2022年9月10日土曜日

飯田市の平和祈念館で拒否された「元731部隊員の証言パネル」展示

 長野県飯田市で長年の市民やかつての第二次世界大戦の犠牲者やその遺族に要望されていた平和祈念館の建設が完成しました。ところが戦時日本の最大の犯罪行為であった731部隊について、県内出身の部隊員による「証言パネル」等の展示公開まれるという事態が発生しました。

 市の担当者は「731部隊については、まだ国が公式に認めていない。祈念館は市の公的施設なので、国(政府)が公式に認めた範囲のものを基準にした」と、公開しない理由を述べているようですが、仮にそうであるとしても、当事者による第1級史料はそういう国の認識を改めさせる価値を持っている筈なので素直には頷けない話です。
 レイバーネット日本が紹介しました。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
長野県飯田市の平和祈念館で起きていること/拒否された「元731部隊員の証言パネル」展示
                       レイバーネット日本 2022-09-07
情報提供:  
 長野県飯田市で平和祈念館(写真)が開館しました。飯田市では長年の市民やかつての第二次世 界大戦の犠牲者やその遺族によって、平和祈念館の建設が要望され、その完成を見たので すが、この平和祈念館では最大の日本の犯罪的行為であった731部隊の展示や公開を拒む という事態が発生しております。言うまでもなく、たくさんの犠牲者を出した第二次世界大戦ですが、被害の歴史は語られるものの、加害の歴史はほとんど無視されることが多いのはご存じの通りです。
 そこで、私たち(日中口述歴史・文化研究会)では加害の歴史を含めて歴史は語られなければならない、と考えました。
 以下は、「戦争と医学医療」の事務局原さんからのアピールです。ご検証の上、これからの運動を作って行くにあたって、ご協力、抗議行動にお力を添えていたけますよう、お願い申し上げます。とりわけ長野県にお住まいの方々への拡散をお願い致します。(森)
               ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長野県飯田市の平和祈念館で起きていること〜拒否された「元731部隊員の証言パネル」展示
                                         2022.9.5  原 文夫
 これは、現時点で私が把握している範囲の動きと、私の見解である。
●新聞報道で知る
 8月17日、信濃毎日新聞などが、長野県飯田市に今年5月オープンした平和祈念館が、市民から寄せられた戦争の遺品や証言のうち、県内出身の元731部隊員による「証言パネル」等の展示を拒んでおり、資料を収集してきた市民や、証言の展示を了承してきた元731部隊少年隊員の清水英男さん(92歳)たちは、「割り切れない思いでいる」と報じた。報道では飯田市の担当課は、「731部隊の事実関係をめぐってはさまざまな議論があり、公の施設としての展示は難しい」とのことである。

 私は長野県の南信地域が郷里で、「戦争と医学医療研究会」の会員として731部隊の問題に関わってきており、また以前から飯田市に「平和のための戦争展示場」設置を求めて活動を続けてきた市民の方や、元731部隊少年隊員だった清水英男さんとは知己であったことから、看過できなかった。
 元少年隊員だった清水英男さんには、2017年4月に戦医研の当時の西山勝夫・事務局長と原(当時事務局次長)が長野県飯田市の清水さんの友人(久保田昇さん)宅へ出向いてインタビューさせていただき、その内容は2018年5月発行の戦医研会誌(第18巻2号)で紹介してきた。
