2022年9月6日火曜日

統一協会 闇の実像 第1回(赤旗日曜版)

 4日付赤旗日曜版に「統一協会 闇の実像 第1回 自民との癒着の原点『勝共』 京都の街が無法地帯と化した」が載りました。統一協会の闇の部分のリポートです。

 統一協会が1964年に日本で結成されてから、岸信介らの助力を得て真っ先に作られたのが国際勝共連合(1968年結成)で、それは統一協会と表裏一体をなすものでした。そして1970年の京都府知事選で、革新府政を潰すために精力的な宣伝活動を行い注目されました。
 1978年の京都府知事選ではさらにエスカレートして、膨大な宣伝ビラによるねつ造の反共大宣伝を行った上に「特殊部隊」による暴力事件のでっち上げまで行いました。
 宗教ジャーナリストの柿田睦夫氏元「赤旗」記者)が伝えました。
 今後随時掲載されるということです。
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統一協会 闇の実像 第1回
自民との癒着の原点「勝共」 京都の街が無法地帯と化した
                    しんぶん赤旗日曜版 2022年9月4日号
 自民党との底なしの癒着が明らかとなっている統一協会(世界平和統一家庭連合)1980年前後から統一協会を取材してきた宗教ジャーナリストの柿田睦夫氏元「赤旗」記者知られざる統一協会の闇をリポートします随時掲載。第1回は、自民党と統一協会の癒着の原点である「勝共」です。
      かきた・むつお=宗教ジャーナリスト1944年高知県生まれ。「京都民報」
              記者から「しんぶん赤旗」社会部記者 (2011年退職)
KCIAと深い関係
韓国生まれの謀略組織
 単なる反共主義ではなく、共産主義思想そのものを抹殺する。それが統一協会のいう 「勝共」です。
 統一協会の教理解説書『原理講論』は「第三次大戦に勝利して共産主義を壊滅させ・・・理想世界を実現しなければならない」と述べています。書の出版は66年。韓国は朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権の時代でした。統一協会はこの政権にとり入り、KC(韓国中央情報部)につながって動くことで、その反共謀略性を強めたと伝えられています。

勝共連合を結成直後の
70年京都知事選で注目
 統一協会が日本に国際勝共連合を結成したのは68年。まもなく、右派政治勢力に注目される存在となります。皮切りは結成2年後の京都府知事選
 「ポクが彼らの行動力に感心したのは京都府知事選のときだ。実によく働いてくれた。できたら自民党に入党させたい。そして党青年部に筋金を入れてもらいたい」
 自民党の辻寛一(かんいち)党全国組織委員長(当時)の言葉です(『週刊文巻』70年10月5日号)。彼らとは勝共連合のこと。70年4月の知事選がその舞台でした。
 「憲法を暮らしの中に生かそう」の理念を掲げ、地方自治の灯台とも評された民主府政の6期目を目指す選挙。社会党(当時)・日本共産党と府民の共闘組織が推す蜷川(にながわ)虎三知事と、自民党・公明党・民社党(当時)と財界が推す候補の一騎打ちでした。
 当時はまだ選挙の自由が相当保障され、過度のビラ規制もない時代。双方が選挙母体の機関紙を配って府民の信を問うという選挙戦でした。
 自公民派は告示前に蜷川府政を批判する『府民新報』号外を14号まで全戸配布し、選挙本番のビラをあわせて50万枚を配ったそうです。50万枚のうち「45万枚は公明党の手で、残りの5万枚が勝共連合によって配られた」と『朝日ジャーナル』(70年9月20日号)が伝えています。
 このとき勝共連合は結成から2年目。一戸残らず最後の一枚まで配り切るというその働きぶりが「自民党に入党させたい」と評価されたのです。ただしこの時は、自公民派がつくったビラを配るという、つまり手足となって選挙を手伝うという役まわりでした。そんな実績を重ねたうえで、反共・謀略という本性を一挙に表面に出してきたのが78年の京都府知事選でした

