2021年10月13日水曜日

戦時中の国民学校は「死のみちを説きし学舎」だった(澤藤統一郎氏)

 戦中のことを知る人たちが次第に少なくなっていくことは、人間には寿命があるので止むを得ないこととはいえ何とも残念なことです。いまや戦争の悲惨さを知らない人たちが大半になりました。戦争を放棄した憲法の改正を叫び軍備の拡張を主張する人も一定数出て来ています。彼らは戦争の悲惨さを知っているのでしょうか。

 そういう人たちは、例えば台湾有事にの際には米国に従って中国と戦火を交えることを辞さないと主張します。そうなれば日本が火の海になることを知っているのでしょうか。
 自民党などには日本会議や日本会議国会議員懇談会に所属している議員が多く、そうした人たちは愛国心の発露とばかりに毎年揃っての靖国参拝を繰り返しています。国のために亡くなった英霊に哀悼の意を表するということですが、戦前、戦中において靖国神社がどんな役目を果たしてきたのかについて無頓着であるなら大いに片手落ちです。
 国が絶対主義的天皇制の下で国民を戦争に駆り立てるには、やはりそれなりの舞台が必要で、それこそが靖国神社だったのでした。
 当時の国民学校の一日は、天皇のご真影と教育勅語を安置する奉安殿前に整列し、まず皇居の方角に、次に奉安殿に向かって最敬礼し、その後校長先生が「靖国神社に祭られるような死に方をしよう」といった話をすることで始まったということです。
 国民を死へと誘導した教育の中心に靖国神社があったのでした。
 「澤藤統一郎の憲法日記」に、「戦時中の国民学校は、『死のみちを説きし学舎』だった」とする記事が載りました。内容は87才女性の戦時の学校生活を回想した貴重な証言です。
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戦時中の国民学校は、「死のみちを説きし学舎」だった
                   澤藤統一郎の憲法日記 2021年10月11日
「南日本新聞」は鹿児島県の地方紙。発行部数は25万部を超えるそうだ。九州の地方紙としては西日本新聞に次ぐ規模だという。そのデジタル版の昨日(10月10 日)11:03の記事を知人から紹介された。おそらくは、本日の朝刊記事になっているのだろう。
  https://373news.com/_news/photo.php?storyid=144583&mediaid=1&topicid=299&page=1
 タイトルが長文である。「教室で直された兵隊さんへの手紙。『元気にお帰りを』が『立派な死に方を』に。国民を死へ誘導した教育。今思えば『洗脳』としか言いようがない〈証言 語り継ぐ戦争〉」というもの。
 内容は、87才女性の戦時の学校生活を回想した貴重な証言。「兵隊さんに、立派な死に方を」といえば靖国問題だ。教育や靖国や戦争に関心を持つ者にとっては見過ごせない記事。このような戦争体験を語り継ぐ努力をしている地方紙に敬意を表したい。

 証言者は、霧島市隼人町の小野郁子さん(87)。「戦争中の学校教育を『死ぬための教育だった』と振り返る」と記事にある。
 最初に、今年戦後76年目の夏に詠んだという、この人の2句が紹介されている。
 「少年の日の夢何処(いずこ)敗戦忌」
 「死のみちを説きし学舎(まなびや)敗戦忌」
「死のみちを説きし学舎」という言い回しに、ドキリとさせられる。
 以下、記事の引用である。

「43年4月、家族で(鹿児島県内)牧園町の安楽に引っ越した。中津川国民学校に転校。4年生だった。
 44年からは町内の全ての国民学校に軍隊が配置され、教室が宿舎になった。中津川には北海道部隊と運搬用の馬、「農兵隊」という小学校を卒業したくらいの少年の一団がやって来た。九州に敵が上陸する時に備えた戦力の位置づけだった、と戦後になって聞いた。
 当時、私たちの一日は次のように始まった。ご真影と教育勅語を安置する奉安殿前に整列。まず皇居の方角に、次に奉安殿に向かって最敬礼。その後、校長先生が「靖国神社に祭られるような死に方をしよう」といった話をした。似たような言葉を、日に3度は聞いた
 授業らしい授業はほとんど無くなっていたが、教室でみんなと戦地の兵隊さんに手紙を書いた日のことをよく覚えている。
 「国のためにいっしょうけんめい戦って、元気でお帰りください」という文を「天皇陛下のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたをしてください。会いに行きます」と書き直すよう指導された。どんな死に方か分からなかったが、言われるがまま書き直した。今思えば「洗脳」としか言いようがない。
 国民を死へと誘導した教育の中心に、靖国神社があったのは事実だ。平和の実現のために選ばれたはずの政治家が靖国神社に参拝する姿を見ると、「もっと歴史を知ってほしい」と憤りを感じる。
 授業の代わりに割り当てられていたのが、食料増産のための開墾や、戦死者や出征の留守宅の奉仕作業だった。真夏のアワ畑の雑草取りのきつさは言葉にできない。
 農作業中に敵のグラマンに襲われたことが記憶するだけで3回ある。44年の夏が最初だった。犬飼滝の上にある和気神社右手の学校実習地で、サツマイモ畑の草取りをしていた。午前10時ごろ、見張り役の児童が「敵機襲来」と叫んだ。顔を上げると、犬飼滝の東の空にグラマン1機が見えた。
 機銃掃射が繰り返され、私は畑の脇の小さな杉の根元に頭を突っ込んで、ただただ震えていた。近くの旧国道を通り掛かった女性が即死し、はらわたが飛び散った。その道は、後に高校の通学路に。血の跡が残るシラス土手の脇を通るたび胸が痛くなった。
 軍歌を歌わなくてよくなり、自由に好きな絵が描けるようになった時、改めて戦争が終わったと実感した。」

 特殊な立場にある人の特殊な体験ではない。おそらくは、当時日本中の国民学校の学校生活がこうだったのだろう。「死のみちを説きし学舎」だったのだ
 「生きろ」「生きぬけ」「生きて帰れ」という呼びかけは、人間としての真っ当な気持の発露である。が、10才の国民学校4年生に教えられたことは、「国家のために死ね」「天皇のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたを」という、「死のみち」であった。
 国民を死へと誘導した教育の中心に、天皇があり靖国神社があった。恐るべきことに、「今思えば「洗脳」としか言いようがない教育」が半ば以上は成功していた。「天皇のために死ぬことが立派なことだ」と本気で思っていた国民が少なからずいたのだ。天皇も靖国も、敗戦とともに本来はなくなって当然の存在だったが、生き延びた。そして、さらに恐るべきことは、あの深刻な洗脳の後遺症が、いまだに完全には払拭されていないことなのだ。