 清水さんは、1945年3月に14歳でハルビン・平房の731部隊へ「最後の少年隊員」として行き、ソ連の参戦で8月14日に平房を脱出、8月30日に無事帰郷している。この時の体験に関しては、ほとんど他人に話すこと無く経過してきたが、2016年になって初めて地元の戦争展・ピースミーティングで明かし、以後、様々な平和の集い等で証言して来られた。また、私に清水さんのことを知らせていただき、インタビューの労をとっていただいた久保田昇さん(93歳)は、元教師で、以前から地元の「平和のための戦争展」を担って来られた方である。
●地元の関係市民から聞く
 私は8月21日、久保田さんに電話で話を聞いた。久保田さんによると、
―30年ほど前、地元出身の元731部隊員・胡桃沢正邦さんが、奥さんを亡くされた後一大決心して731部隊・平房での体験を証言された。胡桃沢さんは、そこで病理解剖の石川・岡本班(石川太刀雄丸、岡本耕造)に技手として配属され、300人を超える「マルタ」と言われた中国人捕虜などを生体解剖してきたこと、それは人間として許されない行為だったと証言し、二度とあのようなことを起こしてはいけないと語った。その取り組みを当時の飯田市は後援してくれていた。胡桃沢さんと親しかった久保田さんは、胡桃沢さんが亡くなる前に、胡桃沢さんが平房の731部隊本部から持ち帰っていた731部隊の資材(使用していた小手術器具や医薬品、石井四郎の印判が捺されてある医学書・・)等の保管と「証言」の扱いを託された。
 久保田さんらは、貴重なこれらの遺品類を「戦争の証言」として、とりわけ「加害の証言」として遺し、多くの人たちに見てもらえるため常設の展示施設を設けるよう運動し、飯田市の市議会に請願した。これは当時全会派一致で採択され、展示施設の開設が検討されてきた。そしてようやく実現にこぎつけることができた。市は平和祈念館の運営事務局を教育委員会とし、展示内容の検討を始めた。これには市民運動の側の久保田さん等も加わり、これまで収取してきた胡桃沢さんの遺品などと、胡桃沢さんが生前に行ってきた「731部隊での証言」や、現存されている元731部隊少年隊員だった清水英男さん(宮田村)の証言など長野県内出身の元731部隊員4人の「証言」を、パネルにして展示することを提起し協議していた。
 その後、新型コロナの感染が続き、会合などが難しくなる中で展示が始まった。しかし、祈念館の事務局である市教育委員会は、胡桃沢さんの遺品の731部隊で使用していた手術用具、医学書などは「久保田昇氏から提供」と書いただけで、何の説明もなく、更に胡桃沢さんや清水さんなどが、後世の人たちに知ってほしいと決心して遺した「証言」等は展示できないとした。この判断について市(教育委員会)は、「731部隊に関しては、客観的事実が(国として)認定されていない」との抽象的な説明を繰り返すだけ。久保田さんらが長年めざしてきたのが、戦争の歴史の真実を後世に伝えることだった。先の日中戦争・太平洋戦争で、日本人で310万人、中国などのアジアで2000万人以上が亡くなったが、その2000万人の多くは日本の侵略による被害者だった。これらの史実をきちんと認識し、二度と繰り返さないための教訓とするには、日本人の被害はもちろんだが、加害の真実も学ばなければいけない。そのための貴重な証言の一つである「731部隊員の証言」は展示には欠かせないとの思いがあった。
 久保田さんがこの間、市教育委員会のスタッフと展示に関して話してきて感じるのは、公共施設に市として展示する場合は、例えば先の戦争では「加害」や「南京大虐殺」などのワードは使いたくない・・といった雰囲気だという。
 高齢で耳が不自由な久保田さんは、しかし、「こんなことは断じて納得できないため闘っていくつもりであり、思いを共にしていただける方々と協力していきたい」と語った。
●市の担当者に電話確認
 続いて私は8月22日と23日に、飯田市の担当者に質問書をFAXした上で直接電話をし、「証言」をなぜ展示しないのか?その根拠・基準は何か?などを訊ねた。
