菅首相の日本学術会議会員任命拒否事件は、戦前の京都大学の「滝川事件」を想起させるものです。学問の自由が謳われている現在の憲法下ではあり得ないことで、菅首相が如何に暗い狙いを持っているかを示すものです。
しんぶん赤旗の「焦点・論点」コーナーに、京都大学名誉教授・岡田畑弘さんのインタビュー記事が載りました。
岡田さんは、創立100年を迎えた経済学部百年史の編纂に携わった人で、戦前の京都大学経済学部で3・15弾圧事件に関連して起きた経済学者河上肇教授への辞職勧告事件(1928年)や、その後法学部で起きた滝川事件(1933年)への経済学部教授会の対応の不十分さ、それに対中侵略や日米戦争に向けての戦争協力などについて語られています。
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焦点・論点
学術会議会員の任命拒否と学問の自由
京都大学名誉教授 岡田畑弘さん
しんぶん赤旗 2020年12月2日
大学自治と学問の自由奪われた 戦前・戦中の悲惨な体験忘れぬ
京都大学名誉教授の岡田知弘さんは昨年、創立100年を迎えた経済学部百年史の編さん作業に携わりました。「大学の自治と学問の自由が奪われていった戦前戦中の歴史を繰り返してはいけない」と、菅義偉首相による日本学術会議会員の任命拒否を批判します。
思いを聞きました。 (隅田 哲)
-戦前の京大で学問の自由が侵害される事件がたびたび起きています。経済学部はどんな状況だったのですか。
京大の経済学教育と研究は1900年に、前身の京都帝国大学法科大学に講座が設置された時から始まります。当時は大学の自治と学問の自由をめぐって政府の強い干渉がありました。文部省は「天皇が教官を任命する」として、大学の人事や学問内容にたぴたぴ口出しをしてきました。
1913年、澤柳政太郎京大総長が独断で7人の教授を免職しようとする事件が起きます。これに対して、法科大学の教授全員が辞表を書き、文部大臣と交渉するなど行動した結果、澤柳総長は更迭されました。そして教授会による教授任免権と総長任免権を実質的に獲得し、大学の自治を認めさせていきます。
京大経済学部は1919年に創立され、大正デモクラシーの中で研究と教育を充実させていきますが、暗転の時代を迎えまず。
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1928年3月15日、共産党関係者を治安維持法で大弾圧する事件が起きました。検挙された人の中に、京大をはじめ各大学で自主的につくられた社会科学研究会の会員がいました。このことから文部省は学生の処分や左派教授の辞職を迫ります。京大ではマルクス経済学者の河上肇教授が荒木寅三郎総長から辞職勧告を受けます。理由は、河上が指導教授になっていた社研から治安を乱す会員が出たなどとするものです。しかし指導教授になるよう依頼したのは荒木総長で、いかなる責任も持たせないと言っていたのです。説得性に欠ける勧告理由に河上は反発します。
ところが河上を守るはずの経済学部教授会は、荒木総長の辞職勧告を容認する決議をしてしまったのです。教授会の自治を第一に考えていた河上は、教授会の決議を知らされ、辞職を決意します。
政府・文部省の介入はこれにとどまらず、大学への思想統制を一気に強めます。その圧力に抗しきれず経済学部教授会は、輸入禁止・発売禁止図書の貸し出し禁止を決めました。
そして5年後の1933年に起きたのが滝川事件です。自由主義的な立場で学説を述ぺていた法学部の滝川幸辰(ゆきとき)教授の著書『刑法読本』に不穏当なところがあるとして、文部省が総長を通して休職を発令しました。法学部教授会は強く抗議して一同辞表を出します。
このとき経済学部教授会は、法学部に連帯することもなく、声明すら出しませんでした。
“是非を判断できない″“研究の自由、大学の自治は法律の限度内で認められる″と傍観したのです。
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-日本は1930年代、中国への侵略を始めます。戦争の中で経済学部はどうなっていったのですか。
大学の自治と学問の自由を自ら放棄した経済学部は、戦時体制が強まる中で戦争協力をしていきます。「支那経済慣行調査部」をつくり、外務省や海軍省からも研究費をもらって調査研究をするなど国策に協力しました。現在、防衛省が研究資金を出す「安全保障技術研究推進制度」の問題と重なります。
戦争は大学の学問の自由や自治を圧殺しただけではありません。多くの若い学生のかけがえのない命や未来を奪いました。戦争に積極的に協力した京大経済学部からは、多くの学生が戦場に行きました。経済学部の戦役者は少なくとも卒業生で75人、在学生で兵役に服した66人です。全学部の犠牲者の中で経済学部は、卒業生では33%、在学生は25%も占めます。特攻隊だけでなく戦病死も多い。戦没地はフィリピンやビルマなどの激戦地、沖縄戦、原爆が投下された広島です。
1946年1月に河上が亡くなった際、当時の学部長の蜷川虎三をはじめ経済学部教授は総辞職します。河上事件以後、学部が失ったものが大きかったという深刻な反省があったからです。戦争に協力した教授も追放され、民主化が行われました。学部の最高意思決定機関は、教授だけでなく助教授や講師も加わる「教官協議会」になります。職員や学生の自治組織もつくられます。
戦後、憲法に「学問の自由」が明記され、大学の自治が確立し、学術会議が発足した背景には、戦中の悲惨な体験があります。菅義偉首相が学術会議会員の任命を拒否した6人は、人文・社会科学の研究者です。安倍前政権がすすめた安保法制や「共謀罪」法に反対していました。政権にとって都合の悪い研究者だからという理由なら、戦前と同じです。学問の自由を侵害して批判を封じ、為政者による独裁体制を敷く民主主義の破壊であり、絶対に許してはなりません。
学問の自由は基本的人権に関わります。思想・信条や表現の自由と一体です。研究者だけでなく映画人や文学者、宗教者が抗議の声を上げるのは当然です。菅政権が任命拒否を撤回しないのなら、こんな危険な政権は退場してもらいたい。その声を多数派にし、国民が、総選挙で“倍返し″するしかありません。
おかだ・ともひろ 1954年生まれ。2019年3月まで京都大学経済学研究科教
授。現在、京都橘大学教授。専門は地域経済学。日本学術会議連携会員(08~15
年)として東日本大震災復興支援の提言づくりなどに携わる。
「湯の町湯沢平和の輪」は、2004年6月10日に井上 ひさし氏、梅原 猛氏、大江 健三郎氏ら9人からの「『九条の会』アピール」を受けて組織された、新潟県南魚沼郡湯沢町版の「九条の会」です。