2021年10月16日土曜日

「成長戦略」の誤解と詐術と逡巡 - アベノミクスの「成長戦略」とは~(世に倦む日々)

 この25年間に米国は3倍、英国は2・5倍、フランスとドイツは2倍に経済規模(GDP)を拡大させましたが、日本は世界で唯一この25年間ゼロ成長でした。それは竹中平蔵の構造改革と安倍のアベノミクスが、「こうすればマイナス成長できるという経済失政の見本だった」ためと「世に倦む日々」氏は述べています。
 アベノミクスの「成長戦略」で策定された中身は資本家のための好環境を整備するという政策小泉・竹中路線の構造改革規制緩和の延長)資本にとっては天国のような政策環境であったものの、それは労働者への苛斂誅求と収奪生み出されたもので、国民の賃金は減らされ 日本経済の個人消費は傷衰えたのでした
 日本では、早くから「経済が右肩上がりに進み続けるというのは幻想」だとする言説が支配的になっていて、この4半世紀そうした観念の中に閉じこもっているうちに、資本の側はやりたい放題で、年間10%ずつ内部留保を増やす一方で前述の通り経済規模は完全に萎縮し、この20年民間企業の「時給」は、韓国2・55倍、英国1・87倍、米国1・76倍と増加しましたが、日本は唯一0・91倍に低下しました。
 世に倦む日々氏は、革新政党を含めて経済成長をそもそも悪として拒絶し国民経済の拡大を嫌悪し、ゼロ成長が続くことに不具合を感じることがなかったことが、この事態を招来させたとして、前述の・仏それに韓国などが成長したのは別に何か特別な「成長戦略」を立案して政策を成功させたからではなく、普通にやっていただけで、普通に政府が経済運営していれば25年間でGDPは2倍3倍に成長するのであると述べています
 実際アベノミクスの公共投資は民主党政権時代のそれよりも貧弱で、18年まで実質GDP成長率への寄与はゼロで、その経済政策には個人消費とGDPを拡大させるケインズ的な景気刺激策の要素はなく、逆に消費税を14年に8%に、19年に10%に2度も引き上げて税率を2倍にし医療や介護の負担も次々引き上げ、弱者庶民の生活を奪い社会保障を自己責任の体系にはめこんでいったのでした。
 日本だけが成長しなかったのは、小泉・竹中構造改革とアベノミクスによって、配当金を上げ、役員報酬を上げ、内部留保を増殖するという「マイナス成長戦略の処方をしていたからで、「毒薬をやめて正常な薬を飲めば、即ち内部留保を労賃に吐き出、非正規を正規に戻せば、傷んだ経済は元の健康体に戻る。特別な戦略など必要ない」と述べています
 ブログ記事「「成長戦略」の誤解と詐術と逡巡 - アベノミクスの「成長戦略」とは何だったのか世に倦む日々)を紹介します。
 ここではグラフを1枚紹介していますが、原文には他にも多数のグラフ等が掲載されています。興味のあるかたは原文にアクセスしてご覧になってください。
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「成長戦略」の誤解と詐術と逡巡 - アベノミクスの「成長戦略」とは何だったのか
                            世に倦む日々 2021-10-15
14日に衆院が解散、選挙戦本番に突入し、夜の民放の報道番組に党首が集結して政策論争を戦わせている。あと16日後に投票があって結果が出る。今回の論争のテーマは経済政策で、成長と分配をめぐるエコノミクスの議論に焦点が当たっている。議論を聞いていると、基調として、アベノミクスは失敗だったという見方が支配的で、岸田文雄の中途半端で空疎な口上も含めて脱アベノミクスの方向性が共通認識になった感が強い。結構なことだ。ただ、各党の党首たちの議論で残念なのは、政策論の前提にGDPの認識と視点がないことである。GDP論を回避している点だ。「成長」という言葉は飛び交うが、GDPすなわち経済規模の問題について言わず、GDPが何によって構成されているかを説明しない。経済成長とは何かという経済学上の概念が曖昧になっている。この点は、斎藤幸平も同じだが、野党の党首たちも同じ誤解あるいは混乱の中にあり、彼らの主張を国民に分かりにくくさせている要因になっている。野党は、経済成長・GDP拡大を善として思考整理できていない

