2021年10月6日水曜日

06- 就任会見で『新自由主義からの転換』に言及しなかった岸田氏(世に倦む日々)

 世に倦む日々氏が「総理就任会見で『新自由主義からの転換』を言わなかった岸田文雄」という記事を出しました。

 4日夜、首相に就任した岸田氏は「新しい資本主義」を連発しましたが、1か月前にはあれほど強調していた「新自由主義政策からの転換」は一言も発しませんでした。いまや地方の農業者や商店主は新自由主義に辟易としており、地方経済を疲弊させ衰退させただけで、何も恩恵をもたさな新自由主義からの離脱と転換は、保守層であっても広く揺るぎない要求になっているのにです。
「新自由主義からの転換」本気で実践しようとすれば、それは安倍麻生の否定であり、経団連と米国資本を正面から敵に回す行為なので「新自由主義からの転換」など着手できるわけがなく、岸田政権の本質が安倍・麻生の傀儡である以上、変節は必然と言える世に倦む日々氏は酷評しています。
 岸田氏はかつて「森友・加計の疑惑はクリアにする」と口にしたものの、安倍氏が激怒するとすぐに引っ込めました。その時と同じように、この件でも何の覚悟も持たずに口にしたことが明らかになりました。
 世に倦む日々氏は、岸田氏が「新しい資本主義」には車の両輪の一つとして「分配戦略」があると言い、労働者や中小下請け企業への分配機能を強化すると述べたのは注目してよく、少しはその意欲と構想があるのかしばらく様子を眺めたいとしています。そして分配を語るときに重要なのは原資であり、それは466兆円の内部留保のことであるが、果たして、日本でどこまでこのタブーの世界に切り込んで行けるのか、私には全く期待が持てないとも
 (これ以降は岸田氏の問題から離れ)世に倦む日々氏は、本気で格差を是正し解消したいのなら、経済学の方法で分析・解剖しなくてはいけないが、現在の日本の学者のなかそれをする者がいない(知らないという意味ではなく)、炊き出しに並ぶ労働者が産み出した価値が、資本会計の回路で内部留保に化けている事実を誰も指摘せず、内部留保が格差の本質であり元凶である事実を学者が言わなければ、食糧受給者の行列と内部留保は因果関係で結ばれないと述べています。
 ブログ「世に倦む日々」を紹介します。
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総理就任会見で『新自由主義からの転換』を言わなかった岸田文雄
                          世に倦む日日 2021-10-05
4日夜、首相に就任した岸田文雄が最初の会見で、キャッチフレーズである「新しい資本主義」を連発していた。この言葉は、岸田文雄が総裁選に立候補表明して政策を打ち出した9月8日にも発されていて、標語として大きく掲げられていた。ただ、少し変化した点に気づく。1か月前は「新しい日本型資本主義」と言い、日本が新自由主義化する以前の宏池会・経世会時代のマイルドなシステムを連想させる表現を選んでいた。今回、「日本型」の語が削除されてしまい、「新しい資本主義」のイメージに不安が宿る効果となっている。もう一点は、1か月前にはあれほど大上段に強調していたところの「新自由主義政策からの転換」キーメッセージが、就任会見では一言も発せられなかった点である。「新自由主義からの転換」は宣言されなかった。政策姿勢としてコミットされなかった。多くの国民はそれを期待していたに違いないが、新自由主義批判の言辞は表明されなかった。封印もしくは撤回となった。1か月の間に変わったのだ。安倍晋三と麻生太郎から「やめとけ」と指示されて従ったか、最初からフェイクのポーズだったかのどちらかである。

総裁選の政策発表は、全国の党員党友に向けてのアピールであり、彼らから票をもらうことが目的である。特に、石破茂への支持が根強い地方の党員党友を切り崩す狙いを持っていて、だから、過去の宏池会・保守本流のマイルドな表象を訴求したのだろう。自民党員であっても、地方の農業者や商店主は新自由主義に辟易としている。小泉竹中の「改革」路線とアベノミクスに倦み疲れている。それは地方経済を疲弊させ衰退させただけだけで、何も恩恵をもたさなかった。新自由主義からの離脱と転換は、保守層であっても広く揺るぎない要求なのだ。なので、それを公約にして支持を集めた。が、立場変わって総理会見となると、それを言明したら本当にその指針で政策実行しなければいけなくなる。アベノミクスの三本目の矢の「成長戦略」として遂行された数々の政策を清算する必要に迫られる。アベノミクスの「成長戦略」は、屡々説明の中で「構造改革」とも等値されていて、資本を成長・増殖させるための経済政策の羅列と実行だった。主導し推進したのは安倍晋三と麻生太郎であり、法律と制度と予算にしたのは今井尚哉である。

「新自由主義からの転換」は、本気で実践しようとすれば、それは安倍晋三と麻生太郎の否定であり、経団連と米国資本を正面から敵に回す行為に他ならない。安倍晋三と麻生太郎のおかげで総裁ポストを射止め、二人に忖度し尽くす奴僕として生きるしかない岸田文雄が、「新自由主義からの転換」など着手できるわけがなく、それを総理会見で前面に出せるわけがないのだ。新政権の本質が安倍・麻生直系の傀儡である以上、変節は必然と言える。そのことを前提とした上でだが、岸田文雄は選挙目当てで何やら国民に甘い期待を持たせる情報を撒いている。すなわち、「新しい資本主義」には車の両輪の一つとして「分配戦略」があると言い、労働者や中小下請け企業への分配機能を強化すると言っている。この点は目新しさを感じさせるポイントであり、注目してよく、総選挙までの討論で焦点の一つとなるはずで、少しは意欲と構想があるのか、票を釣る口先だけなのか、しばらく様子を眺めたい。分配の課題はバイデン政権でも浮上していて、その余波が日本にも及んで来た感がある。ネオリベの本場であるアメリカが、新自由主義からの転換を模索する局面に入った