 これに対して市の担当者は、「731部隊については、まだ国が公式に認めていない。祈念館は市の公的施設なので、国(政府)が公式に認めた範囲のものを基準にした」と繰り返すのみで、具体的にそれは、2003年10月の、野党議員の国会質問に対する小泉純一郎首相名の「政府答弁書」だと答えた。
 これは当時の川田悦子議員が提出した「質問主意書」への「答弁書」で、そこには「外務省、防衛庁の文書において、関東軍防疫給水部等が細菌戦を行ったことを示す資料は現時点では確認されていない」とし、「新たな事実が判明した場合は、歴史の事実として厳粛に受け止めていきたい」と書かれている。
●的外れな市の判断「基準」
 しかしこれは、私たちからみて看過できない重大な問題があると言わざるを得ない。
・大きく進んだ731部隊の実態解明
 第1に、731部隊に配属されていたことが「軍歴表」や「留守名簿」等で明らかな元隊員たちの写真や遺品、そしてギリギリまで悩んだ末に決断した「証言」はまさに貴重な歴史資料であり、過去の首相の一言の「答弁」(まともな調査をしたとは思えない不誠実なもの)が展示を拒否する理由になる道理はない。さらに、731部隊による細菌戦被害を受けた中国人遺族たちが1997年から東京地裁に提訴し、2007年に最高裁で結審した「細菌戦裁判(原告180人)」では、明治帝国憲法の「国家無答責」なる法理を根拠に原告敗訴となったものの、東京高裁は731部隊等の防疫給水部が生物兵器開発の研究・製造を行い、さらに中国の各地で実戦使用したこと、そして多数の死傷者などの被害を生んだ事実を認定し確定している。2011年に国立国会図書館関西館から発見された「金子順一論文」(東京大学の博士論文)は、石井四郎731部隊長の腹心だった金子軍医が、731部隊が中国各地で行った細菌戦攻撃の効果を「科学的」に検証しようとしていたことを示したものだった。また、731部隊など防疫給水部の膨大な名簿(留守名簿)が、2018年に国立公文書館から開示され、研究者の分析・解説が付されて出版社から順次復刻出版されてきた。加えて、小泉首相の国会答弁以降、731部隊等に関する研究は続いており、中国を含め多くの書籍も出版されていてもはや「細菌戦を示す資料は現時点では確認されていない」などと言えるはずもない
 731部隊は、1925年のジュネーブ議定書で国際的に禁止されていた生物・化学兵器を使用してきたことから、敗戦直後に戦犯訴追を逃れるために実験材料の人間(マルタと言われた中国人などの捕虜)を含めあらゆる物的証拠を焼却・抹殺・隠蔽し、さらに全隊員に厳格な生涯にわたる緘口を命じた。そのため、物的証拠が乏しいため731部隊の存在を否定する言説も執拗に流布されてきた。しかし、1949年のハバロフスク軍事裁判での元731部隊幹部等の証言が、旧ソ連の公開資料から、その音声記録なども明らかにされてきた2017年NHK「731部隊の真実」)等の様々な検証から裏付けが加えられ、もはや「なかった事」にはできない状況になっている。仮に2003年の小泉首相の国会答弁を「基準」としても上記のように外務省、防衛庁(現在は省)以外から確認された資料や、2003年以降に発見された多くの資料や研究等が、飯田市の言う「基準」の根拠の無さを示している。
・「証言」の重要性を使い分け
