2021年8月28日土曜日

ひなた在宅クリニックの報告動画の弁証法 ~ (世に倦む日々)

 8月23日以前にTVで、往診ドクターの田代和馬氏が登場するなた在宅クリニックの往診活動」をご覧になった方は沢山おられると思いますが、24日以降はピタリと放送されなくなりました。

 先ずあのように大々的に放送された後にピタリと止んだのは、共に政府による差配であるというのが「世に倦む日々」氏の見解です。
 はじめに政府が大々的に放送させた意図は、「原則自宅療養」の政策が散々な不評を浴びたのに対し、「ひなたのような在宅の医療機関の活動で、訪問ドクターがサポートするから入院できなくても自宅で安心ですよ」と国民を騙して信じ込ませる政治的宣伝(プロパガンダ)と、とはいえ並行して十分に感知される自宅療養に伴う悲惨さによって、国民に「こうなりたくなかったら自分で感染を防げという「自己責任」のメッセージを出すというものであったとして、次に放映中止の措置を取ったのは、主人公の田代和馬氏がまともな感性と理性を持った医者だったため動画のなかに小池知事批判や政府批判の呟きが含まれていたことで、逆に政府の意図に反して「棄民政策に対する国民の抗議を誘発するものに転化」したため、慌てた菅氏が放送を中止させ田代和馬氏をTVから排除するためでした。
 極めて明快な分析で、そう指摘されると誰しもが納得できます。
 ブログ:「世に倦む日々」を紹介します。
 なおこのブログは2部作で、その1作目は25日付の下記です(クリックすれば開きます)。
  ⇒ ひなた在宅クリニックが往診した55歳の男性はなぜ入院できなかったのか
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ひなた在宅クリニックの報告動画の弁証法 – むせび泣く憲法25条
                          世に倦む日々 2021-08-27
予想したとおり、24日以降、ひなた在宅クリニックの往診活動はテレビで報道されなくなった。おそらく、今後一度も紹介されることはないだろう。菅義偉の差配による。25日夜に菅義偉が言ったところの「自宅療養者への体制作り」の意味は、田代和馬をテレビ画面から抹殺するという意味だ。ひなた在宅クリニックが提示した映像は、先週(8/16-21)のテレビのコロナ報道で最も注目を集めた主役だった。同じ動画が素材としてNHKで使われ、テレ朝(報ステとモーニングショー)で使われ、TBS(報道特集)で横並びで使われていた。刻々を撮影したのはテレビ局のクルーではなくクリニックのスタッフだろう(ただ、カメラがプロフェッショナルで、若干謎が残る)。テレビ各局が横一列で田代和馬の映像を放送したのには理由がある。簡単に言えば国策だ。大本営報道であり、内閣府コロナ対策推進室がマスコミに手配し、意図的目的的に国民に視聴させたものだ。そうでなければ、民間人の記録動画を、横一列で一斉に、あれほど丁寧に注力して、キー局が報道番組に活用する進行はあり得ない。その目的は二つある。 

一つは、自宅療養になってもこんな感じで訪問ドクターが診療してくれますよ、大丈夫ですから安心して下さいねという、政府・保健行政当局からのメッセージの発信だ。慰撫工作である。7月下旬以降、デルタ株の猛威によって感染爆発が進む中、自宅療養者と入院調整待機を合わせた数が、東京だけで1万、2万と激増し、感染した者はほぼ全て(上級を例外に)自宅療養措置となった。菅義偉が、分科会に諮らず「中等症も原則自宅療養」を決めて発表したのは、8月2日のことだ。この「原則自宅療養」の政策決定に合わせて、政府が押し出したのが、ひなたのような在宅の医療機関の活動で、訪問ドクターがサポートするから入院できなくても自宅で安心ですよと、そう国民を騙して信じ込ませるプロパガンダがテレビを使って精力的に始まった。増える自宅療養のコロナ患者への対応は、玉川徹などがずっと訴えている「野戦病院」の設置が正しく、患者も医師・看護師も治療薬も設備も集中して効率的に当たるのが感染症対策として妥当な方法だ。が、菅義偉はその対策を採りたくなかった。