分配を語るときに重要なのは原資である。果たして、日本でどこまで原資の問題に触れ、タブーの世界に切り込んで行けるのか、私には全く期待が持てない。悲観的だ。分配するべき原資があること、宝の山が蓄積されていること、膨大な富の山が秘匿され隠蔽され、その実相を知る情報へのアクセスが遮断されていること、このことが明らかにされなくてはいけない。原資(財源)が確認されれば、その存在と規模と実態が科学的に明らかになれば、分配への経路は簡単に切り開かれるはずだ。原資とは、直截に言えば、内部留保のことである。2020年度、金融保険業を除いて466兆円が計上されている。コロナ禍の経済低迷にもかかわらず前年比7.1兆円増額していて、日本経済の逞しさ(日本労働者の勤労ぶり)を証明している。常日頃から思い、言い続けていることだが、日本人は格差格差と嘆くくせに、内部留保について真面目に研究しない。内部留保の実態を明らかにしない。日本人の格差批判は感情論に終始しており、あるいは左翼や行政のルーティンワークと既得権益を維持する枕詞の如き定番言説になっていて、経済学の分析の対象にならない。

本気で格差を是正し解消したいのなら、経済学の方法で分析・解剖しなくてはいけない。だが、日本でそれをする者がいない。日本で格差問題は社会学の問題になっていて、社会学のリベラル左翼学者が「困ったものです」と同情するフリをし、眉を顰める演技で「政府は対策を」と平板な台詞を吐いて終わりだ。毎度毎度その繰り返しで、湯浅誠系が立ち上げた「食品配給機構」や「食事配給機構」に篤志のボランティアが参加してサービスを回し、マスコミが無表情に撮って流している。矛盾があるようなないような、行政(NPO)が絆創膏でカバーしているような、そんな情景をセンチメントに演出している。炊き出しに並ぶ労働者が産み出した価値が、資本会計の回路で 内部留保に化けている事実を誰も指摘しない。労働者が働いて作り出した富が、労働者の手元に還元されず、労働者の生活と人生を豊かにする糧とならず、資本の繁栄を誇示する巨塊になっている。マルクスが意味づけた特別剰余価値として内部留保が説明されない。内部留保が格差の本質であり元凶である事実を誰も言わない。学者がそれを言わないから、食糧受給者の行列と内部留保は因果関係で結ばれない。

私はそのことを、ずっと不思議に思ってきた。なぜマルクスの経済学の言葉で説明しないのだろうと。きわめて明解に、正確に、論理的に、マルクスの剰余価値論の範式(G’=G+ΔG)で問題が了解されるのに、なぜそれをマスコミで解説・啓蒙しないのだろうと。金子勝も言わない。内田樹も言わない。浜矩子も言わない。金子勝は、世間一般ではマルクス経済学者と紹介されているけれど、私はその経歴を信用しない。本当に資本論を読んで理論を習得したのか怪しんでさえいる。マルクス的な視角や概念が、議論に - 聞く者に教育的に - ほとんど登場しない。内田樹は、マルクスを広告する有能な営業マンだが、資本論を過去の思想書として重視し評価するだけで、現実経済の構造と運動を解明する生きた理論として使わない。マルクスの方法をエコノミクスとして応用する知性と能力を持っていない。マルクスの宣伝口上を並べながら、自著を販促しているだけだ。浜矩子などは論外で、今ごろ資本論を英語で読み始めたらしい。この3人だけでなく、松尾匡や斎藤幸平にしても、文章の展開や議論の態度に全くマルクスの学問のエッセンスが感じられない。そのことが不思議だ。なぜこうなのだろう。

マルクスの価値論、労働論、再生産論、、それらのカテゴリーは大学で必要十分に学んだはずだ。大学教授になるくらいだから当然だろう。だが、マルクス的なセンスとインスピレーションを感じさせる論評に出会わない。目の前の現実をマルクス的に解読しようとして説得力を作った例を知らない。経済学らしい経済学が日本にない。マルクスの基礎を得心させる社会科学的な言論に遭遇しない。マルクス特有の、あの皮肉と諧謔と修辞の表現スタイルを真似する者、真似できる者がいない。マルクス的な思考の力業で本質を射抜き、それを科学の神に捧げようとする碩学や俊秀がいない。この不満を感じ続けて何十年になるだろう。10年ほど前だったか、マルクスの知識と教養はラテン語になってしまったと書いたが、もはやマルクス語を話せる者が一人もいなくなった感がする。マルクスの文化がない。日本では、左翼系と目される現役の職業学者が口角泡を飛ばして喋々している話題が、ジェンダーであり、マイノリティであり、LGBTである。いわゆる脱構築方面の関心事であり、今日も明日も、男性器を付けた「女性」が女子トイレや女風呂を利用する聖問題をめぐって高尚な神学論争を続けている。

一方、アメリカでは、10年前のNYのデモで、若者が「労働者階級は団結しなければならない」と書いたプラカードを掲げて行進していた。ズコッティ公園では「階級闘争」と書いたサインボードが散見された。「資本主義」を批判するメッセージを書したバナーも多かった。アメリカではマルクスの言葉が生きている。マルクス語を政治主張の発信に使っている。マルクスの哲学が社会を認識し批判する思考の枠組になっている。文化としてバイタルだ。だから、だからこそ、彼らは政治を変え、政治を動かし、最低賃金引き上げを達成できているのである。階級闘争して陣地を前進させているのだ。