78年京都知事選で暗躍
ねつ造の反共大宣伝
 「これが勝共連合なのか」
 当時、筆者は「京都民報」記者。うわさに聞いてはいたけれど、彼らの姿と行動を見て正直、あぜんとしました。
 蜷川民主府政の継承的発展をめざす杉村敏正氏に対して、自公民は参院議員の林田悠紀夫氏を擁立。社会党衆院議員が割り込んで立候補したことが、自公民派にとって好機となりました。総力態勢に組み込まれたのが勝共連合です。
 当時、自民党府連会長だった前尾繁三郎元衆院議長が、回顧録『政治家の方丈記』(81年)にこう書いています。
 「これ(共産党)に対しては勝共連合の協力を求めて対抗した
 自民党の要請で京都入りした勝共連合。大学の原理研究会や統一協会の献身者(学業や仕事を辞めて集団生活する信者)から選ばれたメンバーです。統一協会教祖の文鮮明が創立した「世界日報」(78年4月8日付)は「19台の宣伝カーと2千人の会員を動員」し、「機関紙号外9種類」「京都には約280万枚」を配ったと書いています。
 全戸配布され、街頭でバラまかれた勝共連合機関紙「思想新聞」号外。その見出しは「共産党の殺人癖」「リンチ殺人がゾロゾロ」・・・とうそとねつ造で塗り固められたものでした。
 黒い大型宣伝車が大音量で走り抜け、京都市中心部の四条河原町を「宮本(顕治・日本共産党委員長=当時)を証人喚問へ」のゼッケン、白ハチマキ姿で埋めつくしました。杉村候補のビラを配る女性の耳もとにハンドマイクをつきつけて「日共粉砕」「人殺し」とどなりつづける・・・。京の街は無法地帯と化しました。

謀略の「特殊部隊」作戦
暴力事件をでつち上げ
 「思想新聞」(同4月21日付)は「特殊部隊を作る。相当効果が出る」と書いています。「特殊部隊」とは何か。「京都民報」(同5月7日付)がその一端を伝えています。筆者自身も目撃したことです。
 「(杉村陣営の)オレンジバッチをつけたAさんが通りかかったところ勝共連合の男にツバをはきかけられ、思わず左手でよけようとしたら、突然男が倒れ、その途端『見たぞ見たぞ、共産党が暴力をふるった』と四方からとり囲まれ、そのまま派出所へ連れ込まれ 「(勝共連合の)男は宣伝カーにもどり、左手人さし指を自分の歯でかみ切り、目をつりあげて『暴力をふるわれた。傷害罪だ。現行犯で逮捕せよ』と、そぱにいた警官に叫ぴました

 「特殊部隊」の手口は、京都府知事選の直後(78年6月)にあった東京・立川市議選にもそのまま持ち込まれました。翌79年の東京都知事選の最終日、革新統一の太田薫候補が新宿駅頭で投石されて負傷するという事件もありました。この騒ぎのとき、対立する自公民派の宣伝単を先導してきたのが勝共連合幹部だったことも確認されています。(「赤旗」を同4月8日付)
 78年京都府知事選で演じた勝共連合の役割は何だったのか。ねつ造で塗り固めた反共宣伝や謀略的行動で杉村陣営の運動員の足を止め、泥仕合に持ち込んで選挙の争点を見えなくさせる。つまり〝選挙を汚す″。それが彼らの使命だったといえます。京都の政財界の舞台裏で動きフィクサーと呼ぱれた人物は筆者の取材に「期待通り。ちょっとやりすぎもあったけどなあ」と語りました。

自民党内部に急速浸透
〝草の根″で組繊づくり
 以後、勝共連合は急速に自民党内部に浸透します。同時にハデな街頭活動から日常活動へとシフトしていきます
 東京都知事選と同じ79年には勝共連合を母体とするスパイ防止法制定促進国民会議を結成。日本会議の前身である日本を守る会(74年結成)などが主力となって「草の根」運動を展開した元号法制化運動にならい、地方議会での促進決議をつみ重ねて運動を組織するという戦略でした。
 運動を通して接触した地域保守層をとり込んだ勝共連合の「支部」づくり。支部の役員には自民党や保守系地方議員らをすえ、実際、統一協会との関係をよく知らないまま入会し役員に就いたという地方有力者も少なくありませんでした統一協会による実質の勝共連合と、統一協会色をあまり出さない地域運動体という看板の勝共連合-という二重構造といってよいのかもしれません。
 勝共連合「支部」のまわりに、より幅広い層の取り込みをめざした「郷土大学」運動にも着手。「思想新聞」(92年1月1日付)は91年の活動について「7支部が結成された。これによって全国の支部は539支部となった」、郷土大学は「全国185の支部で開校」したと書いています。
 今日、郷土大学は消滅したとみられますが勝共連合「支部」は継続。各地の催しの発起人に加わるなど一定の〝市民権″を保持しています
                          宗教ジャーナリスト・柿田睦夫