感染して重症化した者は自宅で死んでもらうという、自己責任論が菅義偉の政策思想の神髄であるため、「野戦病院」で多くの命を救うという公共主義的な社会政策は忌み嫌うのだ。そのため、訪問ドクターの対応を積極表象化して前面に出し、自宅療養者へのケアはこれで万全であるかのような共同幻想の演出と訴求に努めた。そこで、訪問ドクターが活躍する絵を見せようとして、東京都福祉保健局を通じて、田代和馬の動画撮影を支援し、それの登用と推進を図ったのだろうと想像する。 二つ目の目的は、田代和馬の動画を災害アラートとして使うということで、自宅療養になったらこんな悲惨な目に遭うぞ、地獄の苦痛と悶絶だぞと知らしめようとしたのだろう。こうなりたくなかったら自分で感染を防げというメッセージの通告であり、恐怖を刷り込む材料として散布したのだ。政府や専門家がいくら口先で警戒を唱えても、現在は全く効果が上がらず、東京の繁華街の人出が減らないため、テレビ報道で分かりやすい「恐い絵」を撒いて視聴者を戦慄させ、世間大衆の危機感を高め、行動変容を促そうと図ったものと推察される。

だから、ひなた在宅クリニックの映像は何度も繰り返し使われた。局を超えて同じ動画がオンエアされた。国民への教育効果を狙う国家(マスコミ機関を含む統治機構)の意図が透けて見えた。そこに政府当局の思惑と手筈があることは明白だった。だが、そこから一つの誤算というか、政府にとって計算違いの脱線があり、動画報告の制作者である田代和馬が常識人で、まともな感性と理性を持った医者だったため、動画の中に、小池百合子批判や政府批判の呟きが含まれていたのである。それは全く素直な感想で、普通の国民の感じ方と同じく、すなわち、行政の無責任や政治家の無神経を咎める一言だったが、オンエアされれば、政府や都の無策無能を責める国民の声の代弁になる。専門家による異議と暴露になる。庶民は棄民されてこんな酷い目に遭っているというプロテスト⇒抗議に転化し、告発の証拠になる。実際、動画の意味はそのように変わった。政府を批判する国民の武器に変わった。内閣府コロナ対策推進室と、菅義偉の直の子分であるテレビ局報道部長の意図を超えて。動画の性格がかく転換したため、慌てて菅義偉は放送を中止し、田代和馬をテレビから排除した

田代和馬は、全部で20人もの中等症患者を担当していて、そのうち、報ステに出た55歳の男性のように凄絶に落命する例があったり、TBS報道特集に出た80歳の男性のように見捨てられて死ぬ例があるのだろう。東京都のコロナの死亡者は1日に10人ほどである。果たして、あの55歳の男性は、東京都の8月22日のコロナ死亡者の中に含まれているのだろうか。糖尿病との合併症だったため、コロナ死亡者の数をなるべく低く抑えたい都の姑息な操作によって、別の死因に計上されている可能性はないだろうか。想像しなければならないことは、しかし、毎日10人がコロナで死に、重症病床がその分空き、空いたベッドに誰かが入っているという事実だ。誰かが人工呼吸器やエクモにありつけて、救命治療の幸運を得ている現実がある。その判断と選択の部分は見えない。インビジブル・ハンド⇒見えない手である。大きな病院の院長が絡み、保健所長が関与し、都保健福祉局の課長や局長が介在し、場合によっては都知事が口利きしているのだろうが、運良く救われた患者のケースは紹介されない。われわれに見せられるのは、病床を断られた庶民のケースである。カネ(資産)とコネ(人脈)のない者の運命だ。

その見える不幸な弱者の部分を、ひなた在宅クリニックの田代和馬が担当している。田代和馬が電話する先は、大きな3次救急病院の担当医だったり、区の保健所の課長だったりする。それは全部断られる。100件電話して全て拒絶される。3次救急病院の主任医は、院長と相談しているのだろう。運び込まないと合併症で死にます、まだ55歳ですと。だが、院長には特別な別件の懇請も入っているのだ。上の方から。カネとコネの方面から。そして、命の選別がされるのだ。病院の経営にとって、どちらがプラスでマイナスかの観点と基準で。その部分は見えない。誰が救われたかは見えない。誰が救われなかったかは見せられる。粗末で質素なアパートに住む者が、自分と同じ生活臭のする庶民が、トリアージでアバンドン⇒放棄のフラグが立つ。私は、今回の田代和馬の報告動画は、今年のジャーナリズム大賞を取るべきだと思う。感動させられた。何かを思い出した。そうだ。15年前のNHKの『ワーキングプア』である。まともだった頃のNHKの渾身の快作。同じ感動を覚えた。突きつけられたのは、25条の問題である。田代和馬は、コロナ自宅療養の実態をありのまま伝えようとしただけだが、期せずして25条の壮絶なジャーナリズムになった。

むせび泣く憲法25条。嗚咽と哀愁の25条。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。25条のドラマとレポートというのは、いつの時代も不変で、どこまでも人の心を打つものだと思う。そこには命の尊厳というテーマがある。人間の平等という価値がある。涙を流しながら、人はその理想の地平を見る。理想と足下との距離を測って噛みしめる。