2021年10月29日金曜日

核兵器廃絶「ネバーギブアップ」のバトン 坪井直さん死去

 被爆者運動を引っ張ってきた日本被団協代表委員で広島県被団協理事長の坪井 直(つぼい・すなお)氏が24日午前10時35分、貧血による不整脈のため広島県内の病院で死去しました。96歳でした
 20歳で被爆し、全身にやけどを負って死の淵をさまよいましたが、何とか命つなぐことができました。心臓病にがん、体中に残るやけどの痕。傷つき、老いた体を押し、文字通り命がけで二度と被爆者を生まないために闘い続けた生涯でした。
 中國新聞の2本の記事を紹介します。
 末尾に生前の動画(10分弱)のURLを掲示します。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
核兵器廃絶「ネバーギブアップ」のバトン 坪井直さん死去、闘い続けた生涯
                        増田咲子 中國新聞 2021/10/27
 「ヒロシマの顔」として、国内外で核兵器廃絶を訴え続けた坪井直さんが亡くなった。20歳で被爆し、死の淵をさまよいながらも何とかつないだ命。心臓病にがん、体中に残るやけどの痕。傷つき、老いた体を押し、文字通り命がけで二度と被爆者を生まないために闘い続けた生涯だった。 


 ことし正月、坪井さんから届いた年賀状に「本年限りであいさつを控える」とあった。その後、入院していると聞き、容体を心配していたところだった。
 2013年1月からの新聞連載「生きて」のため、1年近くにわたって広島県被団協の事務所や自宅で話を聞き、被爆証言の場に同行した。当時87歳。ユーモアを交えた語り口と、老いてもかくしゃくとした姿が今もまぶたに残る。あの甲高く大きな力強い声。一見元気そうな姿に「周囲から『化けもん』と呼ばれる」と冗談交じりに話したが、実際は被爆に起因するとみられる病に悩まされ続けた。
 76年前、原爆で大やけどを負った坪井さんは、似島(広島市南区)の臨時野戦病院に収容された。あふれかえる被爆者の中、捜しに来てくれた母の叫び声に、意識のないはずの坪井さんが、寝たまま手を挙げたという。故郷の音戸(呉市音戸町)に戻って母の介抱を受け、息を吹き返した。
 体が回復すると数学教員の道に進んだ。子どもたちからは親しみを込めて「ピカドン先生」と呼ばれ、教え子に被爆証言を熱心に聞かせた。貧血で入退院を繰り返し、3回休職しながらも中学校長まで務めた。
 平和教育には携わってきたが、それまで被爆者援護運動とは無縁だった。全国被爆教職員の会の会長だった故石田明さんに頼まれ、退職から7年後、広島県被団協の事務局次長に。その後、事務局長となり、被爆者の悲願だった被爆者援護法の成立を見届ける。やがて理事長に就任した。日本被団協の代表委員も務めた。力を入れたのは被爆体験の証言。世界を飛び回った。
 16年5月、原爆を落とした国の現職大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏と対面した後、表舞台に立つ機会が減っていた坪井さん。17年の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞に際したインタビューでは、こう答えた。「うかれとっちゃあいけん」
 唯一の戦争被爆国でありながら米国の「核の傘」に防衛を頼る日本政府に苦言を呈し続け、被爆地広島がもっと声を上げるべきだと説いた。
 「不撓(ふとう)不屈。Never give up!(ネバーギブアップ)」。長期取材の最後、坪井さんから一枚の書を頂いた。証言活動などで決まって口にしていたモットーともいえる言葉だ。「核兵器が廃絶されるのをこの目で見たい。でも私が見られなくても、後世の人が必ず成し遂げてほしい」。そう語っていた坪井さん。その願いのバトンを、私たちは受け取った。(増田咲子)


坪井直さん死去、96歳 広島県被団協理事長【動画】
                            中國新聞 2021/10/27
 被爆者運動を引っ張ってきた日本被団協代表委員で広島県被団協理事長の坪井直(つぼい・すなお)氏が24日午前10時35分、貧血による不整脈のため広島県内の病院で死去した。96歳。呉市音戸町出身。自宅は広島市西区。通夜と葬儀は25、26日に、故人の遺志で家族のみが参列して執り行われた。
 米軍が広島に原爆を投下した1945年8月6日、広島工業専門学校(現広島大工学部)の3年だった坪井氏は、爆心地から約1・2キロの広島市富士見町(現中区)で被爆。ほぼ全身にやけどを負った。御幸橋西詰め(中区)付近に避難し、小石で地面に「坪井はここに死す」と書いたという。広島湾沖の似島(南区)の野戦病院に収容された後、母親が見つけて呉市音戸町に連れ帰ったが、同年9月25日まで意識が戻らなかった。
 その後、中学校の数学教員として教壇へ。生徒に被爆体験を語り、「ピカドン先生」とも呼ばれた。一方で、後障害の再生不良性貧血症やがんなどで入退院を繰り返し、危篤状態に3回陥りながらも奇跡的に回復した。
 86年3月、安佐南区の城南中校長を最後に定年退職した後、被爆者運動に関わるようになった。94年に県被団協事務局長となり、2004年に理事長に就任。日本被団協では00年から代表委員を務めた。「ヒロシマの顔」として、10年に核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて訪れた米ニューヨークなど国内外で被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴えた。
 運動を通じて被爆者援護の拡充に尽力。09年には、日本被団協が主導した原爆症認定集団訴訟の終結へ向け、麻生太郎首相(当時)との確認書に署名した。16年に現職の米大統領として初めてオバマ氏が広島市を訪れた際は平和記念公園(中区)に招かれ、手を握りながら「核兵器をゼロにするため、ともに頑張りましょう」と語り掛けた。
 つぼい・すなお 広島工業専門学校(現広島大工学部)卒。在学中に被爆し、戦後は中学教師や校長を務め、生徒に被爆体験を語った。退職後の1993年に広島県被団協事務局次長となり、94年に同事務局長、2004年に理事長となった。00年からは日本被団協の代表委員も務めた。11年に谷本清平和賞、18年4月には広島市名誉市民称号が贈られた。呉市音戸町出身。
      【動画】 https://youtu.be/6R7_puk8o0o 9:52