党議員団は論戦を通じ、その歴史とともに「任命拒否が歴史に逆行する暴挙」だと明らかにしてきました。
 志位氏は11月4日の衆院予算委員会で、戦前、学術会議の前身の「学術研究会議」に「国民総武装兵器」などの特別委員会が設置された経緯を指摘しました。独立性を奪われた科学者が「音響兵器」や「磁気兵器」といった本土決戦用の兵器開発など、戦争遂行のための軍事研究に動員された実態を告発。「このような歴史は二度と繰り返してはならない」と菅首相に迫りました。
 藤野保史議員は衆院法務委(13日)で、戦前の言論弾圧事件である「滝川事件」をとりあげました。①政府の政策に批判的な研究者であった ②戦争に反対する研究者であった ③法制局が法解釈で政府の行為を正当化している  ことが今回の任命拒否と酷似していると追及。滝川事件以降、天奎制政府による学術分野への介入が続き、会までも萎縮させていったことを明らかにしました。
 こうしたなか、会期末には高校生、学生も「自由にものが言えない社会にするわけにはいかない」と国会前で声をあげました。抗議・憂慮の声明は1000を超す学協会や幅広い団体へと「空前の規模」で広がり続けています
「なぜこれだけの規模で短期間に抗議の声が広がったと思いますか」。田村智子政策委員長は幅広い団体に広がる抗議の声明を示し、「日本が民主主義の国だからこそ、理由も分からず権力から排除されることに恐ろしさを感じるのは当然だ」と追及しました(11月25日、参院予算委員会)。しかし菅首相は「人事に関することで答えは差し控える」と国民の声に背を向け津続けました。
 12月4日の党議員団総会のあいさつで志位氏は、「違憲・違法な任命拒否を撤回する。これが唯解決策です」と述べました。「ことはわが国の人権と民った絶対にあいまいにすることができない問題だ」と強調。国民共同のたたかいを広げに広げることを呼ぴかけました。  (つづく)


【文化・学問】
学問の自由と思想統制の歴史 行きいた先は一学生の冤罪逮捕
                        しんぶん赤旗 2020年12月8日
    荻野富士夫 おぎの・ふじお 
     1953年生まれ。小樽商科大学名誉教授『戦前文部省の治安機能 「思想
     統制」から「教学錬成」へ』『特高警察』『日本憲兵史』ほか

 共産主義運動の取り締まりが頂点に達し、138人の教員が「赤化教員」として検挙された長野県教員赤化事件や小林多喜二虐殺などに象徴される1933年は、滝川事件が引き起こされたことにより、学問・研究の自由とかかわる思想統制においても大きな圃期となった。

共産主義弾圧にとどまらぬ排撃
 講演や講義の内容により京都帝大教授の滝川剌辰の刑法学説はマルクス主義につながる、あるいは許容するとみなされた。思想学説を理由とする帝国大学教授の処分には、当時であても高いハードルがあったが、政府は文官高等分限委員会に諮問した。異例のことであり、2時間をかけて審議をしたうえで全員一致で休職処分に付し、滝川は京大を追われた。
 委員の一人である和仁貞吉大審院長(現在の最高裁長官)は、「たとえ研究の独立と云うても、我国家と相容れざるにおいては許容できぬ。それは所謂研究自由中に入らぬ」と発言した。
 つづく思想統制の段階を引き上げたのは、1935年の美濃部達吉の天皇機関事件である。滝川事件の場合には、自由主義思想をマルクス主義の温床とみなしつつも、まだ正面からそれをやり玉にあげることはできず、「赤化」思想と強引に言いくるめての弾圧であったが、この機関事件では「根本思想において民主主義的傾向を有し、国体の本義を尊重せざる」ことが攻撃された。
 しかも、美濃部の貴族院辞職でもおさまらず、各大学の憲法講座からは機関説が一掃された。全国の高校長や専門学校長らを対象に憲法講習会が開かれ、天皇を絶対的な存在とする「国体明徴」の徹底が図られた。また、帝国大学や官立大学には「国体学」や「日本学」の講座が設置されていていく。
 思想統制が完成に近づくのは1939年の河合栄治郎事件である。東京帝大経済学部教授
の河合は、1930年代前半には文部省の学生思想問題調査委員会の委員としてマルクス主義と対峙する第一人者であったが、著書が発売禁止になって出版法違反が間われるとともに、その個人主義・自由主義の思想傾向が問題視れた。文官高等分限委員会の審議は35分ほどでおわり、国家思想を否認し、国体観念に背反するとして休職処分に付された。
 こうした思想統制の強化の」末に、1940年9月の教育審議会の答申「高等教育に関する件』では、大学の目的達成のために「国体の本義を体して真摯なる学風を振作し、学術を通して皇運を無窮に扶翼し奉るの信念を鞏固(きょうこ)ならしむること」があげられた。これを受けて、12月、文部省は「大学教授は国体の本義に則り、教学一体の精神に徹」するよう訓令した。

「学者も剣とれ軍事研究を推進
 1943年になると、文部省の大学高校の学術面の評価は、「真の皇国世界観に立脚せる真摯なるものを見るに至る」と満足すべきものとなった
 その高い評価の内実は、とぐに系の場合に顕著だった。工学・医学系の北海道帝国大学を例にとれば1939年ころから軍事研究と研究体制の軍事的再編が急がれ雪の結晶の研究で知ちれる中谷宇吉郎は海軍の研究費を得て「航空機への着氷防除に関する研究」を進めていた。裕総長は、1941年、アジア太平洋戦争の開戦にあたっ「国家の危急存亡の場合には学者と雖(いえど)も剣執って起たねばならぬ」と訓示する。
 12月8日、その開戦の朝、北大では宮沢・レーン事件が引き起こされた。北大の英語教師レーン夫妻とへ教え子工学部生・宮沢弘幸が軍機保護法違反で逮捕されたのである。活動的で旅行好きの宮沢が各地の軍事上の施設に多く触れたことが、軍機保護法の網の目とちえられる結果となった。宮沢の両親らが北大に働きかけても、総長らが非常に冷たい対応であったということは、国家・戦争と緊密に結びついた大学のありようと無関係とは思えない。思想統制の行きついた先にあったのは学生の冤罪逮捕であった