竹中平蔵の構造改革と安倍晋三のアベノミクスは、どちらも新自由主義の政策体系だったが、売り文句としては経済成長をアピールし、これこそ成長のための処方箋だと国民に説法し、それを信じ込ませて支持を得ていた。実際には、日本は世界に稀な25年間ゼロ成長を結果させ、人類史に残る不名誉な「奇跡」を達成してしまっている。竹中平蔵の構造改革と安倍晋三のアベノミクスは、こうすればマイナス成長できるという経済失政の見本だった。だが、それを国民が見抜けず、選挙の度に安倍晋三が勝ち続けたのは、野党の側に経済成長を積極的に導く対案がなく、アベノミクスを各論的一面的に批判するだけで、夢のある前向きで説得的なマクロ経済の構想とモデルがなかったためである。現在も基本的にその愚が続いていて、野党のマクロ政策の軸心は、国債を大量発行して財政出動で格差の弊害を埋めるというメッセージに収斂している。平面的というか、視野が狭く、マクロ経済が立体的に捉えられていない。この四半世紀に、米国は3倍、英国は2.5倍、フランスとドイツは2倍に経済規模を拡大させているという事実認識が欠落している。

アベノミクスの3本の矢の3本目は、成長戦略という呼び名で柱が立っていた。その中身が何だったかについて、おそらく明解に概説できる人は少なく、正確に理解している者も少ないのではないか。「世界で一番企業が活動しやすい国」という標語が副題として添えられたこともある。要するに、アベノミクスの「成長戦略」で策定された中身は、構造改革であり、規制緩和であり、小泉・竹中路線の延長で、資本家のための好環境を整備するという政策に尽きた。それは、資本の成長戦略だったのである。そして、実際に資本セクターは絶倫の成長運動を遂げ、内部留保は年10%アップの増殖を続ける成果を出した。看板に偽りなしで、資本にとってはアベノミクスは天国のような政策環境だったと言える。だが、アベノミクスの「成長戦略」はGDPを増やす効果も作用もなく、国民経済を拡大循環の経路に繋げられるものではなかったのだ。なぜなら、その「成長戦略」は労働者への苛斂誅求の連続と収奪の堆積であって、そのため、賃金抑制と負担増加が重なり、消費が伸びず、個人消費が低迷・萎縮する構造が固まったからである。日本経済の個人消費は傷んで衰えた。

アベノミクスの「成長戦略」は、エコノミクスの中身としては、国民経済全体をマイナス成長に引っ張る政策群であり、真相は「逆成長戦略」だったのだ。だが、このことが正しく世間に伝わってないのには理由があって、アベノミクスを批判する側の意識において、経済成長=悪という固定観念があり、経済成長というものを是として正面から捉える発想がなく、その理論的立地から「アベノミクス成長戦略」のカタログに関心を向けることがなかったからだ。無視した影響なのだ。批判側(左翼)は対案など考える動機に至らなかったのである。経済成長をそもそも悪として拒絶し、国民経済の拡大を嫌悪し、ゼロ成長が続くことに不具合を感じることがなかった。むしろゼロ成長を歓迎する態度だったから、経済成長のための対案を探す必要など感じなかったのだ。「右肩上がりの時代は終わった」と言い捨て、「もう昔の高度成長の時代じゃない」「夢よもう一度のオヤジじゃない」と嘲笑する言説で切り捨てていた。そうした非経済学的な姿勢で終始したため、「成長戦略」というネオリベ語は批判なく世間に浸透したのである。アベノミクスの歪んだ意味で定着してしまったのだ。