 第2に、市は、物的証拠はともかく、731部隊員の「証言」は「基準」に照らして確認できないため展示を認められない、との考えのようだが、これも全く道理がない。飯田市がかかわって力を注いで来られた満蒙開拓団の実態把握と後世への記録の継承という事業では、まさに当事者の「証言」が中心的な意味と価値をもっている。飯田市歴史研究所が、地元の元満蒙開拓団の方々(生還者)を丹念に訪問して収録した膨大な体験の口述記録は、オーラルヒストリーの金字塔だと言われている。命からがら、身一つで辛うじて帰還できた人たちの実態把握は、「口述」の収録がその大半をなしている。私は以前、飯田市の歴史研究所が刊行した『満州移民-飯田・下伊那からのメッセージ』(2007年)を読み、また、この地の満蒙開拓団員だった人達を丹念に訪問して、膨大な体験口述を(オーラルヒストリー)まとめた『下伊那の中の満州』も全巻購入して読み、さらに中国の研究者にも送るなどしてきた。日本で最大数の満蒙開拓団員を送り出し、結果、膨大な悲劇(被害。約半数が未帰還=死亡、残留婦人・孤児・・)を生んだ郷里の、こうした取り組みに注目してきた。そしてこれらには元開拓団員・生存者の夥しい悲劇(被害)の体験が記録されている他、「開拓」が中国の現地住民たちに多大な災厄をもたらした「加害」の苦い体験・記憶としても記されており、現代および未来への貴重な教訓となっている。

 731部隊に関しても同様で、一部の高級幹部を除く大半の元731部隊員たちは、気が付けば人道に反するようなことに関わらされ、緘口令を敷かれ、もし口外すれば「非国民」「裏切者」、あるいは「戦犯」と非難されるかもしれない恐怖を抱えながら戦後を生きてきた。その中で、次の世代以降が二度とこのようなことを繰り返さないためにと、意を決して行った稀有な元隊員の「証言」こそ、まさに貴重ではないか。繰り返すが、731部隊(石井四郎部隊長)は戦犯訴追を逃れるため、敗戦時にあらゆる物的証拠(人間のマルタも含め)を焼却・抹殺・隠滅し、さらに部隊員全員に生涯の緘口令を命じたため、明白な物的証拠は乏しく、さらにアメリカと生体実験等の「研究成果」と戦犯免責を取引した経緯から、日本政府は意図的に731部隊の問題を不問に付してきた。そうした中では、元隊員たちの「証言」こそ、極めて貴重な歴史資料となる。実際、飯田市に隣接する阿智村の満蒙開拓平和記念館でも、数多くの元開拓団員の「証言」がパネル展示され、さらに音声や映像で「証言」が残され、誰でもそれらを見聞きできる。また、その内容をどう受け止めるかはその個々人の主体的な判断によるが、これが公正な歴史の素材提示であり、未来に向けた正しい教育(社会教育)の在り方だろう。
・市祈念館の理念と矛盾
 第3に、今回のこうした市の対応は、飯田市自身が目指したはずの祈念館の理念・目的とも矛盾するものだと思う。市のホームページを見ると、「飯田市平和祈念館は、戦争の悲惨さや平和の大切さを学び、戦争の現実を語り継ぐことにより、平和な社会が続くことを切望する、多くの市民の願いによって開設されました」とあり、市民が収集した展示品を通じ、「内外の‟戦争の惨禍“の真実から一人ひとりが‟平和とは何か、そのために何をすべきか、何ができるのか”を考えて、次世代に平和の大切さを語り継ぎます」とうたっている。
 理不尽な「基準」を持ち出して「戦争の現実を語り継ぐこと」を封じ、「‟戦争の惨禍“の真実」を見えなくすることは道理が無く、せっかくの祈念館の価値を貶めることになってしまうのではないだろうか。
●問われる歴史への姿勢――展示実現を求めて
 私は飯田市の対応の背景には、恐らく過去の日本の戦争を美化し加害の事実を見ようとしない日本の政権と政治勢力の圧力や、それへの地方行政の忖度があると感じている。
 大変残念ですが、いま日本に過去の戦争での「加害の史実」を常設展示している公的ミュージアムはほぼ見当たらない。大阪市にある市のミュージアム「ピース大阪」には、かつて南京大虐殺や平頂山事件などの「加害の史実」の展示があった。しかし、これを「自虐的だ」「日本人の尊厳を傷つける」などと言う市長が誕生し、加害の展示類は2012年にすべて徹去されてしまった。現在、市民の有志でこれの復活を求める運動が続けられている。
 今回の飯田市平和祈念館の問題に対して、私たちは、地元の当時者の皆さんをはじめ、心ある多くの市民・団体と連携して、市が不当な展示拒否を撤回するよう申し入れ、粘り強く取り組んでいくつもりである。