すなわち、今日、経済政策で成長戦略と言えば、経済成長を実現するために何か新規の産業開発や規制改革をしなければならないという認識になっている。その見方が常識になっていて、新しい国家プロジェクトに大規模投資をすることが成長戦略の中身だと誰もが勘違いしている。その意味で成長戦略の語を用い、経済成長のためにはその要件が必須だと思い込んでいる。とんでもない。誤解と無知もいいところだ。米国が経済を3倍に、英国が2.5倍に、フランスとドイツが2倍にしたのは、何か特別な「成長戦略」を立案して政策を成功させたからではない。普通にやっていただけだ。普通に政府が経済運営していれば、25年間でGDPは2倍3倍に成長するのである。むしろ事態は逆で、日本だけが「マイナス成長戦略」の処方をしていたから、25年間ゼロ成長という奇跡が発生したのだ。治療薬だと騙されて、20年間毒薬を服用させられたから、小泉構造改革とアベノミクスの毒薬の点滴を続けたから、個人消費を伸ばせない国民経済になったのだ。毒薬をやめて正常な薬を飲めば、内部留保を労賃に吐き出せば、非正規を正規に戻せば、傷んだ経済は元の健康体に戻る。特別な「戦略」など必要ない

ついでに、アベノミクスの1本目の矢と2本目の矢についても触れよう。「大胆な金融緩和」と「機動的な財政出動」の二つの柱である。アベノミクスの政策構想というのは、電通的なコピーワークの産物としては本当によく出来た傑作で、コンセプトは実にきれいに設計構築されている。見事で惚れ惚れする。だから、スティグリッツ(⇒ 経済学者も騙されたし、みんな騙されて支持し賛同した。ライターは狡猾な今井尚哉だろう。ノーベル電通賞である。天才の山師の仕事である。どこが山師だったかを言おう。1本目と2本目の矢は、外から見ると、これはケインズ経済学の経済政策に見えるのだ。実は擬態なのだが、ケインズの要素が柱で並んだような外観で説明されたから、そのため、それまでの主流派=新古典派=新自由主義から離れたようなイメージで捉えられ、スティグリッツなど良識派から一定の評価を得たのである。新自由主義、ハイエク・フリードマンの所論は「小さな政府」で、財政出動に消極的で、政府が市場に関与することを忌み嫌う、というのが一般的通念で、アベノミクスはそれとは反対の性格の像に見えた。いかにも脱竹中・脱小泉を訴求する演出が施され、宣伝工作が巧妙で、それゆえに多くの国民の期待を釣ったのである。

しかし、冷静になって思い出すと、経済学にはマネタリズムという言葉がある。検索で語義を引くと、「経済現象における『貨幣(マネー)』の役割を重視し、貨幣の量によってその他の経済上の変数も変化すると考える、経済学上の考え方のことです。 簡単に言えば、貨幣の量を増減させることで物価や失業率にも変化を与えることができる、と考える経済学の立場のことです」と説明が登場する。フリードマンの写真が添付される。何のことはない。第1の矢の「金融緩和」はマネタリズムの実践であり、新自由主義の政策手法そのものだった。その目的は、金融市場に過剰に円マネーを溢れさせて、株価を高騰させ高値維持させることと、為替を円安に持って行くことである。二つとも成功した。資本セクターに空前の好景気をもたらし、配当金を上げ、役員報酬を上げ、内部留保を増殖させた。内部留保は1.7倍に膨れ上がった。2本目の矢の「財政出動」は、これはストレートにケインズを特徴づける題目だけれど、実はその中身はとんでもない欺瞞だった。紙幅に余裕がないので、内容は詳しく検証している飯塚信夫の論稿をご参照いただきたい。アベノミクスの公共投資は、民主党政権時代のそれよりも貧弱で、2018年まで実質GDP成長率への寄与はゼロだったと結論している。

この総括と断言は、われわれの実感と合致するものだ。アベノミクスの財政政策は、個人消費とGDPを拡大させるケインズ的な景気刺激策の要素はなく、逆に緊縮政策の実質こそ強烈だった。消費税を14年に8%に、19年に10%に、二度も引き上げて税率を2倍にしている。医療や介護の負担も次々引き上げ、弱者庶民の生活を酷薄に奪い、日本の社会保障を自己責任の体系に純化して行った。それがアベノミクスの財政政策だった。毎年の計画実務を仕切ったのは麻生太郎である。まさしく看板に偽りありの「機動的な財政出動」であり、要するに嘘っぱちであり、「がまの油」のキャッチセールスのコピーだった。アベノミクスとは、第1の矢も第2の矢も第3の矢も、すべて新自由主義の中身であり、詐欺に満ちた壮大な新自由主義の政策体系だったのである。